刺青とタトゥー – 伝播と歴史

NHKで海外からの観光客の呼び込みについてのプレゼンテーションを見た。その中に、銭湯でタトゥーが入っている人たちを一律に排除するという話が出てきた。観光客が来ただけでこれだけ大騒ぎになるのだから、移民の受け入れなんか絶対に無理だろうなあと思った。

その中にオセアニアの女性が顔の刺青で差別されたという話が出てきた。その民族の間ではタトゥーには家紋としての役割りがあるそうだ。こうした伝統は太平洋沿岸に広がっており、かつての日本も例外ではなかった。中国の古い書物には倭人が刺青をしていたという記述があるという。台湾の原住民は今でも刺青が通過儀礼になっており、日本もこうした太平洋世界の一員だったということがわかる。

だが、日本での刺青はその後廃れてしまう。代わりに刑罰として刺青を入れるという伝統が生まれた。太平洋原住民の伝統がなぜ消えたのかはわからないが、刑罰としての刺青には「犯罪者は真っ当な人には戻れない」という意味合いがあり、大衆に対しての抑止力としての効果が期待されたのだろう。

ところがこれはいささか浅はかな考え方だったようだ。犯罪者たちは社会に受け入れてもらえないので、自分たちで集団を作るようになった。社会復帰を許さず犯罪者に差別感情を向けると、犯罪組織が定着してしまうのである。ならずものの集団は刺青を様式化して仲間のシンボルとした。日本人は自分のドメインに関しては真面目なので、刺青の様式は精緻化し芸術の域まで高められることになった。

こうした犯罪者を社会から排除する」という意味合いの刺青は西洋にも見られる。ドイツ人はユダヤ人を収容所に入れる前に番号を書いた刺青をした。家畜に焼印を押すような感覚だったものと思われる。きわめて残虐な行為だ。

だが、西洋の刺青は太平洋経由で持ち込まれた。タトゥーという言葉は太平洋語(もともとは台湾あたりが発祥とされる)由来だ。このように、西洋のタトゥーは冒険や蛮勇の印と考えられている。イギリス王ジョージ五世は日本人に刺青を入れさせたことで知られている。軍人として諸国を訪れたさいの「お土産」と考えられたようだ。ジョージ五世は横須賀でスカジャンを買うような感覚で刺青をいれたのかもしれない。アメリカでも軍人が海外赴任する前に勇気を鼓舞したり、愛国心を確かめるためにタトゥーを入れる伝統があったようである。

このように限定された人たちの間の流行りだったタトゥーが西洋で一般化するようになった経緯はあまりよくわかっていないようだが、一時の流行ではなく定着しており、アメリカでは5人に1人が刺青をしているという調査もあるそうだ。

思い浮かぶのはサッカー選手だ。もともと下層階級のスポーツだったサッカーが世界に広まる過程でタトゥーも広がったものと考えられる。今ではベッカムのような白人や日本人の間にも広まっている。ベッカムがファッションアイコンになる過程で若者にも影響を与えている。

日本の銭湯や地方自治体が刺青を一律に禁止するのは、個人で責任を負いたくないからだろう。「〜ということになっている」とすれば、個人の責任が減免されると考えるのだろう。確かに犯罪者の印である刺青の入った人たちが集まれば、普通の人たちは怖がって入らなくなるだろう。だが実際には刺青は多様化しているので一律にルールを作って解決することはできない。

これを解決するためには「担当者に権限を与えて現場で判断させる」必要があるのだが、権限移譲して責任を持たせるのは日本人が苦手とする作業である。現場の判断は「仕事を楽にする」ほうに働きがちで、現場の風紀の緩みや安全性の低下につながる。これは日本人が成果を末端の構成員には渡さないので、組織の責任を果たそうという気持ちが生まれにくいからだろう。日本人は自分のドメイン以外のことには極めて無関心なのだ。

だが、タトゥーと刺青が区別されないのも当然のことである。各地の歴史は結ばれており、複雑に反響し合いながら変化し続けている。太平洋の文化が西洋に広まり、日本の犯罪者組織の間で芸術の域にまで高められた刺青はイギリスの王様に影響を与える。それがサッカー選手を通じて日本に逆輸入されるという事態になっている。もう一つのルールだけで全てを規定することはできないのである。

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