表現の自由について説教する

百田尚樹さんという人が一橋大学の学園祭への出演をキャンセルされたようで、これについて局所的な議論が起こっているらしい。これを「表現の自由の圧殺」と言って擁護する人がいるとのことである。左翼の謀略だと騒いでいる人もいるらしい。

とても不毛な議論だが、なぜこれは不毛なのか整理してみたい。表現の自由が重要なのは。民主主義が一人ひとりの参加を前提にしているという前提が受け入れられているからである。特定の人だけしか意見が表明できないと、結果的に決まったことが歪んでしまう可能性があり、歪んだ決定は大抵なんらかの間違いを含んでいるのだろうというのが基本的な線である。

表現の自由を気にしない人は「俺の方が賢いから、相手の意見なんか聞かなくても正しい判断ができる」と考えている。しかし、安倍政権やトランプ政権を見ていると、その決定には穴がとても多い。トランプ政権は目の前にいる人にウケるために言ったことが、そこにいない人を怒らせている。本来なら他人の意見を入れて、その意思決定を間違いのないものにしなければならない。安倍首相に至っては批判や検証もすべて「印象操作」で片付けている。自分だけが正しくて相手は間違っているという確信があるのだろう。

ここで重要なのは、表現の自由が「言うこと」だけを指しているわけではないということである。つまり、聞くことも「表現の自由」に含まれているのだ。とにかく、表現の自由は「自分の言いたいことを一方的に捲(まく)したてる」ことではないということがわかる。

百田尚樹さんといえば、過去に特定の新聞社が潰れてしまえばいいといったことで知られている。自分が聞きたくないことは聞きたくないが、言いたいことは言いたいという人である。ということで、特定の人たちを集めて自分の考えを一方的に捲し立てても構わないわけだが、公の場に出てきて自分の表現の自由を主張してもあまり説得力がない。ということで、一橋大学の有志の判断は正しかったと言える。

さて、これについて百田さんを批判して終わりにすることもできるのだが、我々は何を学ばなければならないのだろうかについて考えてみたい。それは表現の自由を標榜する以上は「聞くための窓は開けておかなければならない」ということである。政治のような大きな問題に直面すると意見が固まってしまいがちだし、よく考えている問題ほど、自分の意見は変えにくくなる。が、時には努力して考えを変えることも必要なのではないだろうか。

表現の自由が大切なのは、多分我々は間違えることがあるからなのだ。つまり、自分が何を話すかというのは表現の自由のほんの一部にしか過ぎないのだろう。

逆に表現の自由を否定するということは、自分の意見をより良いものにするチャンスを逃すということになる。自分の考えが機能しているかどうかを検証する機会を失ってしまうのは、実はとてももったいないことなのかもしれない。

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