日本とアメリカの笑いの違いについて

日本語版のQuoraに「日本とアメリカの笑いは何が違いますか」という質問があった。特に学術論文ではなく無責任にかけるので、書いてみると以外と面白かった。そこでこちらにも載せることにした。

いったん、答えを書いてみて「一番顕著だな」と思ったのは場の構成の違いだった。つまり、アメリカと日本の笑いの一番の違いは笑いの輪の中に観客が入るか入らないかということではないかと思ったのだ。これを平たく説明するのはなかなか難しいが、日本人が抱える「公共空間」への不信感というか恐怖心のようなものが現れていると思う。つまり、なんらかの同質さが確認できない限り日本人は他人を信頼しないのだ。これが泥だんごを投げ合うTwitterの政治議論にも影響を与えていると思う。

よく考えてみると、日本人は人前では感情を表に出さない。日本人は「おとなしい」とか「何を考えているのかわからない」と言われるのはそのためである。西洋文化圏の人は慎ましいと言って終わりにすることも多いようだが、東洋系の人たちは日本人が閉鎖的で差別的だということも知っているので、Quoraでは「日本人は本当に礼儀正しい人たちなのか」というような質問が時々出てくる。

一方、アメリカ人は笑いたければ笑う。その上笑いには社会的な機能もある。

例えば日本人は映画館で笑わないで黙って映画を見ている。アメリカ人は面白ければ笑うし、解放感が得られるシーンでは全員で拍手をしたりする。アメリカ人はこうやって社会的な一体感を感じるのに笑いを使うわけだ。

笑いは緊張感の緩和にも用いられる。ある政治家が真面目な集会で言い間違いをする。みんな言い間違いだとわかっているが指摘できない。この時誰かが「笑う」とみんなもつられて笑う。そこで政治家が気がついてそれをジョークにして笑うということがある。結果的には誰も傷つかないし、一体感を得ることもできる。むしろ、政治家にはジョークの才能が必要であるとされる。そしてそのジョークは必ず「ボケ」である。

しかし日本人は誰も笑っていないのに自分だけ笑うわけには行かないと考えるし、そもそも大衆の面前で笑うのも恥ずかしいので笑わない。さらに、えらい政治家を嘲笑することには侮蔑以上の意味はないし、笑われたえらい人もジョークで返すスキルがない。つまり、日本人は笑いによって緊張を緩和することはない。

日本人は笑うのに相手の許可を必要とする。つまり「笑ってもいいですよ」という許可がない限り笑えない。日本語が堪能なアメリカ人のジョークを聞いていると「ボケ」なのか「無知」なのかわからないことがある。例えば今回答えを書くのにパックンの外国人記者クラブでのインタビューを読んだ。パックンは政治的なジョークで何回かボケていたが、日本人向けなのか「これは冗談です」という情報を挟んでいた。しかしながら、アメリカでは「これは冗談です」とは言わない。日本人は「これは笑っていいことなのだろうか」と考えるが、アメリカ人は「笑いたければ笑う」のである。

このため日本には「ツッコミ」と呼ばれる人がいて、その人が「なぜおかしいのか」を指摘する。つまり、ツッコミは観客に笑う許可を与えているのである。かなり回りくどい仕組みだが、そもそもこの構造に気がついている人はそれほど多くないのではないだろうか。

このようなことを改めて考えていると、アメリカ人はスタンドアップ・コメディアンと個人の観客がいて笑いの世界を構成していることがわかる。つまり観客は笑いの当事者になっている。しかし日本では笑う人と笑われる人が目の前におり、観客はそれを第三者的な視点で眺めているということがわかる。その場に入って感情的に巻き込まれてしまうことは日本人にとっては危険なことであり、距離をとって初めて安心感が得られるのだろう。

アメリカでは政治的な笑いというものが存在する。「やっぱりあれは間違っているよね」という感情を共有することができる。これは笑いだけではなく様々な政治的判断に用いられる。判断基準は内在化していて、この違いを「イデオロギー」と言っている。

しかしながら、日本だとそれを笑っていいかということはいろいろな条件によって複雑に決められるし、笑うことによって社会的な避難を受けかねないなどと考える。つまり「個人の資格で笑っていいかどうかは判断できない」ということになる。だから日本人は政治を判断しない。周りをみてどうするか決めるし、周りが無関心なら何もしない。つまり日本人には内在化したイデオロギーはない。一見、リベラルな人は「平和主義者」であり、保守の人たちは「拡張主義者」のような気がするが、必ずしも態度は一貫しない。自分の立場の権威付けのためにポジションを利用しているだけであって、特に一貫性を求めてはいないからである。

イデオロギーがないので政治的なことは笑えないが、社会的な序列には敏感である。そして、この序列を守るためには暴力も許容されている。このことは相撲を見ているとよくわかる。外からきて日本文化の良い学び手であった日馬富士は素直にこの価値観を取り入れて、貴ノ岩をカラオケのリモコンで殴りつけたと言われている。

このため、例えば美貌に恵まれていない女性の容姿や体型を笑うとかのろまな人を笑うことは比較的おおらかに許容されるし、序列上弱者だと見なした人を嘲笑したり頭を叩いたりするのは文化的にはよいことであるとさえされる。

相手の頭を小突くことは多くの文化では暴力であるが日本人は「ツッコミ」を暴力とは見なさない。日本人には社会的に許容された弱者への暴力というものがあり、相撲の世界ではかわいがりと呼ばれ、学校では生活指導と呼ばれる。

どれも暴力なのだが、生贄を作って社会が緊張のはけ口を持ったり、秩序維持のための見せしめにするのは日本では許容されたコードだ。つまり、いじめは公衆の面前で自分の考えを明確にしたり、感情によって表現することを許されない日本人にとっての「安心できる」緊張の解決策であり安全対策なのだろう。

しかしながら、自ら容姿に恵まれていない女性を嘲笑するのは憚られるので彼女たちがいたぶられているのを外から見て楽しむのである。

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