似合わないピンクのシャツを着た太郎ちゃんがTwitter民を怒らせる

人生100年時代、2000万円が不足 金融庁が報告書というニュースがTwitterでちょっとした話題になった。「年金が足りなくなったから政府が言い訳を始めたのではないのか」というのだ。




この件で一番笑ったのは麻生副総理のフッテージだった。いつものように記者たちに上から目線で「君たち、老後設計なんか真剣に考えたことないだろう」というようなことを言っていた。似合わないピンクのシャツでニヤニヤ笑いながら話すその姿勢が「炎上すればいいのに」と思ってしまった。そして案の定反感を買っている。

多分、麻生副総理には記者の向こうに大勢の人々がいるという想像力はないのだろう。さすが上級国民の中の上級国民である。知りたいことは誰かが教えてくれるからわざわざTwitterなんか探さなくてもいいのだ。

真面目に分析すると、金融庁はこうしたいかにも一人歩きしそうな報告書を流すべきではなかったし、もし麻生さんが総理だったら大炎上していただろう。ただ、麻生さんには政府全体で(少なくとも厚生労働省と)すり合わせをして全体で整合性の取れた議論をして世論に告知しようというようなつもりは全くないようだ。麻生さんはもうやめたがっていてそれを安倍首相が引き止めているという観測(日刊ゲンダイ)もある。映画監督はおらずもう引退しても構わないやというベテラン役者たちが好き放題セリフを喋っているような状態になっている。

ただ、それを伝えて批判すべきマスコミも無責任である。日経の記事には次のような一節がある。

長寿化が進む日本では現在60歳の人の25%は95歳まで生きるとの推計もある。報告書では現役時代から長期積立型で国内外の商品に分散投資することを推奨。定年を迎えたら退職金も有効活用して老後の人生に備えるよう求めた。

人生100年時代、2000万円が不足 金融庁が報告書

この分散投資をやるためにはかなりの金融を勉強するか金融知識を持った人たちに頼る必要がある。高学歴の高齢者ならパソコンを使ってオンラインバンキングなどにアクセスすればいいと思うのだが、これができない人も大勢いるだろう。さらにそもそも貯蓄ができない世代がある。単身だと3割が貯蓄なし世帯でありそれ以外でも2割くらいが貯蓄なし世代なのだそうだ。そこで年金などが足りなくなれば「即ゲームオーバー」である。ただ、日経新聞はそういう人たちのことは考えないんだろうなというのはわかる。彼らの読者にはならないからだ。

もちろん安倍総理大臣も選挙で勝てればいいのでこの先のグランドプランを考えるつもりなどないのだろうし、問題を掘り起こしたりすれば「アベノミクス失敗」と言われかねない。お気付きの方もいらっしゃると思うのだが、こうした問題には野党は発言をしない。彼らもまた「対処する方法などない」ことを知っているのである。枝野さんも対案を出すつもりはなさそうだ。対案は緊縮財政になるので選挙では言えない。これが議会主導民主主義の欠点である。努力で政治が変わるなら誰も苦労しない。

このニュースのレスポンスをテレビで少し見たのだが、笑いながら「いやーそんなの無理無理」と言っている人が多かった。多分、みんなと同じように真面目にやっているのに私がそんなに困るはずがないと思っている人が多いのではないかと思う。金融庁のいうとおり老後破産が増えるかどうかはわからないが、現実のものとなればかなり悲惨なことになりそうだが、その実感は今はまだない。

今の日本の財政は国債の占める割合が多い。それだけ余裕があると勘違いしている人が多いのだろう。閉塞感がある中でもある種バブルのようになっている。ちょうど平成に切り替わった頃の空気感である。これがバブル崩壊でガラッと変わる。令和もそういうじだいになるかもしれない。

ヨーロッパでは既存政党が軒並み国民から突き上げを食らっている。緊縮財政を敷いている国が多くそれが反発されている。ヨーロッパは官僚政治ではないので、責任政党がそれなりのプランと見通しを持っている。それを左右のポピュリスト政党が揺らしているという構図である。日本は野党化した自民党がポピュリズムの要素を取り込んでしまったために政権政党への批判が見られない。

なんとなく「麻生副総理が反発されて選挙で負ければいいのに」などと思ってしまうのだが、バックアップ政党もなんだか頼りない。実際に何か起きてみないと政治は変わらないだろうが、多分かなり多くの人がその被害を受けるはずである。

「どうやったら幸せになれるか」を考えてはいけない不機嫌な社会

川崎登戸の事件をきっかけに色々と考えている。今日のお題は「閉塞感」である。とにかく誰が悪いのかという話ばかりで解決策が語られない。




このところQuoraの政治スペースをコツコツと埋めているのだが、マスコミが波及被害をもたらしたという書き込みにはかなりの高評価があった。高評価があると閲覧回数が増えるという仕組みになっているようだ。実はこのブログの「マスコミが人を殺した」という記事もプチヒットになった。それだけ「マスコミが」という書き方は感度が高い。それは閲覧者が「非当事者」として上から語れるからだろう。時事評を格上ではこれが重要である。そして時事評として成功すればするほど問題解決ができなくなる。当事者的感覚から離れていってしまうからだ。

いずれにせよ、みなが当事者として右往左往することに疲れており、非当事者として他人を裁きたがる。

マスコミは犯人探しをして日銭を稼いでいるわけだが同時にターゲットにもなっている。このことに気がついてからテレビの川崎・登戸報道は抑制姿勢に入ったが、テレビ朝日では女性のコメンテータが「それでも精神病の中には危険な人がいる」と自説をぶちまけており局員コメンテータから制止されていた。そして制止されてもまだ自説を叫び続けていた。あとで調べたらやはり非難されている。こういう発言が人を追い詰めるということに気がつかない人が大勢いるのだ。

ところが、自民党批判に結びつくような記事やアメリカ批判に関する記事にはそれほどの高評価がつかない。ブログを書いていても思うのだが、現状批判はNGなのである。ここに日本人が作った見えない障壁があり、閉塞感の一つの要因になっている。

やはり閉塞感は感じているので誰かを悪者にはしたい。だが、現状は変えたくない。だが、藁人形は藁人形にすぎないので問題は解決しない。しばらくはこの状態が続くのではないかと思う。

ではそもそも「現状をよくしようとしているのか?」ということに興味が湧きいろいろ質問してみたのだが、こちらはさらに鬱屈した状態になっているようだ。

最初の質問はマインドフルネスについてのものである。情報産業も便利さだけでなく心の豊かさに資するようなプロダクトを供給しなければならないというアメリカ西海岸的なリベラルさんが喜びそうな内容だ。そこそこの閲覧数は稼げたが回答がつかなかった。唯一ついた回答は「あれ?なんで怒っているの」というものだった。理由はよくわからないが「自分でも追求してみたがなんらかの形でうまく行かなかった」人の反応に似ているなとは思った。2009年から3年間での民主党政治の失敗を見ていてもわかるのだが、改革期待が失望に変わると希望は怒りに変わる。そして怒りを持った人が「新たな希望を持つ人」を妨げる側に回ってしまうのである。

次に現実的なスキルについて聞いてみた。今回の一連の事件には「家族間で感情を話し合えるスキルがない」という問題がある。では、いつまでに自分の気持ちが表明できるスキルが獲得できればいいのかと聞いてみた。この後「どうやったらスキルが獲得できるのか」ということを聞いてみるつもりだった。当初回答はつかず安倍政権をナチスになぞらえたものが来ただけだった。

しかし、こちらはあとになって役に立ちそうな回答がついた。知識を持っている人はとにかく忙しいのでなかなか解決策を提示する余裕がないのだろう。それでもよく書いていただけたなと思う。

ただ、こちらは専門的に深掘りする内容になっている。このアプローチには少し分析が必要だ。砂漠の宗教と森林の宗教を比べた研究があるそうだ。読後感を書いたブログが見つかった。砂漠では位置を間違えると死んでしまうので「今自分がどこにいるのか」という鳥瞰的な見方が発展する。ところが森林ではそのような地図は作れないので「今いる視点」が世界の全てになるというような筋である。

これがどの程度正しいかはわからないのだが、日本人が鳥瞰・俯瞰思考が苦手というのは誰しも感覚的に感じるところではないかと思う。このため、日本人が専門分野について語る時には鳥瞰的な知識を持った人が専門家をまとめなければならない。そうしないと森の中でそれぞれの人がそれぞれの視点で「正解」を語りだしやがて喧嘩になる。かつての企業で「総合職」的役割が重要だったのはそのためである。

今回の回答は、心因性と機能性の二つの問題があるというところまではある程度俯瞰的なのだが、そのあと機能性の話になってしまい、そこで終わっている。

いずれにせよここからわかるのは、我々が解決思考になろうとした時に少なくとも二つの障壁があるということだ。まず改革に失敗した人たちの怒りをすり抜けるある種の図太さが必要であり、さらに深くなりすぎるそれぞれの議論を統合しなければならない。なかなかしんどい作業なのではないかと思う。

こうした背景があり、社会全体として解決策を討議できないので「個人の幸せ」や「居心地のよさ」を前面に出して聞いてはいけないという空気がなんとなく生まれている。コミュニティのメンバーとして対応を求めるものは特にNGであり、「非当事者」としての逃げ場を準備してあげた上で語れるような聞き方をしてあげなければならない。これが実に面倒くさい。

ソリューションを持っている人たちは忙しすぎる。まとめる人もいないので、社会や集団を変えてゆくことはできない。だから、ソリューションを持っていない人たちは現状への不満を抱えつつどう表現していいかわからず怒り出してしまうのかもしれない。そうして幸せについて語ってはいけない不機嫌な空間ができる。

と一応分析してみたが、なぜ日本の社会がここまで不機嫌になってしまったのか。わかるようでよくわからない。コミュニティや議論と対話のカテゴリでしばらく観察を続けたい。

政府が北方領土交渉を諦めたらしいという話

G20が迫ってきた。各国首脳が集まる絶好の機会であり、参議院議員選挙を控える安倍首相としてはなんらかの成果を出したいことだろう。その中で一番大きそうなのが「対露経済協力の促進」である。準備作業は着々と進んでいる。




河野太郎外相は31日、日ロ平和条約締結に向け、ロシアのラブロフ外相と東京都内で会談した。北方領土での共同経済活動に関し、6月11日に東京で局長級作業部会を開くことで合意。同29日に大阪で首脳会談を行う方向で最終調整することを確認した。

日ロ首脳、6月29日に会談=両外相、共同経済活動へ協議促進

ところがここに書かれていないことがある。北方領土交渉の進展だ。産経新聞は自分たちの読者をフォローしている。

ロシアのラブロフ外相が31日の日露外相会談後、「(日露の)国境画定の問題は平和条約の締結後に検討する」と発言し、北方領土問題の解決を棚上げする姿勢を鮮明にした。日本政府は「北方四島の帰属問題を解決して平和条約を結ぶ」としてきた。「平和条約」をめぐる双方の立場は正反対で、安倍晋三首相が目指してきた早期の条約締結は難しい情勢だ。

北方領土、棚上げ鮮明 露外相、日本と立場正反対

意地悪なロシアが安倍首相を妨害している。それでも安倍首相は持ち前の忍耐力を発揮して粘り強く成果を求め続けている。こういうお話になっている。産経新聞の読者は大喜びだろうが、これとは全く別の見方がある。そしてそれをなぜか日刊ゲンダイが扱っている。

北方領土返還を巡るロシアとの平和条約締結交渉は遅々として進まない。河野外相とラブロフ外相が31日、平和条約締結に向けた交渉責任者として4回目の会談に臨んだが、成果なし。共同記者発表で河野は「乗り越えるべき課題の輪郭はだいぶ明確になってきている」と強調したが、平和条約交渉の打ち切りで合意したという衝撃情報が流れている。

遠のく北方領土…平和条約交渉「打ち切り合意」の衝撃情報

日刊ゲンダイの見立てだと安倍首相は平和条約交渉を打ち切り経済協力だけを行おうとしているということになる。これでは時事ドットコムとは意味合いが全く違ってくる。「北方領土回復」の棚上げか放棄だからだ。

書いているのはロシア問題の専門家なので嘘をついているとは思わないのだが、一応5月27日のイズベスチヤの記事を探してみた。この記事をGoogle翻訳するといくつかのことが見えてくる。

記事によると、当初日本は「二島であれば返ってくる」と思っていたらしい。ところがロシア側は一貫して「アメリカがロシアを敵視しない」という保証を求めていたようだ。ところが日本側はこれに曖昧にしか答えなかった。心ここに在らずで自分の選挙のことばかりを考えているトランプ大統領にそんな話ができたとも思えない。ちなみにGoogleで色丹は「四国」と翻訳されてしまう。

そこで、安倍政権は「とりあえず前進させられる経済から進めよう」として難しい問題を切り離すことを決めたとロシアは見ているようだ。そのうち最も簡単に実現できるのはサハリン州と北海道のビザなし交流である。時事ドットコムにも「投資協定」と一緒にビザなし交流の話が語られている。つまり、意味合いや背景の説明は異なるがやろうとしていることはどの媒体も同じなのである。

ここにも安倍政権の外交の行き詰まりがっ!と書きたくなるのだが、冷静に考えると「北方領土が返ってくる」と思っている人はそう多くないはずだ。当事者である旧島民も墓参などが許された方が気持ちが休まるはずである。なので、安倍首相が「現実路線に転じた」ことを非難する人が多いとは思えない。

逆に変に隠し立てをしたり「忘れてもらおう」とすると返って「後ろ暗いことがあるのではないか?」というようなことになりかねない。特に国民の支持が得られない野党は攻撃材料を探しているはずで、北方領土交渉の失敗というように言いたい人が多いはずなのだ。

安倍政権は本当に国民への説明が下手だと思う。

この一連のお話からもう一つのことが見えてくる。それは丸山穂高議員と維新の一連の騒動の意味づけである。

維新はG20成功に協力して中央・自民党に貸しを作りたかったはずだ。今にして思うと、丸山議員を北方領土に派遣したのもその一つの表れだったのではないだろうか。ところが丸山さんは酔っ払って「戦争でもしないと取り返せないですよね」などと口走ってしまい、交渉失敗のリスクを作ってしまった。維新は今関係者に平謝りしているようだ。かつて派閥がある頃の自民党なら、ボスが鉄砲玉に「ここは跳ねるタイミングではないよ」と言い聞かせたのだろう。今はどの政党にもそういう人がいない。

いずれにせよ、6月の末頃から7月の初旬にかけては「日露経済交流が推進される」というニュースでいっぱいになるはずで、この勢いのまま参議院選挙に突入するのではないかと思われる。その陰で北方領土交渉は忘れられてゆくのかもしれない。

殺人を糾弾するテレビが人を殺すまで

ついに恐れていたことが起きてしまった。川崎・登戸の事件報道が二次被害を生んだようなのだ。正確には最初の事件から「波及した殺人」が起きている。




川崎・登戸の事件は「ひきこもり」が起こした事件として報道された。ひきこもりは社会の役に立たない人たちであるとされている。そのため、世の中はこの決めつけ報道に疑問を持たなかった。

支援者たちはこれに危機感を持ち当事者や家族が追いつめられ「社会とつながることへの不安や絶望を深めてしまいかねません」との懸念を表明していたのだが、実際にはかなり悲惨なことが起きた。最初の事件は福岡で起きた。働かない息子を叱ったら母親と妹を刺して自殺したというのである。ただ、この件はそもそもあまり報道されなかった。

今後、若干派手に報道されそうなのはもう一つの事件である。殺人未遂で逮捕された人が農水省の事務次官という「立派な肩書き」を持った人だったのだ。

「報道との因果関係などわからないではないか」という反論が聞こえてきそうだ。こうした反論が起こる背景には「ひきこもりのような役に立たない人間は殺されても当然だ」という社会に溢れている差別意識に加え、因果関係を認めてしまうとテレビや新聞などの報道を経済的・社会的に制裁しなければならないという他罰的で妙に律儀な意識があるのだろう。さらにその奥には「まともに生きている自分さえ処理されかねない」という危機意識もあるのかもしれない。

続報を読むと「暴力にさらされておりいつ何が起きてもおかしくない状況」だったことがわかる。マスコミ報道は単に背中を押しただけなのかもしれない。早かれ遅かれ問題は起きていたのかもしれない。

つまり、平穏そうに見える家庭にも「やるかやられるか」という状態が持ち込まれている。だから、この件について「マスゴミの姿勢を問う」というような糾弾姿勢は返って逆効果になる可能性が高い。誰が悪いのかと指を指しあっても緊張を高めるだけで問題解決にはならないからである。

マスコミの問題点は「解決策を提示しないで危機意識だけを煽ったこと」だ。例えば老人に蓄えがないと暮らして行けないという報道も別の人たちの背中をおす可能性がある。

ただ、マスコミは問題糾弾だけをしていれば良いという意識もある。日本の報道機関は各社の村の共同体なので問題意識を共有して議論するということがないのだろう。ゆえに、こうした決めつけ報道の歴史は古く根強い。

辿れる源流は1988年から1989年に渡っておきた宮崎勤の事件である。宮崎は今田勇子という名前で犯行声明を出し、これがマスコミの注目を集め続けた。この事件を扱いかねたマスコミは「6000本近いビデオテープが出てきた」ことを根拠に「気持ち悪いオタクは人を殺しかねない」というような報道をし、生育歴を問題にした。つまり家庭を責めたのだ。

当然、世間の非難は家族・親族に向かった。批判にさらされた父親は自殺し、他の親族も仕事を辞めざるをえなくなったようである。報道の二次被害というとこのような関係者に対する直接の影響を指すことが多い。今回の話は「波及効果」なので厳密には違いがある。

宮崎勤は今でいうひきこもりだったのだが、当時この言葉はあまり一般的ではなかった。このひきこもりという言葉も元の意味を離れて一人歩きしてゆく。そして解決策が見つからないまま単なるレッテル貼りに使われるようになってゆく。

ひきこもりという概念の歴史(1) 稲村博先生と斎藤環先生という文章に経緯が書いてある。まず、精神医が不登校問題を考えるうちにアメリカの資料から「社会的ひきこもりという問題があるらしい」ということを発見する。そして不登校の原因はひきこもりかもしれないという解決志向の啓蒙活動が行われた。

ところが、発案者や啓蒙者の思惑を離れて使われるようになってゆく。2000年に入ってひきこもりと犯罪を結びつける報道がなされたという経緯である。

この間、マスコミは根本的な対処はせず「その日の仕事を済ませるため」に「番組や記事の派手なタイトル」を欲しがっていただけだった。そこから継続的に「オタクやひきこもりのような暗い人たちは何をしでかすかわからない」というような報道だけが繰り返され、今回のような事態にまで至ったことになる。

今回の農水省元事務次官の件も「暴力を受けていたから止むを得ず殺した」という情状酌量の方向で短く報道されるのではないかと思われる。なぜこの元事務次官がこの問題を誰にも相談できなかったのかというようなことは語られないだろうし、語られたとしても「行政が悪い」という話で終わるはずだ。

ただ、この「やっつけ報道」は違和感も生じさせているようだ。宮崎勤事件の記憶のあるマスコミは型通りに「岩崎容疑者の自宅から出てきたもの」を「速報」として報道した。テレビを見ているのは主に高齢者なのでいつも通りの報道に疑問を持たなかったのではないだろうか。

ところが、出てきたものがテレビとビデオゲーム機だけだった。宮崎勤の件を知らない人たちは「テレビとゲーム機などどこにでもあるのに」と不思議に思ったようである。J-CASTニュースは山田太郎前参議院議員の違和感を紹介している。

山田さんは「傷つく人がいる」とソフトな表現をされているが、実際には傷つくどころか殺人事件まで起きてしまった。本来社会の問題を解決するために報道があるとすればそれはとても間違った恐ろしいことである。

しかしそれを責めて見ても何の問題も解決しそうにない。「直接的な因果関係は証明できない」わけだし、そもそも「社会の迷惑は死んだり殺されたりして当然」と思う人も多いのではないか。

我々はどうも人が「片付けたり・片付けられたりすることを」仕方がないと思うところまできているようだ。前回の記事にはこのような感想文をいただいた。

勝手に他国を為替操作国認定するわがままな国アメリカ

米財務省、日中など9カ国の為替監視 対象を拡大という記事を読んだ。日本や中国などの9カ国が為替操作国の監視リストに入ったというのである。マスコミも慌てているようだし、なんとなく「ヤバい」感じはする。だが、よく考えてみるとわからないことが多い。




まずわかっていることから片付ける。このニュースに日本のマスコミがビビっているのは、アベノミクスが為替操作であるということを薄々みんな知っているからだ。アベノミクスのいわゆる第一の矢は金融緩和策であり、これは通貨安誘導だ。アメリカに目をつけられると困ると思っている人は多い。

ところが良くわからないのは「なぜアメリカが一方的に為替操作国認定」をして、それで我が国が慌てなければならないのかということである。アベノミクスが良策だとは思わないが、通貨主権は持っているわけだから「我が国の勝手ではないか」と思うのだ。

これを問題意識にしていろいろ調べてみると、トランプ大統領が当選した当時の記事が見つかった。China, Manipulation, Day One, the 1988 Trade Act, and the Bennet Amendmentという中国を念頭においた記事である。1988年の貿易法(trade act.)がきっかけだったと言っている。

話は、管理通貨制度のもとで基軸通貨国であるアメリカのドルが強くなりすぎたというところまでゆきつく。アメリカの製造業が弱くなり、通商条件を(アメリカにとって)フェアにする必要があった。

まず、1985年にプラザ合意が作られ円の価値が急騰した。これが正当化できたのは、アメリカ中心の通貨制度を守ることが西側陣営の安定と繁栄のために必要だったからだろう。国際的に通貨を安定させるスキームが作られ、日本は渋々ながらその提案に従うことになった。ちなみにプラザ合意はバブル経済を引き起こした一因とされる。日本にとっては本業の交易条件が悪くなり、余剰金で買えるものが増えたからだ。資産運用で利益を得る会社が増え、土地の値段がどんどんと上がって行き、やがて破綻する。

この法律は日本語では88年包括通商法と呼ばれるそうだが、コトバンクにある記事には「WTOができたので貿易についての交渉はそちらで行うようになった」というようなことが書いてある。

にもかかわらず「通貨政策を財務省が監視しなければならない」というような法律体系だけは残り拡大されたことになる。

再送-〔アングル〕米為替報告書、中国に強い警戒感 日本も安心できずによると為替操作国認定の根拠は二つあるそうだ。最初の法律が改定され、また別の通路もできたということになるだろう。

米国の為替報告書には、2つの根拠法がある。1つは2015年成立の「貿易円滑化・貿易執行法」、もう1つは1998年の「包括貿易競争力法」だ。

再送-〔アングル〕米為替報告書、中国に強い警戒感 日本も安心できず

アメリカは国際協調を嫌い、なんでも一人でやりたがる。為替操作国を決めるところまではできるのだが、報復関税をかけるようなことをやると自由貿易を阻害しWTOの規制に引っかかってしまうのだ。

もともと西側の国際協調体制の元で正当化されていたものが、中国の参加などで世界的なスキームになり、国際的な協調体制もできている。しかしバイ(二国間協議)好きのトランプ大統領はこれを交渉のカードに使おうとする。そのために、結果的に「アメリカが単にわがままを言っている」ように見えてしまううえに、WTOから敵視されれば「中国こそが自由貿易の守護者だ」というようなことにもなりかねない。アメリカやその同盟国にとってはリスクのある動きである。トランプ大統領はWTOからの脱退を仄めかしている。

さて、この話には続きがある。そもそも管理通貨制度にしたために信用供給国の通貨は「信用」という計測できないものの価値に伴って不当に高くなる危険性がある。アメリカは西側にだけ信用だけを供給していればよかったが中国が入って経済規模が拡大しすればドルの価値は高止まりするはずである。すると、ますます製造業が立ち行かなくなるはずだ。実際にアメリカにはNew Plaza Accordという議論がある。つまり、中国が入った体制でもう一度プラザ合意のようなものを結ぶべきだというのである。

日本も同じことが起きているはずである。つまり、日本も過去に蓄積した信用があるわけだから通貨は高止まりするはずだ。すると製造業は立ち行かなくなる。

ここで製造業を助けるために通貨を切り下げるべきだという意見が出るわけだが、逆に製造業を諦めて高くなった通貨で投資する国になるべきだというような考え方もできる。実際に現在世界第二位の経常収支黒字国になっている。こうなると問題は「経常収支で黒字になったのにそれを国に還元していない」政策あるいは企業の問題ということになるだろう。消費税など議論している場合ではないのだ。

にもかかわらずこうした一連のことはあまり報道されることはない。代わりに報道されるのは解散の風がどうとか、消費税をあげるのを延期するかというような議論ばかりである。報道する側は「視聴者が興味を持たないからだ」というのだろうが、多分報道機関もこの辺りをまとめて考察するような力を失っているのだろうと思われる。

取引に依存する社会はやがて虐待に走る

登戸の無差別殺傷事件をきっかけに社会と取引について考えている。日本社会にはある属性が欠落していてこれが取引社会を作っているというお話である。では何が欠落していて、その欠落は何をもたらすかというのが次の疑問になる。




取引には飴と鞭すなわち恫喝と包摂があるなあと考えていたところ、全く違うニュースが見つかった。自分の子供に犬用の首輪をつけてしつけようとした親が逮捕されたという事例である。子供を犬のように考える「血も涙もない」人が出てきているのである。では「血や涙」とは一体何なのかということを考えながらニュースを見て行きたい。

小中学生と専門学校生のきょうだい3人にペット用スタンガンで虐待を加えたとして、福岡県警小倉南署は29日、傷害と暴行の疑いで、無職の父親(45)=北九州市小倉南区=を逮捕した。捜査関係者などによると3人の腕には通電の痕が複数残っており、3人の話から虐待は10年ほど前から続いていたとみている。

スタンガンで子ども3人虐待 傷害・暴行容疑で父逮捕 福岡県警小倉南署

犬に使うのすらどうかと思うようなものを子供に使っている。ここでの犬はモノ扱いでありペットのような愛玩の対象ではないのだろう。それを人間に使うのは「常軌を逸している」ようにも思えるが、恫喝系取引の一種だと考えれば説明がつく。「子供に訴えかけて行動を変えてもらう」という可能性を全く考慮に入れていないというのは、相手が人間に見えおらずなんだかよくわからないモノのように思っているということである。

毎日新聞を読むともう少しよく見えてくる。一度始まった取引が一方的に拡大されている。わけのわからない他者を説得できない人は「恫喝力」をエスカレートさせてゆくしかない。

同署などによると、後藤容疑者は30代の妻と子供3人の5人暮らし。虐待は長女が5歳前後から始まったとみられ、「宿題をやっていない」「家のルールを守れない」などの理由で、1日に数回通電することがあった。

「しつけのため」1日数回通電も 子供3人に犬用スタンガン 北九州

テレビの情報も合わせると「いうことを聞かないから」という理由でルールがどんどん増えていったようである。それが最終的に社会の規範とぶつかった。長女には物心が付き他者が介入することでこの人は逮捕されてしまったのである。

この父親は自分のイライラを抵抗してこない子供にぶつけた可能性がある。また、子供というコントロールできない異物を「調整する」ためにリモコンをつけた可能性もある。両者に背景するのは「他者に対する潜在的な脅威」という意識である。

考えるのも恐ろしいことだが、このような「支配するかされるか」という意識を持っている人は意外とこの社会には多いのかもしれない。それは我々の社会が義務教育の時点で「他人と話し合う」ことを教えず、一方的に聞いて暗記することを重要視しているからだろう。

なので、社会の側も同じような意識を持っている。つまり「この人について理解しよう」とはせず「懲罰するつもり」で事件報道を見る。つまり社会の側も犬用の首輪を他人につけたがっているわけで、その首輪が突破された時に「それ以外の解決策がない」という無力な状態に置かれてしまうということである。

このパターンを読み取るのは実はさほど難しくない。日本は国際社会から「表面的な制度」は学んだが、周囲と協調して安全な環境を確保する術を学ばなかった。そこで力による外部への拡張を始め、国際連盟を脱退し、最終的に第二次世界大戦で破滅した。

我々の社会が基本的に相手を理解できないのだということを受け入れると、この手の事件が日本社会から無くなることはないだろうという予想が立つ。日本人は自分とは異なる価値体系をもった人の内面を理解しようとはしないし、その能力も持たないのではないかと思うのだ。その代わりに条件を提示して誰かを操作しようとするのである。これは日本人が経験を同じくする人たちの中でしか社会ルールを構築してこなかったために起こることだ。

ここからわかることはかなり衝撃的である。日本人は村の外で「心を通わせて社会を作る」術を学ばなかった。ゆえに他人は操作するものだと思い込んでおり、そうした関係が家庭内にも入り込んでしまっているということになる。そのことがわかる事実がニュースには書かれている。

このニュースにはさらに興味深い点がある。西日本新聞には「一緒に暮らす母親は「その場にいなかった」と話しているという。」と書かれている。が、毎日新聞には別の一節がある。

もっとも、本人による訴えがなくても被害に気付けた可能性はある。一家が住んでいた家の近くに住む女性は、数年前から「風呂場辺りから1日置きくらいに子供が『ギャー』『痛い』『やめて』と叫ぶ声が聞こえた」と証言する。捜査関係者によると、子供たちの皮膚にはペット用スタンガンによるとみられる等間隔のやけど痕もあったという。

「しつけのため」1日数回通電も 子供3人に犬用スタンガン 北九州

近所の人も気がついていたのに母親が知らなかったわけもない。この母親が「自分が生き残るために」子供たちを切り離したということがわかるし、社会に相談できるところを探すという技術がなかったこともわかる。つまり、家庭という環境が内も外もサバイバル空間になっているのだ。近所の女性もこの家族と話し合わないし、行政も知っていて本質的に介入することがない。社会全般として「形式を守る」ことはできても「心を通わせる」ことはできないという極めて砂漠化した社会である。

日本の村には多くの制限があり「心を通わせなくても」なんとかなる空間だったのだろう。が、今や村のような外的な装置はない。村を出た人たちはその場その場で心を通わせる必要があるのだが、日本人は未だにそれができない。そして恫喝と懐柔という取引だけが解決策だと思い込むのだ。

そんなことを考えていたらQuoraで「故意な殺人を全て死刑で片付けると困ることがあるのですか?」という質問を見つけた。ついに「人を片付ける」ということを悪気なく質問する人まで現れていることにいささか驚いた。心を通わせない以上それはモノと同じなのだから、この質問の動機そのものは極めてまっとうなのだろうが、それはすなわち「自分が用済みになったら片付けられても構わない社会」を受容するということを意味している。

取引できない人がもたらしたマスコミの動揺

テレビで岩崎隆一容疑者の話を延々としている。テレビ局は明らかに動揺しているようだ。




局によって対応の違いはあった。テレビ朝日は政治的正しさから抜けられないようでどっちつかずになっていたし、フジテレビ(実際にやっていたのは安藤優子さんだったが)は決めつけ報道を行いつつも「あれ、叩きがいがないな」と戸惑いを見せていた。

彼らは解決策を持っていないし解決するつもりもないが、報道というある種のお話の上に乗っているのだから解決策を提示するフリをしなければならない。そこでもがくわけだが、もがけばもがくほど沼にはまってしまう。ここに「何も要求しない人」の恐ろしさがある。日本型のムラは取引関係から抜け出せない閉鎖空間なので、何も要求しない人を処理できない。

社会は忘れ去られた人たちに何の関心も持ってこなかったし、これからも持たないだろう。さらにこうした人たちを抵抗してこない弱者と考えて侮ってきた。今回の件で恐怖を感じた人たちはなんらかの取引を求めるだろうが、その取引はもう叶わない。

彼らは戸惑いつつもなんとか枠を埋めていたのだが、関心は別のところに向かいつつある。ワイドショーの関心はすでに自分の知っている枠に引きこもり始めているのだ。

ちょうどDVを働くお嫁さんを息子が殺し母親が一緒に手伝って埋めたという事件が起こっている。まるでテレビドラマのような事件である。背景にはまるで無関心な父親の存在もある。裁判では当事者の発言が取れるので、叩く材料が継続的に手に入るのである。フジテレビはこちらにシフトし「母親が自分をかばうために嘘をついている」と決めたうえで「彼女をより重い罪にするにはどうしたらいいか」ということを延々と話し合っている。安藤優子の無駄遣いにも思えるし、もともとこういう人だったのかなとも思う。いずれにせよこの問題はワイドショーで扱える。この母親は裁判を通じて社会と取引しようとしているからである。

ワイドショーを見ていると日本人には二つの取引があるのがわかる。一つは恫喝系の取引で、これは「厳罰化」である。今回のもう一つの取引は「包摂系」である。この取引は「いい子にしていたら飴をあげる」か「悪い子にしたら叩く」である。自分で考えてどうすべきか決めなさいという考え方を日本人はしない。

「元エリート銀行員の弥谷鷹仁」の犯罪は「もっと罪を重くしろ」と叫ぶことで裁判をエンターティンメントとして利用している。道徳の遊戯化・娯楽化が見られる。つまり叩くというしつけのための行為を娯楽に利用しているということだ。よくDV加害者が「しつけのつもりで叩いた」ということがある。コーチも指導不足を隠すために運動部員に手をあげる。これと同じことが社会的にもごく日常的に起こるのである。

登戸の事件が「面白くない」のは厳罰化は何の役にも立たないからなのだろう。その人からうばえる最大のものは命だが、それはすでに差し出されてしまったし、何よりも社会参加もできていなかったわけだから社会的に抹殺すべきいわゆる生命もない。彼にはPCや携帯電話もなかったようで、こうなると暴ける内面もない。せいぜい卒業文集を見つけてきて叩くくらいしかできない。

では優しさを見せつけるというアプローチはどうだろうか。いわば包摂系取引なのだがこれはもっと惨めな結果に終わる。社会にそんな余裕がないからである。

日本には最低の生活すら維持できないような給料で働かされている人がたくさんいて、そういう人たちに依存しないと普通の暮らしが成り立たなくなっている。例えばAmazonのような配送に依存する小売形態もコンビニも搾取型労働なしでは成り立たない。つまり「今の経済活動から撤退する」動きを認めてしまうと、奴隷から見えない牢獄を取り払うことになってしまうのである。搾取構造は社会に完全に内包されてしまっていてその癒着を引き剥がすことはもうできそうにない。そんな中他人に優しくしましょうなど無理な話である。

それでも我々はまだ旧来のスキームから抜け出せない。「罰を与える」とか「認めてあげる」とか「社会が用意してあげる」という解決策しか出てこない。ぜんぶ「上から目線」なのである。さらに犯罪そのものにしても「防ぐ」という点ばかりが強調されている。これは「自分たちは変わるつもりはないが相手が変わることに期待する」ということだ。

取引はできないしそれも認められないのだから、やがてこの件は「なかったこと」になるのではないかと思う。

ただ、そのような国は日本だけではない。

安心安全のないアメリカでは、子供を一人にしないというのは法律で決められた親の義務である。アメリカ人はすでに「絶対的な安心安全などない」ということがわかっていて自分たちの行動を変えている。これはかなり窮屈な社会である。日本もそういう社会になってしまったのだと認めるのは辛いことかもしれないのだが、もうそういう前提で動くしかないのではないだろうか。

無敵の人と取引不能の世界 – 岩崎隆一が変えてしまったもの

登戸の駅前で通り魔事件があった。将来のある聡明な小学校六年生の女の子と外務省に勤める有能な男性が亡くなった。カトリック系の学校ということで「神様って本当に理不尽なことをするものだな」と思った。




刺された子供達は何も悪いことをしたわけではない。にもかかわらずこんな目にあっていいはずはない。最初に感じるのは怒りだ。では、我々は何に怒るべきなのだろうか。

そう考えながら事件報道を見ていて、番組担当者たちが戸惑っているであろう様子が印象に残った。いつもの「あれ」が全く通じないのである。

事件報道に限らず実名報道は「国民の知る権利を担保するため」ということになっている。日本新聞協会の「実名と報道」というリーフレットによると、報道の自由は民主主義社会を健全に保つためにあるという。

だが、それがもはや単なる「お話」でしかないことを我々は知っている。少なくとも事件報道において、報道の自由は「悪いものを探して勝手に裁くため」にある。報道の自由は「正義の側にいる人たち」がその報酬として間違った人たちを「無制限に叩いく」権利を行使するために事件報道は奉仕しているのである。

報道が気にしたのは「学校に非難が向かないようにする」ということだったようだ。学校はやるべきことはやっていたと繰り返されている。まさにその通りだとは思うのだが、背景には「怒りの矛先が犯人に向かわないので、世論が学校を代理で叩きかねない」という懸念があったからだろう。彼らはそれくらい「怒り」を意識して番組を作っている。うまく使えれば商売のいい焚付けになるが、間違えると自分たちが焼かれかねない。

学校に非難が向きかねないのは、岩崎隆一容疑者が読者や視聴者に「叩きがいのある素材を提供」しなかったからだ。だからこの事件は恐ろしい。

「川崎市在住51歳の岩崎容疑者」は、社会との接点がほとんどなかったようである。職業も今の所わからないし、そもそも働いているかどうかもわからない。さらに家族(親戚だったようだが)彼には興味がない。つまり、住所と名前と年齢を報道することができてもそれ以外の「叩ける」情報がない。今唯一伝えられているのは「近所の家に怒鳴り込んだことがあるらしい」という情報だけであるが、それを叩いたところでインパクトに欠ける。

ではなぜ我々は容疑者や犯人を叩きたがるのか。それはカウンターの意見をみるとわかる。「包摂すれば良い」というものだ。これは全く異なるアプローチのように見えて実は同じことである。恫喝かあるいは懐柔かという取引なのだ。世間は何か問題を起こした人と様々な取引を試みる。そこに後付けで理由をつけるのだが、本質的には「理不尽さが怖いから」だろう。

原因追求をしたいというのは遺族にとっては切実な欲求だろう。ある日突然愛していた家族(娘や父親)を失ったのだ。それは人生で起こり得る最大限の理不尽であり、なんらかの理由付けがなければ受け入れるなど到底不可能である。

だが、それ以外の人々にとっては、原因解明は理不尽さの解消とは何の関係もないことである。包摂が大切だとわかったとしても、彼らは自分たちの隣人に優しくしたりしないだろう。

彼らが報道や裁判を通じて犯人や容疑者の言い分を知りたがるのは、それを否定することで犯人や容疑者を「裁く」ためであり、ある種の取引である。しかも、それを裁いただけでは飽き足らず、犯人や容疑者の社会的生命や生命を奪うことで「全能感」を味わう。

ところが、今回の場合「最初から奪えるものがない」。彼の人生には社会的にはほとんど見るところがなかったようだし、悲しむ家族もいなかった。自殺してしまったので死刑にもできない。なんらかの取引ができないと、我々は「どうしていいかわからない」という感覚を得るのだ。

いわゆる「無敵の人」の恐ろしさはそこにある。逆に「一人で死ぬべきだと発信すべきではない」という意見(藤田孝典)も取引の一種でしかない。残念なのだが「次の凶行を生まないためでもある。」という一文は取引そのものである。

社会が包摂的になるのはテロを防ぐためではない。優しい社会が誰に取っても住みやすいからだ。藤田さんはこれが社会に受け入れられないだろうことを予測してこの文章を書いているのだろう。そして、包摂によってこの種の事件がなくなるのかといえばそうではない。共生型の社会であれば競争に参加することすらなく切り離された人というのが少なく済むはずと思いたくなるが、共生型のノルウェーでも拡大自殺的なノルウェー連続テロ事件が起きている。だったら包摂なんか意味がないと考えるのなら、そもそもそれは包摂型社会ではない。単なる取引である。

岩崎隆一容疑者が提示した問題はそこにある。社会にいる「もはや何の取引も望んでいない人」が理論上の存在ではなく実在しているということだ。そして取引がない以上社会はそれに対処できないのである。

例えば、高齢者が運転する自動車でも同じような理不尽は毎日起きている。誰からの助けも求められない(あるいは求めたくない)人が車に乗って通行人に突進してゆくという社会現象である。こちらは技術的にはいくらでも対応が可能だが、それでもそれをやろうという人はおらず、高齢者や家族が非難されるばかりである。解決が可能な問題でも対処せず取引で済ませようとするのだから、そもそも取引ができない問題に対処することなどできないだろう。

社会はしばらくの間「かつてあった安心・安全が取り上げられた」ことに対して怒りをぶつけられるものを探してなんらかの取引を試みるだろう。だが、現実問題としてはもはや理不尽な危険に対処するしかない。社会は変わってしまったということを我々は受け入れるしかないのではないだろうか。

国内政治と連動して複雑化するEU議会

EU議会の投票結果が開いた。当初の予想より極右・EU懐疑派の影響は少なくて済んだ(BloombergReuter)ようだ。だがその内容からは複雑な状況が透けて見える。




イギリスでは保守党が敗北しBrexitを主張する人たちが躍進(Bloomberg)した。表面上は進まないBrexitを加速させたいという意思表示なのだろうが、背景にあるのは保守党に反発する勢力の押さえ込みから数年間も続いている内政の混乱である。EUの連携を加速したいマクロン大統領も国民に離反され、結果的に極右と表現されるルペン氏が躍進(Reuter)した。マクロン大統領は国内では政府の赤字解消・年金改革などを控えているという。また、イタリアはすでに五つ星・同盟が既存政党から政権を奪ってしまっているのだが、同盟が躍進した(日経新聞)そうだ。

どの国も内政への不満が高まっており、それがEU議会選挙に反映した形になっている。共通するのは「緊縮財政」という起点と「悪者探し」という結果である。他罰感情をより刺激したほうが選挙に勝てるという傾向がある。

同盟は反EU・反緊縮を訴えて躍進した。かつては北部をイタリアから分離させようという運動だったそうだ。五つ星運動も同じような政策を掲げていたのだが、イタリアでは「生ぬるい」と思われ離反された(朝日新聞)ようだ。

ギリシャでもチプラス首相がEU議会選挙敗北の責任を取る形で総選挙を前倒しすることを決めた(Reuter)そうである。こちらは極左(急進左派)などと言われることがある。Reuterの記事には「対マケドニアの弱腰」が非難されたとなっている。急進左派にナショナリズムを求めるのはどうかとは思うのだが、国民は実は右でも左でもどちらでも良いと思っているのかもしれない。

ナショナリストたちは極右と呼ばれる反移民政策をとる人たちを支援するのだが、移民の人たちは極左・急進左派と呼ばれる人たちを支持(日本には存在しない欧州の新極左とは。(3) EUの本質や極右等、欧州の今はどうなっているか)しているということらしい。だが、結果的にそれらは同じように見えてしまうのだ。

ところがこうしたポピュリズム的な政権は持続可能性に欠ける。その行く末を示す事例も出てきている。

日経新聞によるとオーストリアでは極右同盟が連立政権を作ったものの分裂し、クルツ首相は不信任決議を可決されてしまった。クルツ氏は汚職などに手を染めた連立相手の自由党シュトラッヘ副首相を切り離して支持を得た。しかしこれに怒った自由党が連立を離脱した。これで野党が騒ぎ出し結局不信任案を提出されてしまったのだという。野党はクルツ批判を支持に繋げたいのだが、EU議会選挙で躍進したところを見ると、人々は却って自由党支持を強めるかもしれない。

民主主義国の国民は根本的な問題解決よりは手近な敵を攻撃する政治リーダーを好むことがわかる。そしてその怒りの原因は「今まで受けられた恩恵を取り上げられる」ことである。ヨーロッパの場合、リーマンショックに端を発した経済不安の後に移民が入ってきたのでこれが混同されているようだ。極右・極左ともに財政規律を強めるEUを批判しているが、財政規律が弱まればギリシャのように破綻する国が出てくる。結局、同じところをくるくると回っているだけなのである。

日本では国債を発行して緊縮財政を避けているのでこうした動きが「怒り」のレベルまでは至らない。野党側は安倍首相のやり方を攻撃するだけで、それよりも敵を作り出してポピュリズム的に有権者の獲得を目指すまでには至っていない。このポピュリストに一番近いところにいるのが政治部外者であった山本太郎だが、東京などの一部地域を越えた支持は広がっていないのではないかと思える。日本にはヨーロッパレベルの「本物の困窮」がないのだろう。

さらに面白いのはアメリカの共和党だ。ヨーロッパなら極右を支持しかねないような人たちをトランプ大統領が取り込んでしまった。共和党はあたかも大衆ポピュリスト的な政党になってはいるが形式的には二大政党のままである。だが、アメリカもポピュリズムを組み入れなければ政権は取れない国になっているのではないだろうか。民主党は急進左派的な人たちを取り込み損ねていて、決め手に欠ける大統領候補しかいない。

ポピュリズムは否定的な含みのある言葉であり、本来は「理性的に克服すべきだ」と書きたくなる。だが、現実を見るとどこもそうなってはいない。99%にやさしい資本主義・議会制民主主義が見つかるまで当面の間、先進国の政治はしばらくポピュリズムからは抜けられないのではないかと思う。

憶測を生んだトランプ大統領のツイート

トランプ大統領のツイートが面白かった。

この前段はわかりやすい。貿易交渉をして農業と牛肉が大きな役割を果たすだろうとしている。安倍首相が製造業を守るために農業をアメリカに差し出したのは明白である。問題は後段にある。私が大きな数字達を期待する選挙達と言っており、これが憶測を生んだのだ。




安倍首相が貿易交渉で妥協するだろうという思い込みから「大きな数字達」は妥協のことを意味しているのだろうという意見が多かった。がwhereがついているのは選挙たちである。つまり、選挙に大きな数字達を期待しているというのが素直な読み方だ。まあ、これだけでも立派な内政干渉である。日本の首相が次も共和党が勝つなどと発言すればアメリカで大騒ぎになるだろう。実際にロシアの関与疑惑がなくならないのだから笑えない話である。

テレビなどはこれを「参議院選挙」と訳していた。しかし、選挙はwin a electionかwin the electionになるはずである。これが複数形になっている。これに注目したのが共産党の小池晃議員だった。これは衆議院と参議院のダブル選挙だと言っているのである。こうすると文法的なつじつまは合う。

ただ、これは大問題になる。本来、衆議院の解散は「内閣不信任案を出す」ことが前提になっているはずだった。これは憲法を作った当時のGHQが内閣が解散権を乱用するのを嫌っていたからだと言われている。

だが、当時の議会は脱法的な「馴れ合い解散」を行い、その後解釈による第7条解散が横行することになったそもそも何もないのに衆議院を解散するのは憲法違反である可能性が極めて高い。

加えて、議会対策・選挙対策とはいえ「首相の専権事項」を先に一外国の要人であるはずのアメリカの大統領に漏らしているというのは国会軽視・国民軽視の大問題であると言える。

のちに新聞は各選挙区の選挙をelectionというので選挙全体はelectionsと呼んで構わないのだという記事を出した。それくらい盛り上がった話題だったと言える。

大統領の言葉はとても重いはずだが、トランプ大統領は普段から曖昧で不正確なつぶやきを乱発している。日本もそれに巻き込まれた形である。今回はゴルフ中にもTweetをしていたのではという話が出ており、大統領のSNS中毒ぶりがうかがえる。

ただ、これら一連の報道や反応からわかるのは衆参同一選挙の可能性や通商交渉での妥協だけではない。重要なのは日本人が宗主国を求めているという点だろう。日本人がどれだけ不安になっているのかがよくわかる。

今回、アメリカの大統領はある意味宗主国の代表として報道された。もし宗主国のトップであれば国民より先に解散総選挙について知っていたとしてもなんら不思議はないし、選挙に介入して与党の体制を保証しても問題はない。ある意味日本が昔からやっていたことだ。金印をかざして中国の後ろ盾を誇るというような話なのだ。

だから国民はそれほど安倍接待部長に怒りを向けなかった。テレビはこうした国民の不安を「英語が堪能な両陛下が立派に大統領をもてなしてくれた」という論調で歓迎していた。閉塞感を抱えて不安になっている日本人が世界で一番強くて立派なアメリカに依存したがっているということがよくわかる。

日本人がしがみつけばしがみつくほどアメリカは高く自分たちの保護を売りつけることができる。アメリカにとってはおいしい展開である。トランプ大統領は日本の記者がおずおずと「通商交渉でのアメリカの要求はTPP以上の水準にはならないんですよね」という質問をすると、トランプ大統領は安倍首相を遮るような形で「我々はTPPに縛られない。あれはオバマの失敗だからだ」というような発言をして悦に入っていた。

令和最初の国賓のご接待は、世界第三位の経済大国であり二番目に儲けている日本としては実に情けない形で行われた。多分、明治維新以来の「西洋諸国へのコンプレックス」が色濃く残っているのだろう。150年経っても日本は小さくて弱い国という自己意識から抜けられないのだということがよくわかる。