私らしさとドメスティックバイオレンス

前回までは日本の村落構造について見てきた。人間関係が濃密な村落的環境がもたらす安心感とそれが崩れたときの再構築を巡るお話である。

今回はここから少し離れて「私らしさ」について考える。私らしさという概念はどこか漠然としているのだが、絶対に手に入れなければならないものと考えられており、多くの人を苦しめている。ではなぜ私らしさはこれほど人々を苦しめるのだろうか。そこには「個人主義的な私らしさ」と「日本人が個人を徹底的に嫌う」という問題がある。

「私らしさ」とはつまり人生の成功の指標を自己責任で見つけてくださいということだ。ところが、日本人は個人を徹底的に嫌うので、内面に指標を見つけることができないし見つけたとしてもくだらないものとしか思わない。そこで外に向かって「私らしさ探し」が始まる。自分の中にないわけだから当然どこかからコピーして持ってくることになる。例えば女性の場合には「ドラマの主人公のように生きること」だったり「海外セレブのように」愛されるということかもしれないし、男性の場合には「明治維新の志士」だったり「戦国武将」がそれに当たるだろう。

ロールモデルを持ち込んでそれに近づきたいということ自体はそれほど悪いものではない。最初からオリジナルを作ることはできないわけだから「戦国武将とあなたは違う」とか「海外セレブのようなスタイルを持っているわけではない」という点を除けば模倣もある種の入り口にはなり得るからである。

ところが、外からモデルを持ってきたとしてもそこから満足を得ることはできない。ここで問題になるのは慰安婦問題のところでみた対象物と関係性の問題だ。

慰安婦問題の基本構造は、韓国は日本の慰安婦問題について語っているように見えて実はアメリカのレスポンスを問題にしているという点だ。つまりコミュニケーションの相手と議題がずれているのである。これは村落でのポジションが「みんながその人をどう思っているか」という周囲の目によって決まるからなのだろう。つまり、アメリカを代表とする国際コミュニティの評判で韓国の国際的位置が決まると考えるのだ。

これを「私らしさ」に置き換えてみよう。男性が女性にモテたいと考えているとする。すると彼がやるべきなのは相手の女性が気に入るように変わるか自分の長所を伸ばすことのはずである。しかし、実際に彼が気にするのは周囲の人たちが「自分をモテる人間だと認めてくれるか」ということなのだ。

だが、これだけでは終わらない。なぜならば女性の方も「付き合った男の価値で自分の価値も決まる」と考えているかもしれないからである。そうなると、付き合っている男がどの程度のランクにいるのかということが気になる。女性の場合は常に「自分が付き合っている男の品定め」が行われいるのである程度「村のランキング」がわかるのだが、それはコントロールができないし当然男性の方では操作ができない。

この状況に勝利するためには「全ての事柄において平均以上」の点数を取らなければならない。男性の場合は仕事さえしていればそれなりの社会的評価が得られるのでこのゲームに勝利するのは割と簡単である。しかし、女性はそうはいかない。職業的にも成功しなければならないが、それだけではダメで同窓会で自慢ができる程度の男性と結婚して、子供を作り、姑との間の関係も良好でなければならない。つまり、いつの間にか減点ゲームになってしまい、それが手に入らないと「負けた」ことになってしまうというわけだ。

世間が無理を要求するという見方もできるのだが、逆に自分の内面にあるありもしない過剰な成功事例に縛られているとも言える。この鎖は自分を縛るだけではなく他人をも縛り付ける。比較によるゲームの始まりだ。序列がはっきりしない世界ではこれはたちまちのうちにマウンティング合戦に発展する。こうして新しい村ができるのだが、この村は利益を伴わない無駄な村である。

村から解放されて自分が好きなように人生の価値を追求できるようになったにもかかわらず、個人の中に価値観がないために進んで価値観の鎖に縛り付けられていると言えるだろう。

女性の場合は不機嫌さを溜め込むだけなのだが、男性の場合はこれをコントロールしようとして暴力に走る場合もあるようである。女性よりもさらに自分の気持ちを言語化することに慣れていないからだろう。

NHKの番組でドメスティックバイオレンスの加害者の特集をやっていた。「従属物である」妻が自分の思い通りに行動しないとカッとなって女性を精神的に追い詰めたり、代替物(例えば車のシートや机)を叩いたり妻に暴力を振るったりするというのが典型例のようである。彼らは「自分の従属物である妻」が自分の思い通りにならないことを怒っているように見えるし、番組でも「コントロールできないという怒り」が注目されていた。しかし、実際にコントロールできていないのは自分の感情であろう。自分の感情をうまく補足できておらず、それを相手に伝えることもできない。これが蓄積して暴力に訴えかける。

この結果、多くの男性は妻や子供にさられることになるという。中には経済的に独立的ないという女性もいて、被害者意識を受け入れて共依存関係に発展する人たちもいる。女性は永遠の被害者として生きるのだが、男性は時々湧き上がる怒りとそのあとの反省という感情の奴隷になって一生を過ごすのだ。

内面的な規範がないにもかかわらず全てをコントロールしなければならないという気持ちは「自裁権」という形で破壊に向かうかもしれないのだが、実際にはコントロールできる(と自分が勝手に思っているもの)への暴力という形で顕在化しやすいのだろう。それが社会において自分より弱いものを叩くことに向かいやすいのではないかと思われる。例えば気の弱い友達であったり、経済的に従属した妻なのである。

日本人が環境や村落と一体化している「個人」という考えを持たなかった。個人が出てくるのは「責任を取らされる生贄」か「村八分にされた仲間はずれ」だけである。ところが、戦後西洋流の個人主義というりんごの実をかじってしまったために、個人主義の毒が我々を苦しめる。その最たるものが「自己責任」でこれは「お前ら勝手にやれ」ということでしかない。

ここから脱するためには個人主義を捨てて「自分の運命は自分の思い通りにはいかない」ということを認識するか、自分の問題を言語化して相手に伝える技術を学ぶかの二つの選択肢があるのだと思える。

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