「モリカケは置いといてまずはシリアだ」の意味

今朝はこのようなツイートを見かけた。これについて考えたい。

このツイートには明らかな問題点がある。文書管理の問題が政権の不祥事に「矮小化」されているからである。モリカケ問題の基礎には曖昧な情報伝達と意思決定のプロセスがあり、それは日本人の文化コードに由来する。だからそれを修正しないで政権だけを変えても問題は解決しないだろう。

そもそもなぜ彼らは安倍政権が嫌いなのか。それは日本人が意思決定権を担保したがるからである。安倍政権の打倒を掲げる人たちは自分たちのアドバイズが無視され劣等なネトウヨの意見ばかりが取り入れられることに怒っている。逆にネトウヨの人たちは自分たちの意見が取り入れられていると思っている。

今回は自衛隊の日報問題について見ている。昨日経緯を見たかぎりではこの問題の根は深く、少なくとも小泉政権くらいからの状況を見なければならないということを学んだ。そして、経緯の中には民主党政権も含まれている。つまり、安倍政権を倒したとしてもこの問題は解決しないだろうし民主党系に政権が移っても状況は変わらないだろう。

森友の問題に比べて防衛省の問題がわかりやすいのはこれが明らかに憲法違反だからだ。

イラクや南スーダンで現地の自衛隊員が戦闘状態を認識していたことは明らかになった。もしこれを防衛省が隠していたとなると文民統制に必要な情報を内閣を通じて議会に伝えていなかったことになる。しかし仮に伝えていたとなると文民が知っていたにもかかわらず法律的な措置を講じなかったということになる。これはどちらも憲法違反である。

PKO五原則というものがあるそうで、コトバンクは次のように定義する。

自衛隊PKO国連平和維持活動)に参加する際の条件。(1)紛争当事者間で停戦合意が成立していること、(2)当該地域の属する国を含む紛争当事者がPKOおよび日本の参加に同意していること、(3)中立的立場を厳守すること、(4)上記の基本方針のいずれかが満たされない場合には部隊を撤収できること、(5)武器の使用は要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られること、の5項目で、それぞれPKO協力法に盛り込まれている。PKO参加五原則

自衛隊が武器を使用できるのは護衛のための限られる。だから戦闘状態であるということがあきらかになった場合、あるいは当事者がそう訴えた場合には必要な措置を講じる必要がある。この原則は憲法の制約のもとに作られているはずなので、PKO5原則違反は憲法違反担ってしまうのだ。

政治家は明らかに「報告さえなければ必要な措置を講じなくても良い」と受け取った。だから聞かなかったことにしたという可能性が高い。ここまでは不作為だ、やるべきことをやっていなかったという問題である。

安倍政権はアメリカの軍事行動にいち早く追随し中国と対抗したように見えるのだが、この時点では政権の真意はわからない。いずれにせよアメリカとの軍事同盟関係により深くコミットするためには集団的自衛権の行使を容認しなければならない。しかし日本人は前例がないことを嫌がるのでまずは実績を作ろうとしたのだろう。

少なくとも安倍政権はどういう理由かはわからないが状態をエスカレートさせようとしていた。だから意図的に隠蔽していた可能性が高い。具体的に指示していたということはあまり重要ではない。意図的に聞かなかったとか意図をほのめかしていたとしたらやはりそれはもはや不作為ではないのである。

しかし、政治が明確な意思を持って政策を変えること事態は悪いことではない。国民にリスクを説明し、自衛隊のコミットメントも獲得すべきだろう。小泉政権もPKOが外に出れば危険な目に会うことは予測していただろうし、野田政権も南スーダンに調査団を送るとそれが戦闘部隊の派遣につながるということを知っていたのだろう。ここにも日本人の村落性がある。村人から頼まれると「いいかお」をしたくなってしまうのである。それは「お付き合いにかかせない」からだ。こうしたこころねだけはなぜか日本語で説明できてしまう。だが、そこから生じる「リスク」をどの政権も国民や自衛隊に説明してこなかった。

自衛隊の海外派遣は「お付き合い」として仕方なく始まった。ある時にはアメリカから「ショーザフラッグ」と圧力をかけられ、別の時には国連事務総長が官邸までやってきて直々に総理に頼み込んだりした。繰り返しになるが安倍政権だけではなく自民党・民主党政権も関わっている。

民主党系の野党が安倍首相に切り込めないのはそのためだろう。彼らも国際社会が日本の軍事的貢献を期待していることを知っており、自分たちが政権を取ってもこの無理筋な要求と「センソーハンタイ」を叫ぶ支持者たちを折り合わせなければならないことがわかっているはずだ。

この意味では民主党系の人たちは難しい立場に追い込まれている。熱心な支持者がいるから安保法制には反対したい。彼らは「戦争はいけないコトだ」と思っておりそれ以上の理解をしようとはしない。政権を得るためには彼らを手放せないが、いざ政権を取ってしまうと今度は国際社会への貢献を求められる。だから「文書隠蔽は民主主義の根幹を揺るがす」としか言えないのである。

まとめると安倍政権は無謀な野心を持ち無理に無理を重ねたという点が非難されるべきだろうし、もうこれ以上政権を運営する資格はないだろう。しかしそれはそもそも運転資格を持っていなかったドライバーを運転席から引きずり出すということをを意味するだけで、その次の運転手が何をするべきかについては規定していない。

ではそもそも政府はなぜ情報の隠蔽をしようとしたのか。それは強硬で聞く耳を持たない人たちがいるからである。では彼らはなぜ聞く耳を持たないのか。

共産党の運動は反核運動を起点にしている。そもそも戦争を起こした米国が許容できないというものなので、反核・反戦・反米・反原発が全てセットになっている。だから彼らの主張には「戦争の具体的なイメージ」がない。それは当然で彼らがこだわっているのは過去のトラウマだからである。

この「平和は尊い」という主張そのものは否定されるべきではないが、まがりなりに戦後世界は戦争の惨禍を再び経験しないようにという努力をしてきたが、彼らは「完全でなく自分たちの思い通りにならないから気に入らない」と言っている。そして、単純に「戦争みたいな面倒なコトは嫌だ」という人たちを巻き込んでいる。

加えて、共産主義は国際的に失敗したことがわかっているので共産党はこの反戦反核という誰も反対しない主張以外に頼れるものがない。もともと具体的な懸念の上に立っていない主張であり、なおかつ他に言うべきこともない。だから彼らは頑ななのである。

こうした政治の混乱と国民の「面倒なことは考えたくないし知りたくない」という態度は危険な戦場から状況を必死に訴えようとした自衛隊員の状況を自衛隊自らが「隠蔽する」という事態を招いた。政権が気に入らないと叫ぶ前に、まず国民がこれを反省すべきなのではないだろうか。

シリア情勢が重要なのはなぜだろうか。いくつかの理由がある。まず世界が今までのような固定的な冷戦状態にないということがわかる。幾つかの地域で異なった事象が進行しており、地域ごとに関わってくる人たちが違っている。また、アメリカがシリアで軍事的リソースを取られれば東アジアでは妥協する必要が出てくる。つまり、核となる国がなく世界外いくつかの地域に分割されている上にそれがお互いに何らかの影響を持っているということになる。つまりお互いの状況は刻々と動いており、昨日は協調関係にあると思われた国が次の日には敵同士になっているという可能性がある。最後に、こうした対立は経済を巻き込んだ「貿易戦争になる」可能性を秘めている。軍事大国と経済大国が重なっているからである。

日本人は意思決定をしないで様子を見ながら時間をかけて状況を探って行くという方法を取るのだが、そのやり方はもはや通用しないだろうということをシリア情勢は教えてくれている。お互いに状況が関連しており予測がつかない。数学的には「カオス」と呼ばれる現象だ。

にもかかわらず冒頭で見たツイートのように「私が無視されたからまず目の前の敵を消せ」と叫ぶ人たちが安倍政権打倒を訴えており「まずは森友だ」と言っている。こうした人たちの目にはシリアの情勢はどう見えているのだろうか。

もちろん疑惑を暴こうとした彼らの行動が無駄だったとは思わない。あらかた状況は見えてきたので、あとはやるべき人たちが粛々と問題を解決すべきではないだろうか。それでも問題が隠蔽され中途半端に終わるのであれば仕組みを改める必要がある。

モリカケ問題が些細なこととは思わないのだが、事態は明らかに悪い方向に進んでいる。我々は湾岸戦争以来やってこなかった過去の清算をしつつ新しい時代に備えるという難しい局面にさしかかっている。もしここで日本がなにもしなければあるいは共産党の人たちが恐れていた「全面戦争」に突入する可能性もある。そのために日本人がまずやることは、安倍政権を打倒することではなく自分たちの文化特性を理解することである。

防衛省日報隠蔽問題の経緯

布施祐仁さんの書いたレポートを読んだ。布施さんは当事者なのでいろいろ細かく書いているのだが、はたから見ているといつ誰が何をしたのかがよくわからない。そこでできるだけ判断を入れずに時系列でまとめてみることにした。とはいえ一つの記事でまとまっているものがない。そこでいろいろつぎはぎしてきた。するとなぜこんなことが起きたのだろうなどと思えてきた。遡ると、小泉政権以前に原因があることがわかってきた。

1980年代の日本は経済定期に成功していたので「その成功分の貢献をしないのはおかしい」という国際的なプレッシャーがあった。しかし国内の論争は第二次世界大戦の頃の対立を引きずっており「現状を維持して何も決めない」のが国是だった。岸内閣時代の苦い記憶のせいかもしれない。

もしかしたら間違っていることがあるかもしれないので、随時ご指摘いただきたい。とはいえ、本来これはジャーナリストの仕事ではないかと思う。


1990 イラクがクウェートに侵攻し湾岸戦争が起きた。日本は国際世論から人的支援を求められたが憲法の制約上応じることができなかった。代わりに130億ドルの経済支援を行ったがクウェートをはじめとする国際社会から感謝はされなかった。この経験はクウェートのトラウマと呼ばれており、外務省を中心に国際貢献の必要性が叫ばれることになった。その後、日本は内閣と外務省が「人的貢献」に向けた実績作りを行うことになる。これは具体的には自衛隊のPKO派遣を意味したが防衛庁は部外者だった。(nippon.com

当時、アーミテージ国務副長官から「ショーザフラッグ(旗色を鮮明にせよ)」という圧力があったとされる。そのため政府首脳部は「テロとの戦い」を名目にして自衛隊を海外派兵する実績作りを模索するようになる。イラク復興支援で小泉首相が自体隊の海外派遣に前のめりだったのはこうした国際社会(特にアメリカ)からの圧力があったためと考えられる。

2003 小泉首相は大量破壊兵器が見つかったというアメリカの声明にいち早く支持を表明した。のちに大量破壊兵器はなかったことが判明している。さらに、復興支援への自衛隊の派遣を推進した。これが現在までつながるPKO派遣の端緒となっている。当時の小泉首相答弁をNewsWeekはこう伝えている。結局2018年になってイラクの復興支援で自衛隊が戦闘状態に巻き込まれていたことがわかるのだが10年以上この事実は隠蔽されたままだった。

2003年に国会で「イラクで戦闘がない土地などあるのか」と追及された小泉首相(当時)は「自衛隊の派遣されるところが非戦闘地域」と豪語。しかし、当時のイラクでは外国軍隊へのテロ攻撃が相次ぎ、自衛隊が派遣された2003年、2007年に限っても、米軍だけで、それぞれ486人、904人の死者が出ています。この背景のもと、自衛隊の活動は短期間のうちに終了しました。

2011/8 民主党政権時に国連の要請を受けて菅直人総理大臣が派遣を決定。野田佳彦総理の時に派遣が始まる。最初は2名の調査派遣だったと朝日新聞が伝えている。

朝日新聞によると、わざわざ首相官邸に出向いたパンギムン国連事務総長からの要請を受けた菅直人首相が支援を表明し、野田政権になってから「調査団を送る」という約束をした。朝日新聞はその後の軍事的支援について心配しているのだが、野田首相がどのような心づもりで調査団の覇権を約束をしたのかは見えてこないし、その後本人からの回顧もない。自民党がある程度の戦略的意図を持っていたのに比べると、民主党の対応は場当たり的な印象が強い。

そもそも最初はアメリカを中心とする国際社会への「お付き合い」として構想されたPKO派遣だが、民主党政権下では米国主導ではなく国連主導の平和維持活動への協力として意識されていた可能性がある。あるいは「国連だったらよいか」と思われていたのかもしれない。しかしながら米国追従傾向の強い安倍政権下で南スーダン覇権がどのように位置付けられていたのかはわからない。

日本は小泉政権下で間違った情報をもとにアメリカのイラク侵攻を支持していたことを総括しておらず、南スーダンへの派遣がどのような意図でなされたのかという総括もない。「戦争反対」という声が大きいので、とにかく前例を利用して既成事実を拡大しようとする傾向が強い。そもそも根強い戦争反対論も第二次世界大戦や日米安保の自発的な総括がないところから始まっていることから、過去の記録を振り返らないことが話をこじれさせていることがよくわかる。

2012/12 民主党が選挙で大敗北を喫し、第二次安倍内閣が成立した。

2013/12 南スーダンの戦闘が激化する。その後も戦闘地域は広がり続け、ついには「比較的安全な首都のジュバ」にも危険が及ぶようになる。Yahooニュースが伝えるところによると、この時に撤退することもできたのだが、安倍政権は集団的自衛権の行使容認のための方策を模索しており、実績作りするために南スーダンのPKOを利用しようとしていたのか、それとも単に南スーダンの状況を過小評価していただけなのかはよくわからない。今の所「防衛省が報告をしなかっただけ」で知らなかったことになっているのだが、報道あったので「全く状況を把握していなかった」とは考えにくい。

一方、南スーダンでは2013年12月に内戦が発生。その直後に菅官房長官は「自衛隊の駐屯地周辺は概ね平穏」と発言。その後も、現地の日本人ボランティアが「自衛隊の駐屯地は首都ジュバのなかで最も危険な場所にある」と報告するなか、稲田防衛相(当時)が駐屯地周辺の状況を「戦闘」ではなく「衝突」と表現するなど、政府は危険を過小評価し続けました。結局、2017年3月に政府は「当初の目的を達した」と自衛隊の完全撤収を発表しましたが、その後も南スーダンでは内戦が続いています。

2014/7/2  集団的自衛権の閣議決定が行われる。毎日新聞 はこう伝えている。この後、国論を二分する安保法制論争が始まる。いったん解釈によって集団的自衛権の行使を容認したのだが、2017年になって首相が憲法改正によって自衛隊を憲法の中に書き込むべきだと提案した。これを契機にして自民党の中で憲法改正議論が行われるようになった。

政府は1日、臨時閣議を開き、憲法9条の解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認すると決めた。集団的自衛権は自国が攻撃を受けていなくても、他国同士の戦争に参加し、一方の国を防衛する権利。政府は1981年の政府答弁書の「憲法上許されない」との見解を堅持してきたが、安全保障環境の変化を理由に容認に踏み切った。自国防衛以外の目的で武力行使が可能となり、戦後日本の安保政策は大きく転換する。

2015/8 この年の夏には各地で戦争法反対のデモが起こるが安保法案は成立した。安倍首相は「日本人を守るために法整備したのだ」と説明し続け、自衛隊に危険が及ぶことはないとも言っていた。自衛隊の安全確保義務が法律に書き込まれているとHaffinton Postの記事は解説している。シビリアンコントロールの中には「自衛隊の安全確保義務」も書かれている。つまり軍隊ではないと解釈されている自衛隊が「戦闘状態に巻き込まれた」と報告しているのに何もしなかったというのは、法律違反であり、そのまま憲法違反の可能性があるということになる。

また、安倍首相も(2015年)5月14日の記者会見で、自衛隊員の安全確保は「当然」として、「例えば後方支援を行う場合には、部隊の安全が確保できない場所で活動を行うことはなく、万が一危険が生じた場合には業務を中止し、あるいは退避すべきことなど、明確な仕組みを設けています」と発言。

2016/7 南スーダンで大規模な武力衝突が起こる。しかし、日報に武力衝突という言葉が使われていたために憲法第9条との矛盾を突かれると困ると考えた稲田大臣は戦闘を武力衝突と言い換えてきた。稲田防衛相の日報隠蔽疑惑、「瑣末な話」が大事件化の事情…日報問題の隠れた本質

 南スーダン国連平和維持活動(PKO)に派遣されていた陸上自衛隊の部隊が、昨年7月に政府軍と反政府軍の間で戦車、ヘリコプター、迫撃砲も使い、300人以上の死者が出る大規模な戦闘が起こった際、「戦闘が生起した」という正確な情報を中央即応集団司令部(相模原市座間駐屯地)への「日報」(日々の状況や行動の詳細報告)で伝えていた。

2016/9 現地からの情報を掴んでいたジャーナリストが南スーダンの日報の情報開示請求を行う。この時点では日報はネットワーク上に残っていたようだ。これ以降の記録は主に安倍首相は本当に「陸自の日報隠し」を知らなかったのかによるが、他の資料も補足に使っている。

この頃すでに成立していた法律による「駆けつけ警護」の訓練が始まろうとしていた。毎日新聞の調査によると反対している国民は48%と無視できないほどだったが、安倍政権はなんらかの意図を元にした実績作りのために法案成立後の実績作りに前のめりになっていた。この記事によると駆けつけ警護が行われるのは11月からの予定だった。当時の説明では南スーダンでは武力衝突は起こっているものの戦闘状態とまでは言い切れない上にジュバは比較的安全なので自衛隊に新任務が付与されても大丈夫だと説明されていた。だが、実際にはジュバにも危険が及んでいたのである。

日報を見るとそのことはわかっていたが、その日報を稲田大臣と安倍首相が知っていたかがまだわからない。知らなかったとなると自衛隊が自主的に状況を報告していなかったことになり「文民統制」上の問題になる。文民統制違反は憲法違反となる。(AERA.dot

このため戦後は新憲法で軍人は閣僚になれないとし、自衛隊法で最高指揮官を首相と定めるなど文民統制を掲げた。自衛隊を管理する防衛庁を設け、官僚(背広組)が自衛官(制服組)に優越する「文官統制」の仕組みも作った。それは軍令にも及び、防衛庁設置法では防衛庁長官の命令を背広組幹部が「補佐する」とされた。自衛隊が有事や災害で動く際の指揮内容を背広組が仕切る形だった。

一方で知っていたとなるとやはり政治家と背広組が法律にある自衛隊の安全義務違反違反だったことになる。これは戦闘状態に巻き込まれると自衛隊が軍隊だったということになってしまうということを意味しており憲法違反になる可能性が高い。

2011/10/11 安倍首相は政府軍と反政府の間で衝突は起きたが戦闘ではないと答弁。(Huffinton Post)この時に内戦とは国や国のような組織(国準)の間で起こる活動であると解釈し、南スーダンの活動はこれには当たらないと説明していた。この時点で防衛省から首相や防衛大臣に報告が上がっていたのかはわからない。

稲田氏は「戦闘行為とは、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷しまたは物を破壊する行為」とした上で、南スーダンの事例は「こういった意味における戦闘行為ではない。衝突であると認識している」と回答。これに対し、大野氏は「戦闘ではなかったのか」と再三にわたって質問。途中、審議が中断する場面もあった。

稲田氏に代わって答弁に立った安倍首相は、「武器をつかって殺傷、あるいは物を破壊する行為はあった」とした上で、「戦闘をどう定義づけるかということについては、国会などにおいても定義がない。大野さんの定義では”戦闘”となるかもしれないが、我々は一般的な意味として衝突、いわば勢力と勢力がぶつかったという表現を使っている」と発言。あくまで、戦闘行為ではなかったという認識を示した。

2016/11/19 JB Pressによると駆けつけ警護を任務とする第十一次隊が派遣される。

2016/12 ジャーナリストに日報は廃棄してしまいなくなってしまったという報告が戻ってくる。布施さんによると実際に日報が廃棄されたのはそのあとだそうだ。のちに小野寺大臣にあがった報告ではローカルのハードディスクなどに残っていたことがわかる。

この不開示に誰がどのように関わったのかは不明。つまり、安倍首相や稲田防衛大臣が国会が紛糾するのを恐れて防衛省に不開示を指示したのか、あるいは防衛省が勝手にやったことなのかはわからない。

現在の「文民統制」とは報告書をあげていたかそうでなかったかという議論なのだが、実際には危険状態を誰が認識しておりどういう判断で派遣を継続したのかという問題の方が重要である。さらに、危険があるということを認識しながら任務を拡大したことに対する是非も議論されるべきであろう。

2017/1/17 岡部陸上幕僚長は南スーダンの日報があることを知っており、統合幕僚の辰巳統括官にその旨を報告していた。

2017/1/24 安倍首相が日報(全般)は報告のための文書であり公的文書の管理記録に従って廃棄されたと答弁した。安倍首相が日報が実際に存在しているということを知っていたかどうかは不明。

2017/1/27 辰巳統括官は黒江事務次官に南スーダンの日報問題について相談。すでになかったことになっているので見つかったものだけをあったというようにとの指示を行ったとされる。

2017/2/7  南スーダンの日報はすでに陸幕が廃棄したと言った手前統合幕僚監部で見つかった形にしようと判断し、背広組が稲田大臣にそう伝えた。

2017/2/13 幹部との間の会合で稲田防衛大臣「なんて答えよう」と発言したという記録が残っている。稲田大臣は「戦闘と言ってしまうと第9条との間で問題が起こるから戦闘とは言えない」と答弁して辞任を要求された。安倍首相は応じなかった。

2017/2/15 南スーダンでの記録も残っていないので、イラク復興支援の日報について問われて「こちらも廃棄した」と言わざるをえなくなった。稲田防衛大臣も含めた会合が行われ、黒江事務次官が「なかったといったものをあったとは言えない」と発言したとされる。

2017/2/16 今度はイラクの日報が本当にないのか野党が防衛省に問い合わせ。辰巳統括官は捜索の必要があると認識。(イラク日報についての経緯は毎日新聞の記事による)

2017/2/20  イラクの日報の問題で稲田大臣が「残っていない」と答弁。

2017/2/22「本当にないのか」と稲田防衛大臣が辰巳統合幕僚監部統括官に尋ねた。担当者はメールで3部署に確認したが「捜索したがなかった」と回答をしてきた部署の報告だけをあげて「探していない」部署については確認しなかった。

2017/3/27 教訓課でイラクの日報が発見されたが報告はしなかった。

2017/5 南スーダンからの撤収が決まる。Huffinton Post)の記事によると、政府は「危険だから」ではなく「任務が完了したから」撤収したと説明した。

安倍晋三首相は撤収する理由として、「自衛隊が担当している(首都)ジュバにおける施設整備は一定の区切りをつけることができる」と述べた。ジュバでは2016年7月に大規模な銃撃戦が発生するなど、南スーダンの悪化している治安情勢を考慮に入れた可能性もある。

2017/7/27 特別防衛監察の報告書が出る。防衛大臣が具体的な指示を出した可能性はあるが、照明はできないとした。この時点で黒江事務次官が主導して隠蔽を指示したとされた。責任をとって、防衛省のトップが辞任。稲田防衛大臣は事実上の更迭と伝えられている。

2017/7/28 当時の稲田朋美防衛大臣、黒江哲郎防衛事務次官、岡部俊哉陸上幕僚長の3人が揃って辞任した。(ニコニコニュース

2017/11 日報の実態把握調査が小野寺防衛大臣の指示のもとに始まった。(nippon.com

2018/3/7 三原文書課長はこの時点でイラクの日報があったことを知っていたが、他にいろいろと忙しいことがあったので小野寺大臣には報告しなかった。(JIJI.com

研究本部は1月12日、陸幕衛生部が同31日に、それぞれ陸幕総務課に日報の存在を連絡。陸幕は2月27日に統幕へ報告した。小野寺氏への報告が3月31日にずれ込んだことについて、防衛省関係者は「防衛相への説明や国会質問に耐えられるようにするため時間がかかってしまった」と釈明している。

2018/3/28 18年度予算案が可決され、国会で追求される可能性がなくなった。(毎日新聞)しかしながら、予算案成立の過程では森友学園をめぐる決済文書の改竄問題が取りざたされ、首相夫人の関与を巡り証人喚問が行われた。このため、その他の文書改竄や隠蔽が露見すれば政権の存続すら怪しいのではないかという雰囲気になっていた。その後、加計学園問題で首相官邸の関与があったらしいという証拠が見つかっている。

2018/3/31 防衛省によるとこの日になってはじめて小野寺防衛大臣に「日報があった」という報告がなされたとされている。

2018/4/9 安倍首相が日報が見つからなかったことに関して陳謝した。

2018/4/14 2004年に小泉政権下で実施されたイラクの日報にも戦闘の文字があったことが確認された。(朝日新聞)また、シリアが化学兵器を使ったとしてアメリカが大規模な攻撃を行った。国連による調査は行き詰っており調査団の活動期限もすでに切れていた。今回の攻撃では数百人規模のロシア人が亡くなっているという報道もあり、ロシア政府は国連に抗議したが抗議声明は否決された。安倍首相はいち早くアメリカに支持を表明した。(Blogos)トランプ大統領のシリア政策は支離滅裂であるという観測も出ている。(NewsWeek)ロシアとの親密な関係を強調するが、シリア攻撃でロシア人も殺しているからである。

自衛隊の日報隠しがなぜいけないのか理解できなかった……

今日の話はちょっと気が進まない。普段わけ知り顔で得意そうに政治について書いているのに、今回は自分があまり賢くないということを示しているだけのエントリーになってしまうからだ。

実は自衛隊が日報を隠したことがなぜいけないことなのかがよくわからなかった。よくわからなかったので興味がわかず、あまり取り扱ってこなかった。

この疑問を解決するためには解決しなければならない二つの要素がある。一つは日本の防衛戦略に関する基礎的な理解である。これについては別に書くかもしれないのだが、要約すると次のようになる。

日本は国民の理解を得ながら防衛戦略を推進するしかない。変化の多い環境では「一人のリーダーが独占的に意思決定する」か「みんなが納得して意思決定してゆく」という二つの選択肢しかない。北朝鮮は前者を取ったわけだが、いったん国際社会に組み込まれてしまうと今度は経済的競争という「平和な戦争」が始まり、やがて労働党独裁では対処できなくなるだろう。中国のように限定的な解放という戦略は狭い北朝鮮では取れない。

ということで、この文章には日本は国民に理解してもらいながら権限を委託してもらうしか生き残る道がないという前提がある。これは民主主義が美しいから民主主義社会になるべきだというお話ではないし、武器を取るとやがて全面戦争になり地球が滅びるというようなお話でもない。一方で、自民党の強いリーダーシップと長い民族の歴史があればおのずと世界から尊敬されるというようなお話でもない。

そもそも、日報って何だろうと思った。何だかわからないので身近なものに例えようと思って題材を探した。最初に思いついたのはプログラミングだった。外付けハードディスクに日報の断片があったということなので素人プログラミングと状況が似ているなと思ったのだ。チームでプログラムをやる場合、当然ながら勝手にローカルにコピーして保存してはいけない。チーム内で共有しているプログラムが持っている変更を常に引き継いで行かないと思わぬバク担ってしまうからである。

しかし、この例は無理がある。森友学園の文書改竄問題のような契約書や決済文書の場合ローカルコピーが様々なところにあるのは問題だが、日報はそのようなものではないからである。このプログラミングのメタファーは日本人が協力できないということを考えるには重要なのだが、今回の例には当てはまりそうにない。

次に考えたのは日報が「トランザクションデータだ」というたとえである。つまり、最終成果物を作るために必要な材料というわけだ。この線で考えてゆくとすぐにそのヤバさがわかった。

「トランザクション」という考え方はコンピュータシステムを嗜まない人にはあまり馴染みがない概念かもしれないので「明細」と言っても良い。つまり日報は最終レポートを作るための原材料だ。

例えばフレンチレストランで食事を楽しんだあとに、ワインでふらふらになった頭で請求書をもらっても、明細は確認しない。これは私たちがお店を信頼しているからである。お店を信頼しているからこそ安心してへべれけになれるのだ。だが、あとになって支払いを思い起こし「過剰請求」されたのではないかと考えたとする。慌てて店に電話したところ「いや、もう明細は残っていないんですよね、そういう決まりなんで」と言われたらどう思うだろうか。多分「ぼったくりだ」と直感するに違いない。

日報は途中成果物なので最終レポートがしっかりしたものであれば特に見る必要はない。しかし仮に疑念があった場合には日報を取り出して「ちゃんと現地の情勢は反映されていますから」と説明しなければならないし「なんならご覧になりますか」と言わなければならない。

レストランの例で説明するとわかりやすいのだが、日報などと言われて「これは法令や省令で保存しなくてもいいということになってるんですよね」などと説明されると、法律じゃ仕方がないなと思ってしまう。稲田前大臣は「請求書は絶対に正しいし、その明細は捨てた」と言っているようなものなのであり、これは無理筋の説明だ。

ここまでドヤ顔で書いてきたが、多分みんなこれがわかっていて騒いでいるんだろうなと思った。新聞を読んでいる政治通の人たちもこれがわかっているんだろう。自分だけが理解していなかったわけで、ちょっと恥ずかしい気分になった。

途中成果物と最終成果物は不可分なので、最終成果物が取ってあるから途中成果物は捨ててもいいという理屈は成り立たない。明細を見せられないということは少なくとも不誠実の証だし、決まりにより捨ててもいいなどというのは、最初から騙す気満々だったということになる。レストランの例でいうと日本政府はぼったくりレストランなのだ。

しかも「何が何でも騙すぞ」と思っていたわけでもなかったらしい。財務省の例を見て「あとで問題になったら誰かのクビを差し出さないと収まらなくなるぞ」とビビったのだろう。ぼったくりレストランとしての覚悟もなかったようだ。

例えば新聞社は記事が最終成果物なので途中成果物は捨てても構わないとは主張できない。確かに取材源の秘匿という問題があり、普段は表にださないのかもしれないのだが、何か疑念があった時には取材メモを出さなければならないだろう。加えて別のところから「実は結論と違った事実を掴んでいた」というような話が出てきたら読者はどう思うだろう。多分、その新聞社は潰れてしまうか世間から叩かれるのではないだろうか。

さらに、調書も途中成果物である。普段はこれをおおっぴらにすることはないのかもしれないが、もしどこかから犯人を有罪にするためにはあってはならない調書が出てきたらどうだろうか。間違った情報だけで有罪判決を出してしまったとしたらその裁判はやり直しになるだろうし、警察は大いに責められるはずである。調書が判決の基礎になっているからである。

調書に関しては刑事事件として刑が確定したものに関しては情報が開示されるという法律があるそうだ。不起訴になった場合には開示されないともいう。

これらのことを考えていて、日報が隠蔽されていたということのヤバさがわかったのだが、一旦理解できると「なぜみんなもっと騒がないのだろう」と思えてくる。よくわからないが一部の人たちが騒いでいるだけなので「あの人たちは政権が欲しくて言っているんだろうな、お気の毒さま」と思っているのかもしれない。

さて、最初のややこしい話に戻る。日本は防衛戦略として「国民の理解を得ながら防衛政策を進めてゆくより他にない」というちょっと硬い話である。この部分はいったん文章を全部書いたあとに付け足した。なぜかというと結論が書けなかったからである。

日本人にとって民主主義は儀式(リチュアル)にすぎないのだから防衛文書が隠されていても儀式さえ滞りなく終わればそれで良いようにも思える。フランスのジャーナリストには「民主主義のお芝居をしている」と書かれているそうである。この人は紳士なのだろうがこれは皮肉ではない。多分事実だ。

政府も官僚も国会も司法もメディアも国民も、日本の民主主義を構成するすべての人たちが表面上はそれぞれの役割を果たしているように見えて、実際には「民主主義というお芝居」を演じているだけなのではないか?という皮肉すら言いたくなってきます。(ルモンド特派員 フィリップ・メスメール)

お芝居でも国は動いているわけだからそれでもいいじゃないかという見解は成り立つ。だがこれが成り立つのは固定的な環境があって、そこに順応するストーリーを時間を書けてでっち上げられる場合だけだ。現実の国際情勢は刻一刻と変化し、アメリカ大統領までもが「日本はアメリカの防衛戦略にフリーライドしている」といって拍手喝采されるようになってしまった。隣の国は核兵器を持とうとしている。この状況に対応する唯一絶対の正解があるという人がいたらその人は十中八九大嘘つきだろう。

こうした情勢の変化を受けて意思決定しなければならないことは増えてゆくはずのだが、その度に「センソー(何の戦争かはわからないけどとにかく「センソー」)ハンタイ」というデモを起こされて国会が止まっては困るのだ。だから、軍が関与する国際情勢上の変化はありのままに伝えられる必要があり、その意思決定はお芝居や儀式では困るということになる。そしてそれは防衛だけでなく経済にも影響が波及する。経済競争は多分「平和な戦争」である。

この点について考え出すとかなり長い文章になりそうなので、今日はここまでにしたい。今日の結論は日本政府は、意気地のないぼったくりレストランだということである。

バカがバカを笑う- 安保関連法案を巡って

松本徹三という識者の方が石田純一氏を嗤っている。氏によると、安保法案に反対する石田さんはルックスはいいだけのバカなのだという。Twitterで突っ込んだら「自分の方が多角的に物事を考えている」という旨のご返信を頂いた。ちょっと呆れた。

安倍政権が安保法案を推進したのは、アメリカの要望に従ったからである。日本はアメリカの核の傘の下にあり、同じく核保有国である中国に対峙している。だから、アメリカに従うより他に現実的な選択肢がない。また、アメリカが日本に軍事基地を設置しているのは、日本を守るためではなくアメリカの軍事的なプレゼンスを守るためだ。日本はこれが「あたかも自分たちの国益である」ように行動しなければならない。それしか道はないからだ。

しかし、アメリカには余裕が無くなってきている。アフガンやイラクで多数の死者を出したのだから当然のことだ。そこで、自分たちは表に出ずに現地部隊を戦わせて、敵が弱ったところを無人機で攻撃するという路線に変えている。「自衛隊がアメリカ軍の為に犠牲を払うべき」というアーミテージの発言はこの路線に沿っている。現地部隊は朝鮮半島からも撤退しつつあるようだ。

さらに、安倍首相と中谷防衛大臣は、アメリカで「北朝鮮からアメリカに飛ぶミサイルは日本が撃ち落としてあげます」と言って拍手喝采を浴びた。「日本がアメリカ防衛をしてくれる」と受け取られたからだろう。

ところが、日本ではそのような説明はされなかった。安保関連法案を改正するのは「日本を防衛するため」であり、集団的自衛権と言っても個別的自衛権の延長のようなものだと説明したのだ。そして「自衛隊のリスクは増えない」と言い切った。そこから先の混乱は皆さん御存知の通りである。橋下徹市長と維新の党がベン図まで書いて「集団的自衛権」と「個別的自衛権」には重なるところがある概念だなどと説明したのが記憶に新しいが、これは概念としては排他的だ。

安倍首相が内外で行った説明にはお互いに矛盾がある。その矛盾が露呈しないののは「今までのように」何も起こらなかったときだけだ。何もなければ、お互いに日米郡司同盟をいいように解釈できるのだ。その意味では「津波は起こらないから安全」な原子力発電所に似ている。実は安倍政権も「戦争がない」ことを前提しているのだが、これをお花畑だと嗤うひとはいない。

確かに安倍首相の作戦は「賢い」だろう。日本人は「軍事的に主導権がない」ということを自覚せずに済むし、アメリカのプレッシャーからも解放される。おまけに米国議会から賞賛されて演説までさせて貰えた。良い事尽くめである。しかし、何かことが起こったらどうするつもりなのだろう、と思わずにいられない。自分たちだけで処理できると考えているのだろうとしか思えない。

議論の経緯を見ていると、何が起こるかどうかという想定はしていないようである。細かい想定は識者に丸投げしているように見えるのだ。例えばあるレポートから丸写しした「ホルムズ海峡」の事例がそれに当たる。イランとアメリカが再接近しつつあることに気がついていなかったようだ。ニュースでもやっていたが、交渉の意味が分かっていなかったのかもしれない。途中で合意が成立してしまったので、慌てて事例を取り下げ、野党が「立法事実がなくなった」と騒いだ。現状も分析できないのだから、未来予測が立てられるはずはない。もっとも軍事的な主権はないのだから「予測するだけムダ」なのかもしれない。意思決定する権限がないからだ。にも関わらず情報が足りないとぼやいていて、内閣に情報を集積する仕組み作りに躍起である。

日本が軍事的な行動を起こしアメリカを支援するためには日本国民の納得とコミットメントが必要である。そのためには、アメリカに余力がなくなっている現実を知らせたうえで、国民を説得するする必要があった。それをしなかった理由を「国民がバカだから」と考える事は可能だが、実際には説得する自信がないからなのではないかと思う。

軍事的に見れば日本は独立国ではない。これが一部の人たちには苦い現実になっているのだろう。それに直面しなくても済むように、内外で説明を使い分けているというのが日本の現状だ。「賢い」識者の人はうすうすそれに気がついているのではないかと思う。欺瞞によってしか平常心を保てないので、「もっとバカな」人を見つけて攻撃するのかもしれない。

石田純一さんが「バカ」だとしたら、それは政府の説明を真に受けているからだ。二国間軍事同盟を前提とすると、日本が集団的自衛権を行使するのは、日本がアメリカを守る為で、アメリカが日本を守るためである。ところが日本には憲法の制約があり、国民の意識(自分の国さえ守る事ができれば十分)もあって「集団的自衛権と言っても、個別的自衛権の延長」なのだという説明をしてきた。そこで「集団的自衛権は日本を守る為のもの」という奇妙な解釈が成立してしまったのだ。

この説明を真に受けた石田さんは「日本を守るのであれば個別的自衛権で十分ではないか」と言っている。「政府は嘘つきだ」と言いたいのかもしれないが、これは(日本の立場から見て)当たり前の事を言っているだけであり、叫ぶ程の事でもない。

また「今のままで良いではないか」とも言っているが、これも日本の立場から見れば当たり前のことである。安倍首相も「日本の負担も犠牲も増えない」と言っているので変える必要がないのは当たり前だ。変える必要があったのは、日本の負担と犠牲(ついでに責任も)が増えるからだ。これも無理矢理証明するべきようなことではない。

さて、この辺りで安保法案賛成派と反対派どちらが正しいのかという問いに移りたくなるのが人情だろう。しかし、この問いの立て方は正しくないように思える。

左派は正面から反対できないと思ったのか、国民が持っている不安と法案を結びつける事で反対運動をもり立てようとした。共産党や社民党はともかく、民主党の中にはわざとこれを実行した人がいるのではないかと思われる。その不安とは経済的な闘争に巻き込まれるという不安だ。背景には国の経済力の低下がある。これが「安倍政権が戦争をもたらす」という像につながっているようである。一億総活躍を一億総動員に置き換えるのはそうした心理状態の表れかもしれない。第二次世界大戦の敵はアメリカだったのだが、今戦う相手は「国の老い」なのだ。

ここから推測できるのは民主党が国力を回復させるような知恵を持っていない(あるいは持っているが党内でもコンセンサスが得られない)ということだろう。よいアイディアがあればそれを提案できたはずなのだが、解決できないので、感情的に訴えたのだ。

一方、賛成派も中国の脅威を念頭に置いている。しかし、実際に問題なのは中国の台頭ではなく日本の国力の衰退だ。そうした不安を直接解消することができないので「アメリカが味方してくれれば大丈夫だ」と言ってみたり「憲法を改正すればよい」と主張したりする。

実は、この2つの勢力は実は同根の問題に直面している。しかし、直接の解決策が見つからないので、お互いに嗤い合ったり叫び合ったりしているのである。

識者の一部はこの先を心配しはじめているようだ。左右が罵り合って膠着しているうちはいいのだが、その間隙をついてもっと過激な「ソリューション」が提示されたとき、国民は熱烈にそれを歓迎するのではないかということだ。実際にフランスの地方選挙では右翼勢力が大躍進し、アメリカではトランプ氏が過激な主張で人気を集めている。

嘘の芸術 – なぜ集団的自衛権の議論は分かりにくかったのか

アメリカのジャパンハンドラー達は自分たちの勢力を拡大するために日本にレポートを書いた。その中で「日本が一流国になって尊敬されたければ集団的自衛権を認めてアメリカ軍に協力すべきだ」と明確なビジョンを示した。これを「アメリカに尊敬されたくて仕方がない」安倍晋三や麻生太郎などが支持した。レポートには、国民を説得する為には中国の脅威を煽り、日本人の民族意識を鼓舞しろと書いてあったので、その通りに実行したが右翼系雑誌以外では無視されていた。レポートには例としてホルムズ海峡の話も書いてあったので、それも引用することにした。

オバマ米国政府は軍事予算を削減するために、日本に極東防衛に積極的な役割を担って欲しいと考えていた。しかし、当初オバマ大統領は中国と仲良くしたいと考えており、ナショナリストである安倍晋三を遠ざけていた。しかし、中国は南シナ海に進出しアメリカを刺激した。また、韓国は中国に接近し軍事パレードにも参加するなどアメリカを警戒させる動きに出た。

安倍晋三は日米安保(日本の防衛のための取り組み)の下にあるガイドラインを改訂して地域限定を外した。このため、日本は世界中でアメリカと協調行動が取れるようになった。ただでさえはっきりしない憲法、日米安保、ガイドラインの関係はますます分かりにくくなった。

安倍晋三と中谷元はアメリカの議会に「北朝鮮がアメリカを攻撃したら、日本が防衛してあげます」と宣言して拍手喝采を浴びた。これはフルの集団的自衛権行使宣言だった。オーストラリアとも準軍事同盟的な関係を結んだ。

従来、日本政府は軍事費にお金をかけずに経済成長重視で行きたい(吉田ドクトリン)と考えていた。ところが朝鮮戦争で日本の治安維持(日本人が暴動を起こした時に日本人を取り締まる)が手薄になったので、マッカーサーの要望で自衛隊を作る事にした。自衛隊は警察力の拡張だったが、そうは言えないので「日本を守る」と言い換えた。今度は憲法との間に矛盾が生じたが「解釈によっては自衛力は持てるし、あればそもそも軍隊ではない」と主張することにした。一方で、アメリカが朝鮮戦争やベトナム戦争などへの参加を求めたので「憲法(そもそもアメリカが与えた)では集団的自衛権は認められない」と言って断る事にした。しかし、憲法解釈上は無理があった(憲法には軍隊は持ってはいけないし、戦争はしてはならないとしか書いていない)。そこで、最高裁判所はこの矛盾に触れないことにした。

アメリカの期待に応えるためにはフルの集団的自衛権を認める必要があったが、安倍晋三には国民を説得して憲法改正ができないことを悟った(あるいは自信がなかった)。そのために「これは日本を守る為なのだ」と言い換えることにした。こうして限定的集団的自衛権という概念がうまれた。ここからアメリカからのリクエストと国内向けの説明(ホルムズ海峡の機雷除去と朝鮮半島からの邦人帰還)の間にずれが生じた。ホルムズはどうしても枠に収まりきれないので例外ということになった。

たくさんの法律を短い時間に書き直したためにアラが目立つ法文ができ上がった。そもそもアメリカが何をリクエストするかは分からないので「なんでも内閣の裁量で決める」ことにした。そもそもアメリカに対してポイント稼ぎをしたいのは外務省なので、官邸と外務省が法文を作った。防衛省には根回しをしなかったのではないかと思われる。後に自衛隊から共産党に情報が漏洩したりした。内部に反発があったのではないかと思われる。

船田元が全く別の審議会でよせば良いのに憲法学者に「今度の安保法制は違憲か」と聞いた。空気を読まない憲法学者は「当然違憲だ」と言ったので、大騒ぎになった。政府はこれまで集団的自衛権は違憲だと言っていたので、これに追随していた人も多かったものと思われる。学者の中には自衛隊は違憲だと思っている人もいた。これに安倍晋三と自民党の憲法改正案(と、その進め方)に反対する憲法改正派の大御所も合流し「立憲主義の破壊だ」とか「民主主義の危機だ」と大騒ぎになった。

民主党は内部に「集団的自衛権行使容認派」を抱えていたが、野党としての存在感を示す為に反対することにした。党として対案を出そうとしたが、どういうわけか反対に合い、領域軽微法を除いて国会への提出は見送られた。Twitter上では「実は賛成派」と「断固反対派」がそれぞれの主張を呟いていた。社会主義国が破綻しており、憲法第九条(と、原発再稼働反対)しか拠り所がなくなっていた社民党と共産党も強行に反対した。どちらも数では勝てなかったので「戦争法案」と言い換えて「徴兵制もあるかもしれない」と感情に訴えることにした。

安倍晋三は集団的自衛権(アメリカなどの同盟国を守る)と個別自衛権(日本を守る)をわざと混同して説明していた。これを真に受けた橋下徹は「集団的自衛権と個別的自衛権には重なるところがある」とベン図を持ち出して主張したので、話がさらにややこしくなった。

安倍晋三はテレビに出て母屋と離れの火事というよく分からない事例を挙げて「丁寧に説明」した。後に生肉だと騒がれることになった。インターネットテレビでは麻生君が殴られたらとか、菅君の家に泥棒が入ったらなどと説明したので、国民を不安に陥れた。国会ではホルムズ海峡の例と朝鮮半島からの帰還者保護の事例は取り下げられた。

自衛隊は軍隊のようで軍隊でないので、ジュネーブ条約で守られず、さらに偶発的な殺人に関する罰則の取り決めがないことが分かった。しかし、安倍晋三はこの危険性を無視した。中谷元は内閣と外務省が作った法律を防衛省のレクを受けて答弁したため、答弁が曖昧になり、さらに国民の不安を煽った。建前上、自衛隊は危険な場所に行かないことになっているが、アメリカには「日本を防衛する米軍の盾になる」というような約束をしているらしく、危険なときに撤退するかしないのか曖昧なまま議論が進んだ。確かに、日本防衛時に自衛隊が先に逃げ出しては話にならない。

ブッシュ大統領はありもしない大量破壊兵器を理由にイラクを攻撃した。戦争が終らないと日本が参加できないので、戦争が終ったことにして自衛隊の出動を要請した。小泉純一郎は国連の復興支援だという名目で自衛隊を送り、米兵を輸送したが「内容を知らなかった」ことにした。イラクの状況は泥沼化しており、民間人と反乱兵の区別がつかない状態だったので、米軍は結果的に民間人への攻撃という戦争犯罪を犯した。つまり、自衛隊はすでに戦争犯罪に加担して「見て見ぬふり」をしたことになる。山本太郎に質された安倍晋三は「知らない、分からない」と答弁した。片山さつきはテレビで「日本政府は正しかった」と言い張った。

こうした不安の中で、女性誌が「戦争があるかもしれない」「将来子供が兵隊に取られるかもしれない」という特集が組み、主婦の不安を煽った。女性がデモに参加することになった。デフレが続き学資を得られなくなっていた学生は「経済的徴兵制」に反応した。学費を肩代わりしてもらう代わりに兵隊に行くという制度だ。将来に不安を持っていた学生がデモに参加することになった。さらに、イラク戦争は間違っていたという人たちが加わりデモは拡大した。

安倍晋三は「中国の脅威があるから集団的自衛権を行使するのだ」と説明していた。それを真に受けた支持者はデモ参加者や法案反対派を「売国奴」だと攻撃し始めた。アメリカが日本に加勢して中国を成敗してくれると勘違いしている人もいたのではないかと思う。小川和久は「憲法も日米安保も集団的自衛権も全く矛盾していない。すべて整合している」と主張し「これですっきり分かった」と膝を打つ人が増えた。

イラク戦争の例を見ても情報開示されない国会の審議は意味がないことが分かっているのだが、野党の存在感を示しつつ自民党に恭順の意を示したい野党各党は「必ず国会審議をします」という付帯決議を入れさせて「妥協を勝ち取ったのだ」と言い張った。

佐藤正久は国会で「集団的自衛権」を行使し、防衛大学校仕込みの防衛術で鴻池祥肇を守り、小西ひろゆきをグーでパンチした。騒ぎの中で委員会採決されたが、議事録には「採取不能」ということで記録が残せなかった。自民党も野党も女性を利用し「セクハラだ」とか「女性暴力だ」などとお互いを罵り合った。国会は国民に「女性活躍社会」の範を示した。山本太郎は焼香パフォーマンスを見せて、山崎正昭に「次は容赦しない。議員バッジ を外すことになるかもしれない」と言われ、小沢一郎にも怒られた。

安保法案が成立し、アメリカ人は「これで日本がアメリカを防衛してくれる」と歓迎した。ヨーロッパのマスコミの中には「日本は戦争ができる国になった」と報道するところもあったらしい。

民主党、共産党、社民党は「民意は国会の外にある」と言い出した。選挙に行かなかったであろう人たちを含むデモ参加者の中には「選挙では政策は選べないので選挙は意味がない」という主張をする人まであらわれた。マニフェストは完全に忘れ去られた。一方、自民党の支持者はマニフェストには(小さな字で)書いてあったと主張した。選挙では安保法案は争点ではなかったと主張するSEALDsの奥田愛基に対して田崎史郎は「集団的自衛権は争点だった」と怒鳴り、伊藤利尋は愛想笑いを浮かべた。

唯一本気で反対していた共産党は民主党に連立政権の樹立を迫ったが、もともと本気度が薄い民主党は動揺することになった。民主党は「共産党が勝手に候補者を引き上げて、民主党に票を入れるのは自由だ」と上から目線で応じた。デモで法案に反対してい人たちは民主党の態度に落胆した。

集団的自衛権を巡るやり取りを見ていると、日本に政党政治が根付き、民主主義が根付いているとは言いがたいように思える。しかし、日本は依然として「完全な民主主義」が実現している数少ない国の一つであり、世界にはこれよりも悪い国がいくつもあるらしい。少なくとも、太陽は東から昇り、西に沈んでおり、いつもと変わりなく見える。

戦争に参加するということについてもう一度だけ考えてみて欲しい

何気なくPEOPLEという雑誌を開く。載っているのは、主に芸能人のゴシップ記事だ。そんな雑誌の終わりの方に決まって手や足のない人の写真がある。顔にやけどのある人を見かける事もある。イラン戦争の復員兵たちだ。日本ではなかなか想像できないことだが、アメリカでは普通の光景らしい。

春頃から始まった集団的自衛権を巡る対立を見るたびに、このことが頭に浮かぶ。日本人はこの光景に耐えられるのだろうか、政府はどう「説明する」のだろうかと思うのだ。

米軍の死者数は4,000名以上だとされるが、日本ではイラク戦争の死傷者は単なる数字として扱われる。この他に、けが人が30,000万人以上いるのだが、この人たちが消えてなくなることはない。そのまま社会が受け入れなければならない。だから、アメリカではこれは単なる数字の問題ではないのだ。

復員兵の中には自殺をする人もいれば、精神的に異常を来して殺人を犯す人もいる。こうした「事件」が新聞に載ることもあるのだが、全てがマスコミで扱われることはない。アフガンとイランの復員兵は1日に22人も自殺しているという話がある。もはや日常なのだ。

今回の法案については、賛成とか反対とかいろいろな意見があるだろう。こんな悲惨な経験をするくらいなら「戦争法案」を絶対に認めたくないという人もいるだろう。だが、アメリカ人の立場に立つと、アメリカ人はそれだけ多くの犠牲を引き受けているのだから、便益を受けている国が知らないふりをするべきではないという意見を持つ人もいるかもしれない。

永田町の周辺では、今日一日混乱が続くだろう。目の前にいる対立に目を奪われて、自分たちが何をしようとしているのか、どこに行こうとしているのかについて考える事は難しいかもしれない。

それでも、と思う。せめて一分間だけでも冷静になって、普通の新聞や雑誌に復員傷兵の記事が載るのを想像してみて欲しい。その記事をみたあなたは納得して彼ら(彼女かもしれない)を受け入れることができるのかを考えてみるべきだ。

一分間目をつぶった後に、もう一度テレビを通じて行われていることを見て欲しい。デモの現場にいるなら目の前で行われていることを見てもらいたい。きっと、その光景を今までとは少し違って見えるはずだ。

できることならば、その気持ちを周囲にいる人と共有してもらいたい。本当の話はそれから始まるのではないかと思う。

自衛隊は戦前の陸軍と同じ仕組みで暴走するだろう

自衛隊の統合幕僚長がデンプシー統合参謀本部議長と会談した際に「自民党が選挙で勝ったから、安保法案は2015年の夏までに成立するだろう」と語った件が参議院で問題になっているらしい。関連して、ツイッター上には、デンプシー統合参謀本部議長と河野克俊統合幕僚長が握手する写真が流れてきた。この写真を見て「自衛隊は戦前の軍隊と同じ仕組みで暴走するんだろうなあ」と思った。と、同時に日本人にはこの暴走を止める手だてがないのだなあとも考えた。

戦前の日本には国民が軍隊を制御する仕組みはなかった。日露戦争で出費が嵩み、国民の不満が爆発したので、慌てて選挙権を拡大したが、それでも国民の半数(つまり女性)は選挙権が得られなかった。

理論的には天皇が統帥権を持っていた。だが、実際には暴走を止める事はできなかった。日本の権力構造は「中空」になっていて、誰も責任を取らない体制が伝統的だからだ、などと言われることがある。

日本の陸軍は政府から独立していたから暴走した。

military一般的には、現在の自衛隊はシビリアンコントロールが働いているから安心だと考えられている。ところが、自衛隊は米軍と一体化している。つまり、自衛隊は二つのコントロール経路を持っていることになる。一つは米軍で、もう一つは日本政府だ。

この二つが相矛盾なく成り立つ為には、両者の意思が完全に一致してなければならない。だが、異なる二つの主体がいつも完全に一致するなどということがあり得るだろうか。

自衛隊の統合幕僚長が米国の統合参謀本部議長と握手をしている写真を見たときに思ったのは「自衛隊は心理的に米軍に取り込まれているのだろうなあ」というものだった。これは、大手企業とやりとりをしている出入りの業者の営業マンに見られる心理状態だ。

本来営業マンは自分の出身会社の利益を守るために行動するはずなのだが、大手企業に出入りしているうちに、あたかも自分が大手企業の一員であるかのように行動しはじめる。その方が大きな仕事ができて気分がよいからだ。同じように自衛隊も「軍隊以下の存在」と思われるより「世界一の軍隊の一部」として扱われた方が気分がいいに違いない。

米軍に監督されている自衛隊が単独で暴走することはないだろう。問題なのは内閣の方針と米軍の方針が衝突した時だ。そのとき自衛隊は米軍に背き、国民の味方をしてくれるだろうか。米軍にとっては、自衛隊に日本政府と日本国民を鎮圧させ、自分たちに都合のよい政府を樹立するほうが手っ取り早いし、自衛隊にとってもその方が心地よいのではないだろうか。つまり、自衛隊は日本人を鎮圧する動きをするだろう。

法律などどうにでもなる。そもそもイラク戦争を見ても分かるように、日本の内閣はイラク戦争で米軍と自衛隊が一体化する状態を黙認し「確認のしようがない」と言っている。実際には支配権がないのだから確認しても責任の取りようがない。加えて日本国民一人ひとりはこの件に関して部外者だとされているので、国民が違憲裁判すら起すことができない。立憲主義はあってなきがごとしなのだ。

つまり、戦前と同じように日本政府は自国の軍隊に対する支配権を持っていない。今回の安保法制はその状態を追認しているに過ぎない。

このような事態を避けるためには、日本国政府は「あたかも自分たちが支配権を持っているかのように振る舞う」しかない。一方、野党も内閣を追求すれば事態がコントロールできるというフリをするしかない。もし逆らえば傀儡であることがばれてしまうからだ。過去の歴史を考えると、この動きはどうにかしたほうがよい様にも思えるし、恐ろしさを感じる。しかし、安倍政権を攻撃してみても仕方がないことだとも思える。内閣も議会も単なる予算の担い手、つまりは単なる金づるにしか過ぎないからだ。

安倍さんの嘘と抑止力という安全神話

安保法制を巡って、当初安倍首相は2つの事例を挙げて「これは日本人を守る法案だ」と説明してました。ホルムズ海峡の機雷掃海と朝鮮半島(とおぼしき外国)から退避する邦人の保護です。

ホルムズ海峡の事例はしばらく前に取り下げられました。イランとアメリカが関係を修復したために、ホルムズ海峡に機雷がまかれる可能性がなくなったからです。これについで、朝鮮半島から退避する邦人を保護するという事例でも、集団的自衛権が行使できるかどうか怪しくなってきました。(東京新聞 – 米艦防護の条件めぐり 防衛相、邦人乗船「絶対でない」

この朝鮮半島の件には予兆がありました。先だって安倍首相は「朝鮮半島で有事が発生しても日本には重大な影響がない」という趣旨の発言をしたのです。ちょうど北朝鮮が準戦時状態に入っており、朝鮮戦争の可能性が出てきたために「日本が朝鮮戦争に巻き込まれるかもしれない」という議論を怖れたのかもしれません。これを聞いてネトウヨの人たちは「日本は韓国を見放す宣言をした」と大喜びしました。しかし、朝鮮戦争が有事でないならば、半島から邦人が逃げてきても集団的自衛権は発動できないことになってしまいます。

では、なぜ根拠のない集団的自衛権を通す必要があるのでしょうか。それはアメリカを防衛するためです。伝わってくる情報は断片的ではありますが、いくつかの事例があります。一つは安倍首相が訪米時に「北朝鮮がアメリカにミサイルを撃ってきたら、迎撃してあげる」という約束をしています。もう一つはアーミテージ元国務副長官がNHKへのインタビューで語った「日本周辺でアメリカ人を守るため自衛隊員も命を懸けるという宣誓なのだ」という台詞です。

アーミテージ氏のいう自衛隊の米軍護衛は、平時であれば特に国会の承認などが要らないことが民主党の質問で分かっています。平時からなし崩し的に緊張状態に陥る可能性があります。

ここから分かるのは「邦人保護」とか「国益を守る」というのはあくまでも国内向けの説明であって、本当の目的ではないということです。本当の目的はアメリカの保護なのです。

明らかに安倍首相は嘘をついているのですが、この文章の目的は安倍首相の嘘を非難し日米同盟など守る必要がないと主張することではありません。むしろ、安倍さんの嘘が日米同盟と自民党を危機にさらす可能性が懸念されます。

善意に解釈すると、安倍首相はアメリカを喜ばせようと考えて米国向けに「日本はアメリカを守る国になる」と宣伝し、日本人が心配すると思って「たいした事は起こらない」言っていると考えることができます。

何事もなければ、この2つは矛盾なく両立します。ところが、いったん何かが起こるとどちらかを満足させられなくなるでしょう。アメリカの圧力を怖れて内閣が有事を宣誓すると自衛隊に多くの死傷者がでて、国内世論が動揺する可能性もあります。一方、国内世論の動揺を怖れて内閣が知らないふりをすると、裏切られたと感じたアメリカ政府は日本に有形無形の圧力をかけるでしょう。もしかしたら、それは危機が去った後も続くかもしれず、日米同盟の空洞化が進む可能性もあります。すると、日本人は日米同盟への疑問を募らせるようになるでしょう。

この構図は原発に似ています。日米同盟が強固ならば何も起きないという「抑止力論」はつまりは、原発の安全神話と同じことなのです。法案が成立すれば、政府には有事の想定を「なかったこと」にしようとする圧力が働く事になると思います。

いったん事故が起こり国民保護の大義がなかったと国民が気づけば、国民世論は一気に「集団的自衛権行使反対」に傾くはずです。原発事故後に原発への反対世論が一気に進んだのと同じです。

事故後、原子力発電所の再開の判断は原子力規制委員会に丸投げされました。内閣への風当たりを避けたものと考えられています。しかし、安保法制では有事の判断をするのは内閣なので、日米双方からの圧力をまともに受けるものと思われます。逃げ場はありません。事故の際に地元への対応に追われるのは自民党と公明党の議員たちでしょう。

政権を賭してまでアメリカを守る覚悟があるとすれば、それはそれで立派な態度だと言えるかもしれません。しかし、安倍政権は本当にそこまでの覚悟があって、この法案を通そうとしているのでしょうか。

なされなかった鎮魂

昨日、国会審議で山本太郎議員が「広島への原爆投下は市民の大量殺戮で戦争犯罪だと思うが、政府は米国政府に謝罪を求めないのか」というような意味の質問をしました。しかし、岸田外務大臣も安倍首相も明確な言動を避けてお茶を濁しました。

このやりとりを聞けば、多くの日本人が「日本政府はアメリカに頭が上がらないから、言い出せないのだろう」と思うのではないかと思います。しかし、実際は違います。オバマ大統領には謝罪の用意があったと言われています。

アメリカABCがJapanese Government Nixed Idea of Obama Visiting, Apologizing for, Hiroshimaという記事を伝えています。nixとは拒否するという意味だそうです。日本政府がオバマの謝罪を拒否したのです。ウィキリークスの暴露を受けた記事でした。

当時、オバマ大統領は核廃絶への意欲が評価されてノーベル平和賞の受賞が決まっていました。一方。日本は政権交代の最中にありました。そこでルース駐日大使と会談した薮中三十二という外務省の官僚が「日本は準備ができていない」といって、勝手に断ってしまったのです。

今となってはオバマ大統領の謝罪がどのようなものだったのかは分かりません。もしかしたら単に広島を訪れて頭を下げるくらいの遠慮したものになっていた可能性もあります。しかし、それだけでも内外に大きな影響を与えていたでしょう。

確かに、いくら謝っても広島や長崎で亡くなった人たちが戻ってくるわけではありません。しかし、ご高齢になった遺族の方の気持ちはいくらかは休まったでしょう。それよりも大きいのは広島訪問が米国民に与える影響です。アメリカでは広島や長崎で何が起きたのかを知らない人が意外と多いのです。

では、なぜ日本政府はアメリカの謝罪を断ったのでしょうか。ウィキリークスの原文には「反核運動の増長を怖れたから」だと書いてあります。原子力発電所への反対運動に拡大することを怖れたのでしょう。今や死にかけている左派の運動にオバマ大統領がお墨付きを与えるなど、あってはならないことだったのではないかと思います。

日本政府がオバマ大統領の申し出を断ったのは、国内の勢力争いのためだったのです。

確かにこの謝罪は左派を勢いづかせることになったのかもしれません。しかし、よく考えてみて欲しいのですが、人道的な配慮に右や左といった違いがあるのでしょうか。もしあるとすれば、右派の人たちは「広島の犠牲者は国体を守る為には必要な犠牲だった」と考えるのでしょうか。その国体とはどのような物なのでしょうか。

いずれにせよ、謝罪はなされませんでした。薮中さんは外務省を去り、何があったかを聞く事もできません。政府がウィキリークスのような「不正に得た情報」についてコメントすることもないでしょうし、政府が伝えなければマスコミが報道することもないものと思われます。

今アメリカでは、ドナルド・トランプ大統領候補が「イスラム過激派に核兵器をぶち込む」と主張しています。都市が丸ごと破壊されると指摘する識者もいるのですが、トランプ氏に言わせると「多少の犠牲はつきもの」なのだそうです。今でもこのように考えるアメリカ人は少なくないのです。どこかで誰かが反省しなければ、こうした考えがなくなることはないでしょう。

このエントリーを読んで「ふーんひどいこともあるものだな」と考えることは誰にでもできると思います。しかし、もし「戦争犯罪はなくした方がいい」と考えるなら、それだけでは不十分だと思います。一人でも多くの人に、こうしたことを伝えてゆく責任があると思うのです。

韓国には未来永劫謝罪しつづけよ

韓国と北朝鮮が「一発即発」の事態に陥った。すわ朝鮮戦争の再開かと思ったのもつかの間、対立はおさまった。北朝鮮が謝罪したからだ。これには拍子抜けした。「ゴメンですむなら警察は要らない」という言い方があるが、朝鮮半島では「ゴメンですむから戦争しない」わけだ。

日本人は形式上の謝罪ではなく本当の気持ちが大切だと考える傾向がある。心がこもっていない謝罪は屈辱である。だから、軽々しく謝罪してしまうとますます誠意を見せなければならなくなるかもしれないと警戒する。どこまでも譲歩をしなければならないと覚悟するのだ。だから、日本人は軽々しく謝らない。

ところが、韓国や朝鮮の人はそうは考えないらしい。彼らにとって大切なのは「体裁」と「体面」である。どのように処遇してもらうかが大切で、相手から謝罪を勝ち取らなければ「弱腰だ」と非難されるのだろう。韓国の民衆は力の強い相手に対しては強くでられずに、屈折した気持ちを持つ。これを「恨(ハン)」と言う。指導者が「謝罪」を勝ち取ることにより、民衆は溜飲を下げることができるのだ。

だったら、日本の政治家や外交官は韓国政府の首脳に会うたびに、挨拶の代わりに謝罪すればいい。身振り手振りなどを交えてできるだけ大げさに謝罪するのが良いだろう。だからといって、何もする必要はないし、罪悪感を感じる必要もない。謝罪は彼らの体裁を満足させてあげているだけなのだ。

70年談話については、日本国内で様々な議論が交わされた。これは、日本人が戦争についてとても真面目に考えているという点では好ましいのだが、実際には「謝罪」という言葉が入っていれば、そこにたいした裏打ちがなくても良かったのだ。また、これは指導者に対する民衆の感情なので、日本国民が韓国人に謝る必要はない。

これは「韓国人をあげつらっているのだろう」とか「蔑視だ」と考える人もいるかもしれないが、単なる文化差によるもので、どちらが正しいというわけではない。もう少し例を挙げてみよう。

ドナルド・トランプ氏は「日本はタフな交渉者だ」と主張し、アメリカ人の歓声を浴びた。日本人はこれを聞いて「日本はアメリカにこれだけ遠慮しているのに、なぜ非難されるのだろうか」と思うかもしれない。

これには理由がある。日本人は遠慮がちで相手に慮った言い方をしがちだ。また、会談の席では表情を表に出さずにいるのが礼儀だとされる。そこでアメリカ人は「表情はよく分からないが、自分の言い分は認められているのだろう」と推測しがちである。ところが、日本人は「自分の一存だけでは決められない」と言い結論を持ち帰ることが多い。その結果、結論が覆ることも多い。それを見たアメリカ人は「日本人はポーカーフェイスで相手を騙そうとしている」とか「良い条件を引き出そうとしている」とか「タフな交渉者だ」と感じるのだ。

こうした文化差には注意が必要だ。安倍首相は4月に訪米し「日本はアメリカを防衛できるようにします」と言って喝采を浴びた。ところが、国内では「日本が攻撃されない限り、他国防衛はしません」と説明している。持ち帰りの結果、結論が変わりつつあるわけである。

安倍首相は相手に配慮して、日本の細かい事情を説明しなかっただけのかもしれない。しかし、相手にしてみれば「約束が違う」ということになりかねない。アメリカ人は率直さを好み不正直をとても嫌うので、彼らを怒らせることになるだろう。

日本人として謙譲の美徳を持ち、相手に誠意を示すのはとても大切なことだ。しかし、その誠意がそのまま伝わるとは限らないのだ。