民進党のグダグダぶりに見る日本が集団主義ではないわけ

「日本は集団主義ではないのか」という疑問がツイッターで流れてきた。ホフステードについて教えたら、代わりに別の本を紹介してもらった。さらにQuoraでも日本は集団主義かという質問があった。

ここで「日本は特に集団主義でもないのにどうして集団主義だという人が多いのか」という疑問を持った。真面目に考えてみてもいいのだが、それではつまらない。そこで、民進党のグダグダぶりから日本が集団主義ではない理由を考えてみたい。

民進党は短い間に代表が何回も変わった。選挙の顔になると期待された蓮舫代表だったのだが、東京都議会選挙で惨敗すると途端に「蓮舫のせいだ」という声が起こった。そこで、前原さんが新しい代表になったのだが、独断で何の話し合いもしないで希望の党との合流を決めてしまった。しかし、希望の党のガバナンスがめちゃくちゃであることがわかり有権者の期待が失速すると、今度はたちまちのうちに前原批判が巻き起こり「今すぐやめろ」とか「いややめない」という話になった。だが、冷静に考えてみると、前原さんの方針は議員総会で示されてみんなで賛成したものだった。つまり、前原さんの思いつきにみんなで飛びついたのである。

ここまでのグタグダぶりはマスコミから伝えられる他、Twitterでも発信されていた。いくらなんでも反省しただろうと思ったのだが、今回の大塚代表になってもまだもめているようだ。共産党との連携に期待する人たちは蓮舫さんを担ごうとしたのだが「協力する」とか「しない」という話になり、独自路線を期待されている大塚さんが代表になった。しかし、共産党連携派の人たちは納得しておらず、さらに分裂する可能性があるのだという。背景には連合の中にある左派と右派の対立がある。連合は名前が示す通り複数の労働組合の共同体でありまとまりがない。大塚さんは分党を狙っているのではないかという懐疑派と共産党のような卑しい人たちとは組めないという人たちがいていつまでもいがみ合っている。

民進党が一貫しているのは「共通の目的を作って一致団結しよう」という気持ちが全くないという点である。つまり、個人が集団に貢献しようという気持ちがみじんも見られない。つまり、民進党は集団主義的とは言えない。

これを民進党固有の問題だとみなすことはできる。では、希望の党はどうだっただろうか。こちらは、小池さんの同意なしに代表を変えられないという規則になっているようだ。民進党出身者が大半を占めるのに、彼らは党のことは決められない。選挙名簿も小池さんの独断で決められるようになっており、民進党出身者には不利なものだった。その上「ガバナンス長」というような仕組みもあり、個人である小池さんが議員の言論を統制できるようになっている。つまり、集団の意思疎通と意思決定がそもそも最初から全く信頼されておらず、独裁主義と言える。独裁は集団主義とは言えない。

こうした独裁にもかかわらず民進党の一部が合流したのは「党の規則がどうであれあとでどうにでもなる」と考えた議員が多かったからだろう。つまり、民進党は「集団で決めたことでも都合が悪くなれば覆すことができる」という認識を持った個人によって構成されていることになる。

さらに、選挙期間中に細野さんや若狭さんは勝手に小池さんを代弁して好き勝手なことを言っていた。後になってわかったのは、彼らは話し合いをしておらず、お互いに何を考えているのかさっぱり理解していなかったようである。

ここまでを見て「集団で何かを決めてそれをみんなが守る」というような政党は皆無だった。しかし、それは民進党出身者がバカだからんではないのだろうか。

ということで、維新の党を見てみよう。こちらは丸山穂高という議員が「惨敗したんだから代表選をやるべき」だと発信した途端に、ほぼ部外者である橋下さんから罵倒された。しかし、橋下さんはそれがどのような影響を及ぼすかを考えなかったようである。丸山議員は選挙区で勝っているので票を持って外に出ることができる。そして、本当に離党してしまった。丸山さんは票を持って自民党に行くこともできる立場になった。今になって松井府知事・代表が「橋下さんは言いすぎた」などと言っているが、発信が始まった時には何も言わなかった。松井さんは代表でありながら定見がない。つまり党のガバナンスを行っている人が誰もいないのである。

この三党の事情を見てわかることは何だろうか。それは集団の中で意思疎通ができておらず、それぞれが好き勝手に自分の言いたいことを言い合っているということである。さらに集団は個人を守ってくれず、不祥事を起こしたりすると「党員資格停止」とか「除名」などの処分がいとも簡単に下される。それぞれの党がどのようなイデオロギーによって結びついているのかもさっぱりわからないし、ましてや血族集団のように離れようとしても離れられないような集まりでもない。

ここでわかるのは日本の政党は、意思疎通もできていなければ、何のために集まっているのかもわからず、また安全保障の装置としても機能していないということである。これではとても集団とは言えない。

では、自民党は集団としての体裁を整えているだろうか。自民党の人たちが安倍首相に逆らわないのは、政府の役職を安倍首相が決めるからだ。だからこちらも後ろから安倍さんを撃つような発言が時々出てくる。最近では麻生副総理が「北朝鮮のおかげで選挙に勝てた」などと言い出した。

日本で集団主義的と言える政党は公明党と共産党しかない。どちらも何のために集まる集団なのかということが明確であり、個人よりも集団の考え方の方が優先されるという世界である。だが、日本で政党を作ると集団になれるのはごく例外的な団体だけなのである。

では、なぜ日本は集団主義の国と呼ばれるのだろうか。第一に個人の考えは全く尊重されず、評価されるのも集団だという事情がある。例えば個人の主張はそれほど重要視されないが「東大出身の人が何か言っている」ということが信頼される社会である。

さらに、個人同士の調整をするのに顔を出した個人が出てくることが少ない。どちらかというと匿名のままで無言の圧力をかけたり、同調圧力を使って「規則だから」といって個人を抑圧することが多い。この個人を隠したがる態度はかなり徹底している。例えばTwitterでは個人で政治を批判する人はいない。リベラルあるいはネトウヨというポジションをとってコピペした意見が交わされている。これは個人でポジションを形成し、個人の名前で発言するという文化が全くないからである。

確かに政治的発言にはリスクがあると考えられるのだが、WEARでも同じような姿勢が見られる。こちらでは顔を隠した個人がうずくまるようにして洋服のコーディネートを披露するという構図がよく見られる。つまり、個人を表明するということは日本では避けられなければならない行為だと考えられているようだ。個人の意見は受け入れられないが、個人は攻撃の対象になってしまうからなのだろう。

ここからわかるのは、日本の集団は特に何かのために機能しているというわけではないということとだ。だが、個人主義が確立していないので他人に圧力をかけるために集団を使うということだけである。

これを集団主義と呼ぶことはできない。強いて言えば「全体主義」とか「封建主義」と呼ばれるべきだろうが、実際には個人主義が確立していないだけでなんとか主義とは言えないのではないかと考えられる。

政党の場合はこれがかなり悪い出方をしている。集団としてまとまることもできないし、かといって個人で何かを考えて打ち出すこともできないというような人たちが、まとまれないままで好き勝手なことを言い合っているように見える。

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