韓国のレーザー照射事件は何を意味しているのか

韓国の駆逐艦が日本の哨戒機を「狙った」として問題になっている。具体的には火器管制レーダーというものを当てられたとのことである。「日本が悪いのか韓国が悪いのか」ということが最大の関心事なのだが、大切な点が忘れられていると思う。




韓国軍が日本の哨戒機を狙ったということは韓国軍の中で日本を敵視するような人たちがいる可能性があるということだ。集団主義の序列社会なので「誰かがうっかりやったと」は考えにくい。がだからといって、これを青瓦台が知っていたのかはわからない。現在の政権は革新系であり軍と一体の関係にあるのかよくわからないからだ。朴鍾憲は元軍人の朴正煕の娘なのだが、文在寅はその政権を批判するところから出発している。ゆえに、地域情勢を正確に把握したいなら、軍と大統領の関係がどうなっているのかということを冷静に把握する必要があるのだから対話のチャンネルを閉じるのは得策とは言えない。

例えば革新政権が面白くない保守系の中央日報は日本側の主張を冷静に伝えている。日韓関係が悪化し経済に影響が出ると政権がダメージを受ける。また軍隊も掌握できていないとなれば政権へのダメージはさらに大きくなるだろう。あくまでも朝日新聞の引用の体裁になっているが、わざわざこんなことをほのめかすのは「韓国軍には命令系統上の問題があり、それは文在寅政権の責任ですよね」と言いたいからなのではないだろうか。

  朝日新聞はソウル発の記事で「韓国の軍事専門家の間でもレーダー操作責任者である艦長の統制力に問題があったか、悪化している韓日関係の影響を受けて(誰かが)軽率な行動をした可能性が取り上げられている」と伝えた。

https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=248413

友軍機をロックオンするためにはシステムの解除が必要なのではないかという専門家の観測もある。ここででてくる責任者は「艦長」のようだ。ところが、安倍政権は状況の把握をせず、代わりに問題をエスカレートさせ相手に恥をかかせる作戦に出た。これは体面を気にする韓国や中国の人たちにもっともやってはいけないことである。表に出て恥をかかされたと感じた人たちはなりふり構わず体面を守ろうとする。「お前、軍をきちんと管理ないよね」とみんなの前で政権に「恥をかかせた」ことになってしまう。韓国人や中国人の部下をみんなの前で叱ってはいけないというのは、異文化コミュニケーションの教科書の初歩に書いてあるようなことなのである。

もちろん「真実は一つなので真実が何なのかはっきりさせるべきだ」とというポジションは成り立つ。これはこれでポジションとしては成立する。が、ここでまた問題が出てくる。日本は弱いと見なしたものには居丈高に対応するが強いとなると一転して弱気になってしまうのである。

最近、トランプ政権と安倍政権の間はあまりうまくいっていないようだ。予算措置などで追い詰められ政府職員の給料を人質にとって予算を通そうとするほど追い詰められたトランプ大統領は「麻生副首相も連れてこい」と呼びつけたようだ。日本からファイナンスを使用としているという意見もある。そして、アメリカと日本の間にどのようなやり取りがあるかは「外交交渉なので言えない」と答弁するばかりである。今回のビデオの発表とは180度異なる弱気な対応なのだ。

アメリカに対しては恩寵を期待しているのだろう。つまり、相手に全てを委ねて悪いように扱われないようにせいぜい頑張ろうという態度だ。一方韓国についても自分たちで状況を把握したり問題を解決するという努力を放棄している。この0か1かという外交下手な極端さが安倍政権やネトウヨの人たちの最大の弱点なのかもしれない。つまり、自分の勝手な思い込みによって態度を変えており、それとは違った反応が出てきても「正常性バイアス」を働かせて問題点を見ないようにしている。

法律を通してもらう立場なのに社民党と立憲民主党の女性議員をついつい挑発してしまう態度に似ているところから、安倍首相が韓国などのアジアの国や女性に根拠のない蔑視感情を持っていることがわかる。この問題から、安倍政権の外交の稚拙さが見えてくる。外交というより国会論争を含めた対話ができないのだ。

防衛省も当初はビデオを表に出して韓国を挑発するのをためらった(時事通信)ようだ。これからも韓国軍と対峙する防衛省としては当然の態度であるし、韓国軍が青瓦台から統制されていないとなると、偶発的にもっととんでもないことが起こる可能性もある。交渉を各省庁に丸投げし、最悪の事態も想像できない安倍官邸だけが公開に前のめりだったということになる。

政権が自らの国の命運について何らの責任感が持てていないということがよくわかる話なのである。

Twitterをやらなくなったという話

この一年で「SNSの選択肢が増えたな」と思っている。システムとしてそれほど新しいものが出ているというわけではないのだが、人が居着いた感じがある。YouTuberという言葉は定着し、インスタグラムのインフルエンサーなどという言葉も補足説明なしに使えるようになった。と同時にTwitterで過ごす時間が極端に減った。




Twitterは荒れた印象で問題解決にはそれほど役に立たないのだが、質問サイトやファッションサイトなどは建設的でやっていて楽しい。建設的な空間ではある程度の協力関係も築けるし、何よりも達成感がある。

一方、2018年の始めには「2ch化しているな」と思ったのだがTwitterはかなり荒んできた。Twitterが荒れ始めたのは皮肉にも世論形成に役に立つということが認知されたからだと思う。多分、お金をもらってやっている人や、嫌韓本を売りたくて極端なことをいう人がいるのだろう。ダウンタウンが荒れてお金持ちが郊外に流れるのに似ている。

Twitterの不毛な政治議論に嫌気がさした人が異議申し立てをしてTwitterを離反するというようなことはないように思う。知らず知らずのうちにTwitterを覗かなくなった。他に楽しいことがあり、そのためには準備も必要だからである。地上波のテレビを見ることも減った。やることがないからテレビをつけようという機会が減ったからだ。YouTubeやストリーム系の韓国ドラマを見るのに忙しく、わからない単語を調べるのも面白くなってきている。ワイドショーはなんとなくフォローしていたのだがバラエティは完全に視野から外れた。ダウンタウンが芸人を閉じ込めて炎上したという話もYahoo!ニュースで見たきりで全くフォローできていない。「どうせつまらないんだろう」と見なくなると予告も見なくなるので視野から消えてしまうのである。

しかし、SNSで活動するのは難しいという人もいるかもしれない。やりたいことがないととてもつまらないのだ。例えばインスタグラムが楽しいといってもそれはやりたいことがある人の話であって「何もやりたいが流行について行きたい」という人にはとてもつまらない場所だろう。中にはSNOWなどに手を出してイタイおじさん化している人もいるかもしれない。Twitterは井戸端会議としては面白かった。取り立ててやりたいことがなくてもなんとなくつながっているという感覚が得られる。あるいはTwitterが流行したのは日本人の受身的な姿勢にあっていたからなのかもしれない。なんとなく「Twitterが荒れてきた」という現実に目を背けてきたのだが、やはり他に面白いことができると心の中の専有率は下がってくる。

SNSツールの数が増えるのはいいことだと思う。日本人の中にやりたいことがたくさんありそれなりに表現方法を身につけた人たちが増えているということを意味しているからだ。やはり日本人のITコミュニケーション能力は上がっているのである。

WEARにも写真の技術を積極的に覚えて自分なりの表現方法を身につけている人が大勢いる。これも出始めの頃には「ショップの店員が細々とやるだけなんだろうな」というような印象だったのでずいぶん育ってきた印象がある。プロとアマチュアの中間という意味ではカラオケに近い。

カラオケは単なる遊びではないかと思われるかもしれないが、実は少しずつコンテンツにお金を払おうという機運も生まれている。これもTwitterだけをやっていると気づかないのではないだろうか。もちろん、生計を立てるというところまではいかないのだろうが、取るに足らないコンテンツで稼いだ金でコンビニのコーヒーなどを飲むと不思議な気分になる。何もないところからお金が湧いてきたような気分になるのである。もちろんYouTubeのように大成功者が出ているプラットフォームもある。YouTubeもテレビの人たちから見ると「所詮カラオケ」だったのだろうが大衆の力というのは恐ろしいものだ。

やりたいことがあり表現方法を身につけたい人にはネットはとても楽しい場所になりつつある。それは同時に、やりたいことが見つからない人にとってはとてもつまらない場所になりつつあるということでもある。建設的な人は別のSNSに流れてしまい、お金をもらって極端なことをいうような人しか残らないからだ。お金をもらって人を不快にする人とその人たちに不快にさせられるという人がいる一方で、やりたいことをやっていたらお金が回ってきたという人が共存する世界なのだ。

この変化は永遠に続くと思われた閉塞的な世界が少しずつ変わりつつあることを意味しているのかもしれない。2008年(リーマンショック)から2011年(東日本大震災)までのあの停滞しきっていた時代から少しずつ立ち直り始めているということのように思える。暗闇の10年が過ぎ去り新しい光が見えはじめているのかもしれない。

演じる家族 – 花田家と安倍家の共通点

元貴乃花親方の息子である花田優一さんがテレビに出まくっている。どうやらマスコミはリスクのある政治報道よりもこの若者を叩くほうが報道価値があると思っているようである。世も末だ。だが、この一連の報道を見ていてとても気になることがでてきた。それは家族と道徳的価値である。

元貴乃花親方は新興宗教と関係を持ち独自の道徳感を持っている。だが、それに社会的価値が全くないことは明らかである。誰一人追随者がいない。彼の道徳は彼が作り出したファンタジーだがそういうことはよくある。日本人の男性は「育てる」ということにあまり関心を持たない。興味があるのは競争だけである。人は競争だけをして生きて行くわけではない。

一方息子である花田優一さんが道徳的観念を持っていないこともまた確かなようだ。納期はすっぽかし、奥さんとは早々に離婚し、両家の親に報告もしなかったようである。にもかかわらず、花田優一さんは臆せずにテレビに出まくった。爽やかなルックスでよどみなく流れるように話す様子から彼が一連の報道に大した罪悪感を持っていないことがわかる。まだ23歳という若さを考えると大胆というか異様と言って良い。彼は道徳的規範の代わりに「爽やかな若者を演じる」術を身につけており、テレビもそれを好意的に受け止めているのである。雑誌ではこうした「爽やかさ」は伝わらない。

父親である元貴乃花親方は「このままでは大変なことになる」と他人事のようにこれを週刊誌にぶちまけているというところから、この人が「自分も子育てに三角すべきだ」という意識を一切持っていないことがわかる。雑誌にそんなことを書けば息子にどんな批判が集まるかは容易に予測できたはずなので、もう常軌を逸しているとしか思えない。だが、この人は貴ノ岩にも同じことを言っていたし「花田勝氏」にも同じことを言っていた。正しくないと思ったものを容易に切断できてしまう人なのであろう。

さらに河野景子さんもテレビに出て「貴乃花の言っていることもわかるし息子の言っていることもわかるが、間に立ったりはしない」と言っている。母親もまた「家族」を切断してしまっているようだがそれに違和感は感じていないようだ。こうして演じる一家が作られ、テレビはそれを歓迎する。本物の家族より演じている方が本当に見えるのだ。

人間が社会規範を受け継ぐ時、家庭はとても大切な役割を果たす。しかしながら、元貴乃花親方にとって家族というものは取り立てて省みる価値がないものだったのだろう。だが、さらに重要なのはテレビを見ている人たちも「家族が価値観を育てる」ということにさほど関心を持っていないということである。彼らがみ違っているのは勝利に向けて邁進する貴乃花とそれを支える健気で華やかな家族の姿なのである。

この「正しさ」と「結果としての勝利の全面的な正当化」への固着は極めて男性的な日本ではよく見られる光景だ。それを陰で補正してきたのが女性だった。だが、女性は一人で子育てをしているわけではなかった。問題は、常に外に触れている「相撲部屋」としての貴乃花部屋と、プライベートとして孤立してしまっている家庭の絶望的な乖離である。これは群れで子供を育てる「共同養育」という習性のあるヒトとしては極めて異常な状態だ。

先日NHKで育児ノイローゼについての特集をやっていた。母親が不安を感じやすいのはヒトが群れで子供を育ててていた名残なのではないかという説があるそうだ。戦後の核家族化には「共同養育環境」が阻害されるという決定的な問題がある。

鍵を握るのは、女性ホルモンのひとつ「エストロゲン」です。胎児を育む働きを持つエストロゲンは、妊娠から出産にかけて分泌量が増えますが、出産を境に急減します。すると母親の脳では神経細胞の働き方が変化し、不安や孤独を感じやすくなるのです。 
なぜそんな一見迷惑な仕組みが体に備わっているのか?その根本原因とも考えられているのが、人類が進化の過程で確立した、「みんなで協力して子育てする」=「共同養育」という独自の子育てスタイルです。人間の母親たちは、今なお本能的に「仲間と共同養育したい」という欲求を感じながら、核家族化が進む現代環境でそれがかなわない。その大きな溝が、いわゆる“ママ友”とつながりたい欲求や、育児中の強い不安・孤独感を生み出していると考えられています。

https://www.nhk.or.jp/special/mama/qa.html

この花田家を見ていて安倍晋三を思い出した。彼も実家が政治家であり、子供の頃は選挙一色の暮らしをしていた。選挙に勝つことが家の至上目標だった。安倍晋三も子供の頃に寂しい思いをしたという。彼の規範意識のなさが、選挙にかかりきりになる家と孤立した家族から来ているのではないかと思った。政治家の二世・三世も演じることを強制された人たちなのである。ただ、ここでは孤立した家とは言わずに「独立国家の共同体」と表現されている。心理的な正当化が起こるのだ。

「やっぱり普通の家庭への憧れはあった。人の家に遊びに行って友達が両親なんかと楽しそうに話してたり、父親と何か楽しそうにやり合っているのを見ると『ああ、いいな』と思ったりしたものです。それに引き替え、うちの家には父は全然いないし、母も選挙区へ帰ることが多かった。だから父がたまに家にいたりすると、何かぎくしゃくした感じがしたものだった」(『気骨 安倍晋三のDNA』)

洋子はこれを「我が家は独立国家の共同体のようなものでした」と表わした(前掲書)。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/45140

花田優一さんが生まれる前から花田家は常にマスコミに注目されていた。河野景子さんや花田優一さんは後援者らがいるパーティーで「形式的に正しい家族」を演じることに慣れてしまった。お母さんはそれを使って講演活動までしているし息子も靴を売るためだと言って父親のパーティーで営業活動などをしていたようである。しかし、形式的に正しさを演じているということは、内心の正しさなど何も意味がないのだということを意味になりかねない。同じようなことが世襲の政治家の家庭でも起きているのではないかと思う。選挙で受けがよければ裏で何をしていても構わないという虚構の家族である。

選挙に勝ち続けるということは有権者からみて正しい家族像を演じ続けるということだ。この結果ばかりに注目し本来持つべき道徳心をないがしろにすることは、社会が個人に与える刑罰のようなものだ。内心など何の意味もないとして個人の道徳心を絞め殺してしまうのである。安倍首相は嘘を嘘と思わない虚の政治家であり、教育や子育てへの投資には極めて無関心である。お友達にも、外面的な規範である教育勅語的を復活させれば世の中の道徳の問題は全て解決するという人たちが多いようだ。ある意味元貴乃花親方に似た思想を持っている。

花田優一さんは、元貴乃花親方が予想するようなことにはならないかもしれない。23歳の修行から上がりたての若者に立派な靴など作れるはずはないが、彼の元には新しい靴の依頼がくる。「あのテレビに出ている花田優一が作った靴」に価値があるからだろう。また、マスコミも彼らのおもちゃになってくれる便利な人形を求めている。普通の家族の日常には商業的価値はないが、演じる家族にはその価値がある。一部では花田優一さんは多弁なのでお父さんより政治家に向いているのではないかとさえ言われていた。あながち皮肉でもなさそうである。これが日本人が欲しがっている「リアル」なのである。

安倍晋三さんも今の所「大変なこと」にはなっていない。大変なのは嘘に振り回され続ける国民である。ただ、それも選挙民が聞きたい歌だけを政治家に要求し続けた結果なのかもしれない。安倍晋三は岸信介の孫を演じていればいいわけだし、麻生太郎は吉田茂の顔真似をしていればいいのだ。

ただ、こうしたいびつな演じる家族は日本の未来を危機にさらしているように思う。孤立家族で育ったが経済的には恵まれていた安倍晋三が首相であり、自分のために小学校が作られたという極めて特殊な家庭に育った麻生太郎が副首相である政権が「あたたかな子育て環境」に積極的になれる可能性はほとんどない。彼らが熱心に取り組んでいるのは演技を賞賛してくれる周りの人たちに恩恵を与えることであり、国の未来にも個人の内心にも全く関心がないのである。

韓国ファッションの文化侵略

最近WEARで韓国ファッションとかKーPOPファッションというトレンドが出てきた。人によって解釈は様々なのだが、黒いスキニーとタイトなシルエットが目立つほか、スポーツブランドをミックスしたようなものもある。よくミュージックビデオで出てくるスタイルである。他には奇抜な色で染められた髪色というのもある。ステージ映えを意識した華やかな色と程よく鍛えた体を協調するスリム目のシルエットが特徴だ。




この傾向はなかなか面白いと思う。もともと韓国は自国文化が日本に侵略されることを恐れ、長年日本のポップカルチャーを封印してきた。日本文化が解放されてもしばらくはモノマネが続いており、今でもアメリカのポップカルチャーの強い影響を受けている。本来ならオリジナルとは呼べそうもないが現在のK-POPを見ていると「それでも他のどこにもない韓国風」としかいいようがない。また韓国ファッションというとアメリカブランドの偽物というような印象があり、現在でも韓国のブランドが日本で流行するようなことはない。こうした一見不利な状況にもかかわらず「韓国ファッションがおしゃれだ」とか「真似をしたい」という人がいる。

そればかりか日本の音楽チャートでもK-POPは常連化しており、ドームの動員数も増えている。現在は第三次ブームと呼ばれるそうだが、新大久保のような文化集積地もできており「文化侵略だ」などと言い出す人まで出てきている。

ところがこの動きに全く追随できていない人たちもいる。未だに韓流ブームを説明するときにヨン様やBTSなどという人がいる。彼らにはYouTubeもドームツアーも全く見えておらず、NHKと政治ニュースの一環としてしか韓流ブームが見えていないのだろう。新大久保に韓流好きが集まるのを快く思わない人たちはこういう時代に遅れているのにメインストリームにいると思っている人たちなのだが、ファンたちは全く別のメディアから情報をえているので、そもそも「けしからん」という声さえ聞こえていないだろう。

東方神起とTWICEで「知った気になっている」のも危険だ。紅白歌合戦を見るような人たちもコアではない。ドームツアーのリストにはEXOやSHINeeなどが出てきているが、さらに新しいグループが続々と続いており、彼らですら旧世代になりつつある。

2004年から2008年頃、日韓では、ブーツカットジーンズやミリタリーやグランジの要素を取り入れた「男らしい格好」が流行していた。このころの日韓のスタイルはほぼ同期していたのではないかと思う。

ところがリーマンショック後に日本と韓国は全く別の道を歩み始めたようだ。K-POPの男性アイドルはどんどん「こぎれいに」なっていった。と同時にスリムフィット化が進む。とはいえ男性アイドルも腹筋を見せびらかすなど男性らしい体つきが良いとされているので、ある程度体を鍛えてスリムパンツなどでタイトフィットに仕上げるのが良いとされているようだ。メンバー分裂前の東方神起・2PM・スーパージュニアなどはデビューしたてのときにはロック調の荒々しい服装だったが徐々にスーツ化が進みこぎれいになっていった。その後発のEXOなどは最初からこぎれいなスリムスーツスタイルが多く、時代がきちんと動いていることがわかる。

この間に日本でも大きな変化があった。シルエットがどんどん大きくなっていった。Men’s Non-Noはハーフモデルを細めの日本人に入れ替えた。細いモデルにたくさんの洋服を着せて体の線を隠すようになっていったのである。最初はボトムだけが太くなり、次に全身が太くなり、最近ではほどほどの太さのものの方が良いということになっているようだ。

30歳代以降の男性ファッション誌はこの一連の動きに追随しなかった。しばらくは市場の要求にしたがってゆったり楽なスタイルがよいとされていたようである。ただゆったりしたスタイルを成り立たせるためにはモデルが鍛えられている必要がある。中年太りの人がゆったりとした服を着ると単にだらしなくなってしまうのだ。人気があったのはアメリカを真似して普通のシルエットにこだわったSAFARIだった。アメリカ人の洋服の選び方はシルエットの面では保守的でありあまり変化がない。日本人が着物を着崩さないのと同じなのかもしれない。GQなどのファッション情報でもシルエットを変えようという提案はなく「ルーズなものはだらしない」という指南が載っている。

日本のファッション雑誌はある程度のスタイルができるとそれが固着する傾向があるように思える。ファンが大きな変化を好まず、そのときのトレンドにあったモデルが選ばれ、そのモデルが似合う服を着せるようになるからである。すると服ではなくモデルにファンが付くのでますますスタイルが変えられなくなるのだろう。

Men’s Non-Noは業界の意見を反映しつつ、同時にアイドル誌になっている。これではファッションは学べないので巷ではユニクロのファッションを使ってきれいにまとめましょうというようなガイドブックが出ている。MBという人がこうした指南書をたくさん書いている。

ファッションについて勉強し始めたときには「どうもファッション雑誌を見てもよくわからないなあ」と思っていたのだがWEARをフォローしたり参加したりするようになってからようやく「実際に流行しているものとMen’s Non-Noなどの業界人が流行させたいものは違うんだな」ということが理解できるようになった。これを補うために各誌ともストリート特集を組むのだがどうしても「自分たちが見せたいものを見せる」ことになってしまう。各新聞が自分たちの主張に合わせて世論調査の質問項目を操作するのと同じようなことが起こる。永田町や霞ヶ関に記者クラブがあるように、東京のファッション誌にも狭いコミュニティのつながりがあるのかもしれない。

村が強固になると過疎化が起こるというのはこれまで見てきた通りである。日本人は不満を表明して離反したりしない。自然とついてこなくなってしまうのである。そして村はそれに気がつかず、知らず知らずのうちに少子高齢化が進む。

新しいトレンドが出てきても、固定ファンがついたMen’s Non-Noは既存客を捨てて新しい流行には移れないだろう。ジャニーズも小柄で中性的な男性がセンターになるので、ある程度の筋肉量を要求するK-POPファッションには追随できないだろう。

現在のファッションは全く違ったところから入っている。それがYouTubeやインスタグラムだ。韓国のテレビ局はケーブルが入って競争が激しくなった。そのため各テレビ局がYouTubeにビデオを流しており言葉はわからなくても韓国の生の状態がわかるようになっている。そこに出てくるK-POPスターのファッションがダイレクトに入ってくるようになった。韓国のトレンドは明らかにタイトフィットなのでそれがWEARなどに乗って拡散するという「紙媒体を全く通らない」拡散方法が出てきている。

政治の世界で「過疎化」を見てきた。ある程度成功を収めたコミュニティが成功に閉じ込められて衰退してゆくという姿である。日本ではこれが政治以外でも見られるのだが、ファッションにはある程度の自由度があり、政治のように閉じ込めが起こらない。

小選挙区制で選択肢がなくなった日本の政治は「政治そのものからの離反」が起こっている。小選挙区の場合二つのうちどちらかを選ぶのだが、日本人は、自分が勝ってほしい政党ではなく勝てる正解に乗る傾向が強いので選択肢がなくなってしまうのである。政治にも固定層である人たちがついていて、彼らに最適化された時代遅れの政治が行われるようになってきている。

しかしほとんどの人たちは選択肢のない政治からは離反している。こうなると政治への貢献はなくなり、嫌なことがあったときだけアレルギー反応を起こして決定を拒絶するということになってしまうはずだ。

日本人には民主主義はとても理解できない

今日は日本人には民主主義はとても理解できないというステートメントについて考える。




まずこれを聞いて腹をたてる人は「日本はそれほど劣っている国ではない」と考えて怒るのだと思う。高度経済成長期にはそういう人が多かったように思う。だが、この「日本人」は、ポジティブだと自分は含まれるがネガティブだと自分は含まれないという二重性がある便利な言葉なのでそもそも「自分が民主主義が理解できない」と考える人は少ないかもしれない。昔からポリティカルアパシーという言葉があったがこれは有権者について分析するための言葉であり当事者としての無力感ではなかった。

しかし、日本人が本質的に民主主義を理解していないのではないかという兆候はある。民主主義は政治参加は平等であるべきだというイデオロギーだが、このイデオロギーというワードがネガティブな含みで語られることが多い。イデオロギーというと「共産党やナチスなどの極端な人たちが個人に押し付ける極端な考え」のように理解されてしまうことが多い。多分言っている人たちも気がついていないと思うのだが、個人は「極端な考えを持たず中庸であるべき」とする東洋的な伝統に基づいているのだろう。

このため日本人は個人や集団が自分の考えを述べようとすると自動的にそれを拒否しようとする。「自分の利得のために言っているのだ」「誰かに言わされているのだ」「私は構わないと思うが、仕事に差し障ることもあるのではないか」とその反応は様々なのだが、背景には「個人が意見をいうなどとんでもない」という前提がある。まっとうな人は社会の原則に従っており、偏った意見など持つべきものではないという考え方がある。

民主主義は現代では正解と見なされているので「偏った考え方」ではない。だから民主主義はイデオロギーとはみなされない。このため日本人は自分たちが西洋型の民主主義に基づいて国を運営していないということに気がつきにくい。

正確に言えば日本に民主主義がないわけではないと思う。日本には「集団が利益確保のために根回しと談合する」というボトムアップ型の民主主義はある。だが、不思議とこの日本型民主主義の研究は行われない。

面白いことに保守の人たちもこうした集団型の民主主義について研究していないし、そもそも真面目に考えてもいないようだ。そのために日本では「日本は民主主義で17条憲法が日本の民主主義だ」などと言い出す人がいる。彼らに政治の話を聞くと「中国の脅威が危険で」「天皇を中心とした長い歴史が誇らしい」という話になるのだが、政治的な諸問題は「どれも取るに足らない」くだらないものと片付けられてしまう。問題解決手段としての政治には興味がないのだろうということだけはわかる。さらにリベラルの人たちも村落型の民主主義を嫌う。リベラルはそもそも集団や村に拒否反応があるので個人が集団を形成して一致協力するという考え方をとらない。お互いに話を聞かないのでまとまらない。

集団型の民主主義を再興するためには家族的で終身雇用的な雇用環境を復活し、排除が少ない中選挙区制度を再導入すべきだろう。しかし、政治はどういうわけかここから脱却したがった。「強いリーダーシップと理念による政治」という日本にはないものを追求してきた。一方で個人のイデオロギーが主導する民主主義を導入するならば、一年かけて政策コンペを行うアメリカ大統領選挙のような仕組みを導入するか、完全比例代表制で多様な意見を集め、その政党が政権を模索するという制度を導入すべきだろうが、集団型の民主主義を脱却して個人のアイデアをベースにした政治に転換すべきだという人もいない

日本人は西洋型の民主主義が理解できないわけではなく、そもそも問題を解決「する手段」としての政治に興味がないのかもしれない。放置しておけば何らかの問題は起こるだろうが「なったらなったでそのとき対処しよう」と考えているのかもしれない。

ローラの政治的発言と個人主義

Quoraでまた面白い視点を発見した。ローラが政治的発言をすることの是非を聞いたところ、個人の発言をとやかくいうべきではないと叱られたのである。日本における個人主義の理解としては極めて真っ当だと思った。




これまでローラはこの問題について<正しく>理解はしておらず、西洋的な外面にしたがって政治問題に参加したのだと分析してきた。西洋的な外面とは「セレブは環境問題や人権問題について積極的に発言すべきだ」という価値体系である。実際に彼女が出演しているTBCのコマーシャルは環境問題とリンクしているので一定のマーケティング的な価値があるものと思われる。最近はインスタを経由してこうした価値体系が直接日本に入ってくる。ただこれは環境問題についての発言であって、基地の移設が国防にどう関与するかというような話ではない。最近ではBTSが人権問題で演説したことからもわかるように、アメリカを中心とした文化ではこれがトレンドなのだ。

これが日本で摩擦を起こすのは西洋の民主主義の価値観と我々の村社会の価値観が全く異なっているからである。

アメリカのセレブが環境問題で積極的に発言するのは、彼らの発言に社会的な意味があるとされているからである。もともとキリスト教文化圏には献金文化がある。社会的に成功している人はそれに応じて社会にそれを還元しなければならないという考えたかたである。なので「政治的発言」と言ってもそれは人権擁護とか環境問題のようにあまり個人の利害に関わらないものになる。そして、それは必ずしも個人の見解ではなく社会的に意味があるものとされる。社会はセレブが政治的な発言をすることを積極的に期待するのである。デモが政治的発言として社会に組み込まれているのと同じようにセレブの情報発信も社会に組み込まれている。

ところが村落性が強い日本では個人の考えが政治に生かされることはない。村落性が強い社会というのは、個人の意見が顧みられず政治的な意思は集団の利害を調整した上で集約されるという世界である。通貨になっているのはイデオロギー(個人の理想)ではなく村の利益なのである。

このため村と個人の利害関係が一致しなくなるとそれを窮屈に感じる人が出てくる。そういう人たちは相互監視的な村のあり方を嫌うので「社会は個人に干渉すべきではない」と感じるようになる。個人の理想は村から出ることはできるが、それを社会二戻す仕組みはないのである。村は村だけで利害調整を行う。だから村は過疎化し、外に出た人たちは孤立する。一人ひとりの人生をみるととても複雑なことが起きているが、構造自体は極めて簡単である。

ローラは政治的発言をすべきではないという場合それは「村を離れた人が村に干渉するなどとんでもないことだ」という意味になる。だから村人がローラの政治的な発言をすべきかということを決めるべきではないというカウンターの価値観が生まれる。

ところがこれは裏返すと、ローラの発言は個人が勝手にやっていることだから社会とは関係がないということになってしまう。しかし、日本人は窮屈な村落に慣れているのでそれに気がつかない。この主張をした人は多分自分が何を言ったのかよくわかっていないと思う。この後のコメントで延々と個人が政治について語ることの「リスク」について言及していた。

前回はアレルギー反応としての辺野古反対について見てきたのだが、実は窮屈になりすぎてしまった村落に対する反対意見の表明としての「個人主義」という考え方もあるのだなと思った。

例えば自分勝手としての個人主義は立憲民主党などのリベラル政党に見られる。みんなが好き勝手に意見表明はするがいつまでたってもまとまらず政治問題解決のために事務所をつくったり議員同士が組織的に協力しないという学級崩壊的な世界である。だがこれはリベラルでは取り立てて珍しい光景ではない。そして彼らが集団でまとまろうとすると党議拘束がかかり少数の執行部が決めたことをしぶしぶみんなが守るという集団になる。彼らはそのやり方を学校で習っているわけでもないだろうから、日本人の「村人DNA」がとても強いことを意味しているのだろう。

日本人はほぼ無意識のうちに強い村意識を受け入れている。これをいくら長々と書いたところでキリスト教文化が個人の貢献を元にした公共を作っているということを見たことがない人には、西洋的民主主義の仕組みは理解できない。

日本の民主主義が崩壊しているという不満を共有する人は多いが、実はかなり複雑な背景があると思う。村的民主主義(実際には集団そのもの)が崩壊しかけており、かといって個人主義的民主主義も理解されてこなかった。保守と呼ばれる人たちは強い国家が村を再建してくれることを望んでいる。そしてリベラルと呼ばれる人たちはその村に取り込まれたくないと思っている。しかし、国家権力は自分たちだけが快適に住めるオトモダチの村を作るだけで国民を救済してくれないし村から離散した人たちは一致団結して新しい社会を作ろうとは思わない。だから、いつまでたっても問題が解決しないというのが平成も終わろうとしている2018年の政治風景なのではないだろうか。

しかしながらこの問題の最も基礎にある問題は、自分たちの社会が何であって何を望んでいるのかということを言葉にして外形化できていないことなのではないかと思う。表面的には日本語という同じ言語を話しているのだが、お互いに意思疎通が不可能ということなので、いわば我々は現代のバベルの塔に暮らしていることになる。

マティス国防長官の辞任に全く反応しなかった日本人

マティス国防長官が辞任することがわかった。またしてもトランプ大統領によるTwitter辞令だったために日本などの同盟国には告知されなかったのではないかと思われる。今日はこれについて考える。




マティス国防長官は辞任にあたってトランプ大統領に手紙を書いており、これが各媒体で紹介されている。(New York Times)日本でいえば防衛長官の解任がTwitterで知らされその反論が朝日新聞から出るというような感じで、極めて異常な何かが起こっていることがうかがえる。マティス国防長官は新聞を使って説明責任を果たし、トランプ大統領はTwitterを使い説明責任を放棄した。

マティス長官が防衛についてオーナーシップを持っているのは明らかで、その意味ではマティスにとってこの仕事は所有集団になっていることがわかる。そのため、後に残る軍人やその他の職員について言及しており、十分な引き継ぎ時間を取ったと説明している。と同時に後任は勝手に決めたらいいと言い放ってもいる。日本人は仕事に対して所有感や所属感を感じると後任についても色々と言いたがるものだが、マティス長官はトランプ政権に必ずしも所属感情を抱いてはいなかったようである。その意味では「わが軍隊」ではあっても「わが政府」ではなかったということだ。

この件について思い出したのは天皇誕生日の会見だった。実はニュースは見ていないのだが声を詰まらせて「30年の間に戦争がなくてよかった」と語られたそだ。よほどの重圧だったということがわかるのと同時に、今上陛下が日本の平和について政治的権限がない中でオーナーシップを感じていたことがわかる。戦争と平和ということを語る上でこの重圧と責任感というのはとても大きな視点だと思う。

マティス国防長官はトランプ大統領の予算措置には感謝している。しかし、英語の場合「だがしかし」の後が重要である。そのだがしかしの中身がいささか深刻だ。戦争と平和にオーナーシップを感じていたであろうマティス国防長官は、同盟国との関係が重要視されていないことがアメリカの国益を損ないかねないと言っている。

マティス国防長官によると、アメリカは自由・民主主義社会を守るために同盟国と組んで中国やロシアと対峙している。であるから、同盟国を大切にしなければならないと言っている。この価値観がトランプ大統領と合わないと言っているので、言い換えると「トランプ大統領はアメリカの価値観がよく理解できていない」と批判していることになる。

トランプ大統領は目先の利益を優先し同盟関係を取引の材料にし始めている。これがアメリカという国の国益を損なうというのがマティス国防長官の主張なのだろう。そんななか彼はアメリカの戦争と平和に責任は持てないと言っているのだ。

今上陛下の発言はある程度日本人の心を動かしたようだが、マティスの件はあまり関心を集めなかったようだ。日本人には正常化バイアスが働いていて「同盟を維持する価値観が揺らいでいる」と考えたくない人が多いのではないかと思った。つまり、意味がわからなかったという人と、なかったことにしたいという人が多かったのではないかと思う。日本人は戦争と平和について真剣に考えていない。国民だけでなく政権も実はそれほどの責任感は持っていない。

このオーナーシップのなさが顕著に表れているのが辺野古の埋め立てである。埋め立ては始まったが工事が着工できるめどは立っていないそうだ。まだ調査も終わっていないそうで、予算執行が見送られたと伝えられた。(琉球新報)巷ではファッションセレブのローラさんが「辺野古を守れ」と表明したことが話題になっている。これは国防とはリンクせず単に環境破壊はいけないという文脈だ。実際には単なる反対派への嫌がらせのための無駄な環境破壊が起こっているだけなのでローラさんの指摘は実はあっていたことになる。官邸は反対派が面白くないという村の論理で必要のない埋め立てをやっているのだ。毎日新聞によると海底が軟弱でコンクリートの構造体が置けない可能性もあるそうで(毎日新聞)そうなるとアメリカのアセスメントに通らないから基地は移転できない。

最後に、損得で国防を考えがちな日本人は、価値観が同盟を支えているということをあまり理解していない可能性があると思った。アメリカは人工的に作られた国なので自由を守るというイデオロギーがとても大切だ。それを守るためにアメリカの国境を固めて国際的には引きこもるというのが孤立主義であり、世界の同じ価値観の国と連携するというのがマティス国防長官らのイデオロギーなのだろう。

日本人はどうやら「アメリカが世界で一番強いのだから、それに依存するのが一番トクである」と損得勘定で考えているように思える。安倍首相が「自由主義という共通の価値観を」と主張すればするほど、このうわ滑った感じに薄ら寒さを感じる。平たく言えば「アメリカの意向を背景に中国に対して威張りたい」と考えているのではないかと思ってしまうのである。

アメリカで同盟関係を維持する価値観が揺らいでいるということは近い将来日本に対して重大な問題になるだろう。アメリカが日米同盟を経済的取引のための道具として利用すると、これまで近隣諸国とうまくやってこなかった日本はそれを拒否できない。日本人は強いものに守られていると感じると弱いものにことさら居丈高になる。関東軍を背景にして日本人が、満州人や中国人を「指導」したというのと同じことである。相撲のかわいがりと同じようにそれは暴力的な威圧だった。結局関東軍は逃げ出してしまい、取り残された日本人は今度は満州で逃げ回ることになった。同じようなことが起こるかもしれないし、守ってやっているのだからという理由で過剰な貢献が求められるようになるかもしれない。実際にアメリカの兵器産業への貢献は進んでおり、国会ではほとんど議論になっていない。

さすがにトランプ大統領も国防を恫喝の道具にはしないだろうと思いたいのだが、トランプ大統領は先日政府機関の一部閉鎖に踏み込んだ。(時事通信)彼にとっては政府機関とは自らと支持者の欲求を満たすための道具にすぎない。もともとは自身が責任を取ると言っていたそうだが、支持者たちが騒ぎ始めると一転して民主党非難に転じた。これを同盟国との関係でやらないとは言い切れない。

さらにニューヨークタイムスはあまり心配しない日本人の代わりに同盟について心配している。価値観によって結びついているヨーロッパが離反すれば、いくつかのことが起こる。日本がアメリカと一緒に孤立し、アメリカからは守ってもらえず、中国とヨーロッパが接近して相対的に中国の力が強くなる可能性があるのだ。

しかし最悪なシナリオが実現しても日本のジャーナリズムはこれを見て見ぬ振りをする可能性が高い。記者クラブという既得権益に守られて政府の御用報道になったジャーナリズムは分析力を失いつつあるからである。これが結果的に国民の知る権利を侵害し、更新されない古びた世界観を持った保守とリベラルが不毛な論争を繰り広げる可能性がある。

ローラの政治的発言と所有集団

モデルのローラが辺野古基地に関する反対署名を呼びかけて話題になっている。これについて芸能人は政治的発言をすべきではないという人と、テレビで政治的発言ができないのがおかしいという声がある。これについて整理したい。




前回、所属集団・所有集団という概念を作った。日本人であると宣言した時、それが単に所属先(日本国籍を持っている)を意味しているのか、それとも「俺の国」と言えるかという問題である。実際に所有していなくても、俺の国と言えた方が「所有感覚」が強いといえる。

まずは、テレビが政治的発言を禁止している理由を考えよう。アメリカなどのいわゆる民主国家は個人の理想(イデオロギー)を実現するために作られた国である。こうした国では個人が意見を持つのは当然のことであり、当然テレビもその社会思想によって「設計」されている。

ところが、日本はそうなっていない。テレビはスポンサーの意向を無視することはできず、電波は国からの免許を受けている。それぞれの利権集団は集団として集めた意見を集約してその一番大きな単位が国になっている。だから異議申し立てをするとしてもそれなりの通路を通じて決まった方法で集約していかなければならない。この意見集約を根回しや調整などと言っている。だから「芸能人が個人的に勝手に」そこから外れる発言をされると「調整ができずに困ったこと」になる。日本の芸能人は個人の意見を代表しているわけではなく、テレビ局、企業、政府といった集団で決まった決定事項を「告知する」ために雇われているいわば出入り業者なのである。

日本人は村が階層構造を持ち、最終的には中心に何もできない権力者を置いた上で少人数で意思決定するというやり方を好む。また、最小単位である村は相互に意思確認可能な少人数の集団であって、トップにいる人たちは村が何を考えているのかわからないという構造もある。かなり複雑で緻密な構造体なのだが自然発生的にできているので、日本人もこうした構造があることをあまり意識しない。

例えば、日本人は会社でも会議では賛成しかしない。会議というのは、意思決定に参加できなかった人が行き場のない感情をぶつける場になることはあっても、意思決定が覆るようなことはない。表は裏で根回しが終わったことを最終的に承認して見せる儀式の場に過ぎないのである。日本人は表で意思決定が覆ることを好まないので、野党が支持されることはないのである。だが、トップにいる人たちがトップダウンで何かを決める場所ではない。トップの人たちは情報を持っていないか、そもそもお飾りかのどちらかなので、意思決定はできない。この集団を通じたボトムアップというのが日本型の民主主義の特徴である。

芸能人が事前に打ち合わせたのと違う意見をいうというのは、そもそも会議での不規則発言のようなもので、日本のような社会ではあってはならないし、もしそんなことが起こったら日本人は意見調整ができなくなる。会議に権限がないので、会議の意思決定をボトムに流す仕組みがない。だからそれが儀式に過ぎないことがバレてしまうのである。

しかし、日本では民主主義が機能していないと感じる人びとは多いはずである。これは、村から排除されてしまい所有をしている組織も所属をしている組織もないという人が増えているからであろう。つまり、日本ではフリーの人には人権がないのだ。

デモが政治的プロセスとして組みいれられている国ではデモの結果を受けて意思決定が変えられる可能性がある。それはデモが一人ひとりの意見を反映していて、なおかつ一人ひとりの意見が国を作るからである。韓国もまた国防に国民のフルコミットが必要な戦時体制下にあり民意は大切である。こうした国ではデモが政治的に機能する。

日本でデモに参加したいという人が増えているのは、村の複雑な仕組みが日本の統治機構として機能しなくなっているからだろう。もっともわかりやすいの現象は「うちの会社では」と言える労働者が減っていることだろう。終身雇用が当たり前だった時代には、労働組合が指定した候補者に入れるなどということが当たり前に行われていた。

加えて、日本もリスク社会化しており、「嫌なこと」が増えている。いわゆるリベラルな人たちが嫌っているものは「バイキン」に置き換えられる。例えば戦争・原発・大気汚染・給食を洗浄する水に含まれる塩素・遺伝子組み換え食品などは全てバイキンである。合理的に拒否したいというわけではなく生理的に嫌なのだ。これが日本のリベラルが政治的意見に見えない理由だ。政治的発言というよりは身の回りを除菌してきれいにしておきたい欲求として捉えるとわかりやすい。だから彼らには合理的な対案などない。床に落ちた食品は捨てるしかない。そこに対案などいらないのだ。

ローラの政治的発言はその意味ではとても厄介な場所にある。ローラは個人の意見が政治の基礎にある国を真似して「国際的セレブ」という印象を与えるために政治的発言を行っているものと考えられる。これ自体は悪いことではない。問題は日本にはそうした素地が全くないという点である。

そもそもローラがどうして辺野古の基地建設に反対しているのかはわからないし、彼女のその他の価値観と辺野古がどう接続しているのかもわからない。あるいは通底するものなどないかもしれないのだが、それは個人の内心を持たないかあまり興味がない日本社会としては取り立てて珍しいことではない。

さらに、それを支持する人たちは「サンゴ礁が壊されるから嫌」とか「戦争はいけないことだから基地はダメ」と言っているだけであり、必ずしも国防に興味があるわけではない。これは沖縄の当事者たちの政治的意識とも少しずれているし、もちろん日本の政治的な意思決定とも接続していない。いわばアレルギー反応なのである。

前回は「所有がないことに対して日本人は関心を示さない」ということを見たのだが、実際には「所有がないことにも関心を示す」場合があることがわかる。これが生理的欲求である。免疫細胞が嫌だと思ったものを排除し時には過剰反応してしまう生理現象がアレルギーだ。

ここまでの考察を整理しよう。日本の芸能人がテレビで政治的意見を表明でいないのは日本の意思決定の仕組みがこうした「不規則発言」を処理できないからだ。それなのに「政治的発言をしたい」という人が増えるのは日本の統治機構が壊れかけているからである。だが、個人の内心が国を作るという認識がほとんどないので、西洋のセレブを表面的に真似てもそれは政治にはならない。しかし、もともとそうした政治意識がないのでそれに違和感を感じる人はそれほどいないということになる。

このため、日本人はこの問題をきっかけに辺野古や日本の国防といった政治課題について考えることはない。ただただ、芸能人が政治的発言をすべきなのか、そして今回の意見を無視しても構わないのではないかという議論だけがひたすら行われるのである。

所属集団と所有集団

国際捕鯨委員会(IWC)から日本が脱退することが決まったそうだ。これでクジラの肉が食べられる!と喜んでいる人たちがいる。




この件については国際的非難が予想されるのでリスクの高い判断と言えるのだが、いわゆる保守と呼ばれる人たちはそうしたリスクについてあまり関心がないようだ。人の目を気にし、リスク回避傾向の強い日本人としては極めて異例のことと言える。国内にいるとクジラを食べるのは当たり前と考えらているからだろう。つまり「みんながやっていることなので別に良いのではないか?」というバイアスが働くわけである。これは「ムラバイアス」だ。

例えば相撲界には「暴力は教育の一環である」というムラバイアスがあり暴力問題への対応が遅れた。最終的には公益法人格を返上してはどうかという問題にまで発展したために一転してガバナンスを強化するという方針に転じた。これも本当の意味で周辺が何に怒っているのかよくわかっていないからだろう。つまり理不尽に「怒られている」ように思えると説明や原因究明ではなく厳罰化に走ってしまうのである。実際に中にいる人たちが反省しているわけではないうえに、暴力のメカニズムも分析されていないので罰則だけが強まり暴力事件はなくならないだろう。

また従軍慰安婦問題では「どこの国の軍隊だって多かれ少なかれこういうことはあるだろう」というムラバイアスがある。しかし世界の軍隊は男女平等化が進んでおり女性の人権蹂躙は深刻な問題になっている。従軍慰安婦的なものを許せば女性兵士への乱暴も許容せざるをえない。例えばアメリカでは女性だけでなく男性も性的乱暴を受けることがあり問題になっている。だがムラに住む日本人はこうした一連の変化に気がつかないので、この問題を適切に処理できないわけだ。日本人はムラロジックには極めて敏感に反応するが、ムラの外には全く無頓着である。

考えてみれば、日本人がそもそもそれほどクジラ肉を食べない。冒頭でリンクしたBBCは冷静にこう書いている。

日本では海岸地域の住民の多くが捕鯨を数世紀続けてきた。しかし、クジラ肉の消費が急増したのは、クジラが食肉の主要供給源となった第2次世界大戦終結後だけで、最近数十年間では消費量が急減している。

https://www.bbc.com/japanese/46643430

かつては給食などで出されていたようだが、代用肉という印象が強く、決して美味しいものではなかった。さらに最近の人はそれすら食べたことがないのではないかと思う。この問題は「多くの日本人にとってどうでもいい」はずの問題なのだが、これに強く反応する人がいる。普通の日本人と何が違うのだろうか。

よく集団と呼ばれるが、所属している集団とは別に、強い力を持った集団がありそうだ。意思決定に関与でき、自分のアイデンティティに関わるような集団である。所属欲求は守られたいという欲求だが、これとは別の欲求があるように思える。これが所有欲なのではないかと思った。

アメリカ人は自分が勤めている会社をworking forと表現しour companyとは言わない。our companyでは経営していることになってしまう。この経営という概念は所有である。一方日本人は所属しているだけなのに所有欲求を持つことがあるのである。

この所属しているという感覚は悪用されることがある。アルバイトが仕事に所有感を持っている場合「自分の方がマネージャーよりも現場をよく知っていて」なおかつ「その仕事に責任感を持たねば」と感じることがあるだろう。これを悪用するとブラック企業ができあがる。やりがい搾取と呼ばれる現象である。クリスマスケーキを進んで自腹購入したり、アニメで名前がクレジットされるからといって請負契約で最低賃金以下の時給しか貰わないという現象になる。「やりがい」と言っているが実際には過剰な所属意識が利用されているわけである。やりがい搾取というのは偽の所有欲求を持たせるところから始まるのだ。アメリカのような契約社会では職場に所有欲求を持たないので、過労死レベルまで働いて現場という戦線を維持しようと考える人はそれほど多くない。

日本人が鯨食を擁護したいと思ってしまうのは、これも意思決定と所有欲求に関係しているのかもしれない。海外の人たちが勝手に「鯨食は野蛮だ」と決めていると感じた人は嫉妬心から腹を立てて鯨食を擁護してしまう。強い所有意識を持っている人たちはつい自分が屈辱されたと思い、あまり食べなくてもすむクジラを弁護してしまうのである。

もちろんこの所有欲求は日本だけの現象ではない。韓国では日本人が所有欲求を持たない「国」に所有欲求を持っている人たちが大勢いて、大統領の弾劾のためにデモに参加したりしている。日本人は国に所有欲求を持たないので安倍首相を政治から追放するのにデモをすることはない。むしろ国政に関心を持たない人が大勢いて、このことからも日本人が「所有欲求を持たない集団」に対して極めて無関心で冷淡な態度を取ることがわかる。公共を信じない日本人は何かが決定されたら自分は損をしないように動けばいいと考えており、それが結果的に全体の利益を損ねることになってもそれほどの抵抗は示さない。一方、戦争状態の国にとっては「自分たちの国は自分で守る」という意識を持たせるのは極めて大切なことであり、これが過度な所有欲求につながっているのかもしれない。

そう考えると、何かを自分の支配下におきたいという所有という概念には強い力があるのだということがわかる。他人を支配したいような人はこうした所有欲求をちらつかせて搾取を目論むのかもしないと思った。

日本人が国際的に非難される理由について考える

タイトルは大げさだがそれほど大したことを考察するわけではない。Quoraを見ていて慰安婦問題が国際的に非難される理由がわかったみたいな気がするというだけの話である。




Quoraで面白い質問を見つけた。日本では女性を性的に扱ったアニメコンテンツが多いというような内容だった。外国の人の質問らしい。これについて続々と反論が寄せられている。

よくこのブログでは「日本人は文脈にこだわる」というようなことを書くのだが、アメリカやヨーロッパにも文脈はある。この場合、「欧米に比べて人権的に遅れているので反省してはどうか」という言外の含みがあるのだろう。さらに東洋人の男性というのは全て女性を下に見ていて未だに隷属支配しているという思い込みも含まれていると思う。

ところが日本人(答えた人はほぼ男性だったが)はこの文脈がわからない人が多いらしく様々な回答を返していた。日本人は自分たちの文脈にはとことんこだわるのだが、他人の文脈には極めて無関心のようだ。

  • 確かにそうだがビジネスなので仕方がないという回答は人権を無視してビジネスにしていると捉えられる。金儲けなら何をしてもいいのかと非難されるわけである。
  • そんなことはないという回答は問題意識がなく疎い人だと捉えられる。
  • そうかもしれないが欧米だってそうだという回答は欧米の問題があるからといって日本の問題は正当化されないという反論を呼ぶ。たいていこのような質問をする人は欧米の状況も非難するはずである。

しかし日本人は他者の文脈的背景がわからないので、割と平気にこういう回答を返している。そしてみんながそのような答えになるのであまり違和感を感じないようだ。「日本人は全体として人権意識が低い」という印象を与えるのでかなり危険である。

ここから、組織が組織防衛に走る時にも同じような現象が起こるんだろうなと思った。このブログでは散々村社会が炎上する様子について観察してきた。我々は情報消費者として外にいるから、さまざまな体育系の団体や学校が「この問題は大したことはない」とタカをくくっている間に炎上している様子がわかるのだし「何故中にいる人たちはこんなことにも気がつかないのか」などと不思議になる。だがアニメ擁護議論を見ていると、こうしたことはどこにでも起こり得ることがわかる。

日本人の男性は駅売りのスポーツ紙に女性の裸に近いような写真が載せられていたとしてもなんとも思わない。そしてそれを女性から指摘されても「そんな小さなことに目くじらをたてるな」という。外国人から指摘されても同じようにいうのだが、これが場合によって炎上することになる。例えば伊藤詩織のレイプ事件はかなり重大な人権蹂躙だが、BBCが報道するまで「大した問題ではない」と思っていた人が多かっただろう。インサイダーは問題を過小評価してしまうのだ。

例えばインドではプロポーズを断った女性の顔を科学的薬剤で破壊するというような行為が起こる。これをインド人の男性が「そういうこともあるさ」などと回答すればかなり人権意識の低い国と見られかねない。もちろん、英語ができるインド人は欧米人がどのような眼差しで自国を見ているのかを知っているので「政治的に正しい」回答をするはずである。

この件について過小評価せずにきちんと「政治的に正しい対応」をするためにはどうしたらいいのだろうと考えた。つまり「国内的には大した問題ではない」という認識を持ちつつ距離をおいて「政治的に正しく」回答するためにはどうしたらいいのだろうか。

欧米で日本的なアニメコンテンツが問題視されるということを知るためには、まず欧米の人と直接会話したうえで、自国文化についてある程度客観的な説明ができなければならない。つまり、外との交流と言語化が必要なのである。

さらにそれに加えて「日本文化を否定されることは自分の恥になる」という一体化は避けるべきだ。例えば捕鯨の問題では欧米から非難されると「捕鯨は日本伝統の文化で」などと言い出す人がいるはずだが、その人がクジラ肉がないと生きて行けない人であるとは限らない。こうした一体化は思いもよらない反発を招きかねない。

Quoraは最近質問をテコ入れしており参加者が増えてきた。このためちょっとした国際摩擦を引き起こすかもしれないという面白い問題が生じている。Quoraはある意味教習所のようなところなので、問題はそれほど大きくはならないとは思う。だが、それを欧米的な議論だと思ってはいけない。同じような議論を公共の場でやると間違いなく叩かれる。

例えば従軍慰安婦問題で同じような主張をすれば非難されるはずだし、捕鯨の脱退問題でも同じようなことが起っているはずだ。日本人がこうした問題で国際的にうまく立ち回れなかったのは、多分自分たちの文化を客観的に見ることができていないからだろう。