日本人は何人から集団なのか

先日来「日本人は集団で動く」と書いている。では、何人から集団になるのだろうか。




先日西友の前で水をかけられた。小学校高学年から中学生くらいの女の子が二人で水鉄砲で遊んでいたのだ。当然謝らないで水鉄砲で遊び続けていた。ここからいくつかの事がわかる。

水鉄砲で遊ぶということはこの女子二人の間に親密な関係があることになる。女子はふざけあいができて楽しいのだろう。が、周りの事は全く見えていないし迷惑がかかったとしても気にする様子はない。つまり、集団の倫理が社会倫理を超えてしまい周りが見えなくなっている。

ここでどちらかが「道端で水鉄砲で遊ぶのは良くないのではないか」などというとしらけてしまうだろう。また彼女たちの年齢から見ると日本人はかなり早い段階から内と外の区別を身につけることがわかる。

集団の迷惑行為は珍しくない。スーパーの通路の真ん中でおしゃべりに夢中になっている主婦とかあまり人通りのない公園の道端でタバコを吸っている高校生(男子)なども見かける。仲間内で許容されるルールみたいなものがあり周りが見えなくなってしまう人たちは珍しくない

おそらく日本人は二人以上から集団を作るのだろう。そして集団の規範は社会の規範に優先する。さらに日本人はかなり早い段階からこうした集団性を身につけるのだろう。

日本人は個人で公共と向き合わない。だから、集団を形成しないソーシャルメディアなどでは匿名でいることを好むのだ。これが実名制のSNSになると徒党を組んで個人を攻撃することになる。だから日本では実名でも匿名でも実は振る舞いはそれほど変わらないのかもしれない。

先日書いた文章に「個人でも不心得者はいる」というコメントをもらった。確かにその通りなのだが個人としてはとてもおとなしい。日本人が個人として不心得に振舞うのは何らかの集団性を獲得した時である。

戦時中の日本人は集団として極端な残虐性を見せた。これを上から押さえつけるために思想改造的な個人主義が持ち込まれたわけだが、憲法で個人主義を押し付けても日本人が基本的に持っている集団性を変えることはできなかった

結局、70年経って、個人では何も考えられないが集団ではとんでもない論理を展開し「障害者は死ねばいい」とか「生活保護は生きている価値がない」とか「外国に出自がある日本人の人権は制限されても当然だ」などという人たちが出てきた。こうした人たちはネトウヨなどと呼ばれるが、集団の理論に従って個人の怒りを他者にぶつける。

政治家も同じような思考形態をとる。稲田防衛大臣は統合幕僚監部と組んで情報を隠蔽しようとした。これは陸上自衛隊から見ればとんでもない裏切りだが、彼女たちにとっては秩序を守るための「正しい」判断だったのだろう。そのためには嘘をついても構わない。特区を作って獣医学部を誘致するのも今治市や安倍首相の友達のためには正義なのだから嘘をついても構わないのだろう。山本大臣は「外にばれないように加計学園の名前はぼかしていました」と堂々と主張している。

一方、これに対峙する人たちも集団の理論を使っている。これを打破するためには匿名の一人ひとりで注意しても無駄でありもっと大きい集団を作って周りから圧力をかける以外に解決の方法はない。これが「日本型炎上」のメカニズムなのだろう。

また仲間内のルールを優先することを「マイルドヤンキー性」などと言ったりするのだが、一部の人たちではなく、かなり広く受け入れられているのではないかと思われる。例えば夏休みの親戚の集まりで18歳くらいの男の子にお酒を飲ませたりする。これも厳密には犯罪行為だが犯罪だと思っている人はいないのではないだろうか。

Quoraを見ていると、日本人に相手にしてもらえないという悩みを持っている外国人が多いようだ。いわゆる外人ステータスというものである。Gaijinで検索すると多くの質問が寄せられている。日本人がGaijinという言葉で外国の人を区別するというのはよく知られているのだ。日本人が外人を締め出すのは彼らのルールを持ち込まれると困るからだろう。厚切りジェイソンはテレビで見ているから面白いのであって、仲間内のあれこれの「Why Japanese People」などと言われれば、3日で煙たくなるだろう。だから距離をおいて排除しようと考えるわけだ。

多様性を許容しない日本人にとって民主主義とは数だ。この中で結果を操作するためには、自分と対立しそうな人を排除してしまえばよいわけである。これもいわゆるネトウヨ性だが、安倍首相流に言わせれば「デモに参加する人たち」は一般人でもない「あんな人たち」なのである。それに追随する人たちも、反対する野党議員に「共謀罪でパクるぞ」などと言っている。

集団主義の国は日本だけではないので、これがすなわち「日本人だけの悪癖」だとは思わない。同じような傾向は韓国人にも見られる。日本人と韓国人はともに集団を作り、集団の中では日本語や韓国語で話す。韓国の場合には年齢に応じた序列があり、それに組み入れられてしまう。さらに、韓国人も「韓国語は外国人には話せない」という信じ込みがあるようだ。

例えば、彼らの韓国語に反応して韓国語で話しかけたりすると、しばらく沈黙が続いたあとで、何か恐ろしいものでも見るような顔でにらみ返されることがある。そのあとで、語尾を直される。韓国語にも敬語とパンマル(友達言葉)という区別があり、そのルールを外国人にも押し付けてくるのだ。さらに、年齢を聞かれる。年齢によって呼称や使える語尾が異なる。彼らの序列の中に組み入れられないうちは、コミュニティに入ることは決して許されない。

Hofstedeの指標で集団主義が強いとされる中華圏の人は「自分たちの文化はとても外国には理解不能だろう」と考えたりしないようなので、集団性とは違ったメカニズムがあるのかもしれない。日本も韓国も文化圏としては周縁にあたるので、周縁性が高い文化が集団主義に走るとこうした閉鎖性が観察できるのかもしれない。ローカルルールが広く通用しないことは意識しているのであろう。

Google Recommendation Advertisement



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です