日本人と古代の朝鮮半島利権

沖ノ島について冗談めいたエントリーを書いたことがある。沖ノ島は朝鮮半島(釜山)との直線距離にあったので、利権化されていたのではないかという他愛もない説である。世界遺産登録された結果検索が増え、このブログの中でも多く読まれる記事になってしまった。

いい加減な記事なのだが、本当に日本人はまっすぐに朝鮮半島を目指したのかという疑問がある。そもそもなぜ日本人は朝鮮半島にどんな用事があったのだろうか。

実は日本人は古くから朝鮮半島との間を行き来していた。3世紀の魏書弁辰伝には、弁韓は鉄の産地であり、韓、濊、倭などが採掘していたという記述があるという。記述を読むと倭人が朝鮮半島に住み着いて鉄を採掘していた可能性すらあるという。

一般的に「倭」が日本だとされているので、日本人がわざわざ半島に渡って鉄を採掘していたということになる。

鉄を持っていると、農業生産が上がり武器も作ることができる。つまり、国力が増して周囲の国よりも大きくなることができる。つまり、当時の勢力にとって、鉄は必要不可欠な戦略物資だった。

ただ、この弁韓は巨済島の奥にあたる地域で釜山からは離れている。対馬からは巨済島が近いので、対馬・壱岐・松浦郡・糸島郡・那の津がメインストリートだったことがわかる。魏志倭人伝でもこのルートを通って邪馬台国に渡っている。いずれにせよ沖ノ島を通るルートはせいぜい秘密の裏ルートくらいの意味合いしかなかったのかもしれない。

最初「日本人が朝鮮半島に鉄を取りに行った」と書いたのだが、この認識は正しいのだろうか。

中国大陸には華夏と呼ばれる集団と越と呼ばれる集団があり、それぞれ別の言語を話していたとされる。これらの民族が混成されて漢族と中国語という概念ができてゆくのだが、今でも北京の人と広州の人たちはお互いに理解ができず、遺伝子的にもばらつきが多い。越の人たちが住んでいる地域を百越と呼ぶ。この百越の人たちのことを倭と呼んでいたようだ。

倭人はもともと長江周辺で稲作をしていたのだが、華夏の人たちに押し出されるように南下し、その一部が朝鮮半島から日本列島にやってきたと考える人たちがいる。DNA解析をするとこの説が裏付けられるそうだ。百越は中国南部からベトナムにかけて広がっていて、オーストロネシア系の言語を話していたと考えられている。

この説をとると倭人は中国人だということになってしまう。つまり中国人が日本にも住み着いたということになってしまうのである。これがおかしな話なのはなぜだろうか。それは倭人が列島にきた時代には中国という国もなければ、日本という国も存在しなかったからである。

面白いのは中国から見た文明や国という考え方である。倭人はどうにか意思疎通が可能な人たちだったらしい。が、その外側には全く意思疎通ができない人たちが住んでいる。そして意思疎通が可能な人たちは時々中国の都にやってきて地方の文物をお土産に面倒な挨拶をしている。例えば外国人がいきなりやってきて「朝貢」という概念を説明しても笑われるだけだろう。つまり、当時の北部九州の支配者たちは、中華圏の文明をある程度理解していたということになる。

つまりある程度文明化してから列島に渡ったと考えた方が自然なのである。

いずれにせよ、日本人というのはかなり曖昧な概念で、あとから作られた可能性が高い。このことは日本人の後進性を表しているというわけではない。朝鮮半島も似たような状態だった。

魏書弁辰伝には韓と濊という2つの概念がある。このうち濊は北部からやってきたツングース系かツングース系とモンゴル系の混成民族だという説が一般的なようだ。現在の韓国人はツングース系とは言えないのだから、残りの韓が現在の朝鮮民族なのかという風に思いたくなるのだが、実は朝鮮民族がどのように成立したのかということもよくわかっていないようである。中国が京畿道あたりまでを支配していた時代にはその南にある漢に服属しない地域を韓と呼んでいた。が、北部にも服属していない領域がありそこにはツングース系の人たちがいた。これらが混成して現在の朝鮮人・韓国人ができたと考えるのが自然なのだろう。

韓の南に倭があったとされていて、この倭の領域が半島の最南端を含んでいるという説がある。つまり倭人は対馬海峡と朝鮮海峡を挟んで北部九州と朝鮮半島南部を領域にしていた可能性がある。そうなると、今の日本と倭の領域はずれていたということになる。今の日本は東日本から北部の旧蝦夷地を含んでいるが、倭人がそこまで進出していたのかはよくわからない。少なくとも九州南部にはクマソとかハヤトなどと呼ばれる人たちがいがいたことがわかっており、倭人の領域ではなかった。

中国の人たちにとって意思疎通が可能だったのは邪馬台国までだ。今どこにあったのかよくわかっていない邪馬台国より向こうは「何があるのかよくわからないし、記述する価値もない」ということになっている。だから日本列島の人たちの祖先が倭人だったのか、それとも倭人と地元民の混成だったのかということはよくわからないし、仮に地元の人たちがいたとしても彼らが何系統の言語を話していたのかということもよくわからない。

いずれにせよ、この時代には中国という枠組みもなかったし、朝鮮・韓国という枠組みもなかった。日本という枠組みもなかった。だから、誰が日本人なのかということを考えても無意味なのである。

では、日本人はいつからどのような理由で日本という枠組みを自明のものとして捉えることになったのだろうか。弥生時代の倭人は稲作と鉄文化を持っていた。稲は種籾として持ってきて日本列島で育てることができたが、鉄がどこにあるのかわからなかったために朝鮮半島南部に権益を持ち採掘していた。ところが5世紀か6世紀ごろになると日本でも鉄が作れるようになった。日立金属のウェブサイトに次のような記述がある。

今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。

九州に接続する地域で国産の鉄が取れるようになった。それでも貨幣は中国から輸入する必要があったが、秩父地方で胴が発見される。国産の和同開珎が発行されたのは708年だそうだ。このようにして日本の経済は徐々に大陸から独立してゆく。

さらに、外交戦略上の失敗もあった。朝鮮半島南部には新羅と百済という2つの国ができるのだが、ヤマト王権は百済に肩入れする。だが、百済は新羅との競争に負けてしまったので、ヤマト王権は半島への足がかりを失ってしまった。

すると、半島や大陸との交易は外交の一環ということになるのだが、朝貢していた国が傾くと外交も途絶えがちになった。さらに、航海技術が発展し民間貿易をする人たちが出てくると、わざわざ偉い人たちが危険な海を超えて物資を持ち帰る必要がなくなった。こうした事情から日本の政治は内向的になり、半島の事情にも疎くなってゆく。このようにして次第に列島の西部を版図とする日本という枠組みが作られたのではないかと思われる。当時の東部はまだ未開の地で国という概念はなかった。

日本史が混乱するのは、明治時代に西洋から国民国家という概念を輸入したからだろう。国民国家という概念が自明に成り立つためには、もとから国の領域に単一のまとまりを持った人たちが住んでいなければならない。日本人はそもそも単一のルーツを持った血によってまとまった民族集団だという幻想が生まれることになったのだろう。国会議員の中には神話を基に日本人意識を高めるべきだなどと発言する人もいる。

皮肉なことにこの考え方は日本に支配された朝鮮半島にも持ち込まれた。日本列島にいる人たちが単一民族だとすれば、そこから独立するためには朝鮮民族も単一のルーツを持つべきであるという理由から、半島の南部にいた系統不明の人たちとツングース系と思われる北部の人たちの混成だったというような学説が支持される余地はない。代わりに朝鮮民族は5000年の歴史を持っているという自意識が作られた。

韓国人にとってみれば、北部の歴史は満州と同じツングース系の民族が住んでいたということは中国の一部だったということを認めることになりかねない。この議論は高句麗論争と呼ばれているそうだ。また、南部に倭人の拠点があったということは日本の支配権を正当化することになりかねない。代わりに対馬はもともと朝鮮の領土だったなどと言っている。

いずれにせよ、中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島まで、なんとか意思疎通ができる人たちとそうでない人たちがいたのだということはわかる。これらの人たちが同一言語を話していたとは考えにくく、今よりも緩やかで多言語的な共同体があったのではないだろうか。

現在の感覚で見ると、韓国は飛行機でゆくちょっと遠い場所だが、距離だけで見ると実はそれほど離れていない。佐賀県の唐津市から距離をとってみるとこんな感じになる。感覚的には佐賀から宮崎や鹿児島に旅行するのと同じような感じなのだが、言葉が通じない人たちが住んでいた可能性を考えると九州南部の方が危険だった可能性すらある。地図感覚も現代になって作られたものだということがわかる。

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