相撲協会の崩壊とガバナンス

昼間のワイドショーで面白い議論が展開されていた。「ガバナンスとは何か」という問題だった。面白いのは誰一人ガバナンスについて説明ができないのに、ガバナンスは必要だとして議論が進んでいたことである。誰も不思議に思っていないことが面白くもあり不思議でもあった。

ワイドショーでは今、貴乃花親方の引退が騒ぎになっている。だがその問題の本質は「言った言わない」である。当初は貴乃花親方優位だと思われたのだが、一部のスポーツ新聞が「貴乃花親方が勘違いしていた」という情報を流し始めた。スポーツ紙は今後も相撲協会から情報をもらう必要があり親方たちの意見に疑問を挟めない。そこで貴乃花親方の勘違いで相撲協会のいじめはなかったのだという情報を流しているのだろう。ジャーナリストの中にはこれを無邪気に信じて情報を流していた人もいた。

ここからわかったことは相撲協会の統治の仕組みはかなり前近代的であるということである。メールが発達した現代でも知り合い同士の口頭伝達が主な連絡手段なのだ。だがそれをおかしいという人はいない。なぜならば相撲協会に集まってくる人たちは彼らを利用して商売をしているからだ。みな「伝統社会なのでそんなものなのだ」という。

話の流れから、相撲協会は補助金の分配の管理を一門に任せることにしたということがわかってきた。一門に所属していない親方は「お金を何に使ったのか」がわからなくなるからダメなのだそうだ。だが、よく考えてみるとこれはおかしい。そもそも、暴力問題が起きたのは一門の内部で管理が行き届いておらず、これまでもお互いにかばい立てして暴力を隠蔽してきたからである。隠蔽ができているうちは良かったが外に漏れるようになり、騒ぎになったというのが事の発端だった。だが、相撲協会は身内の暴力問題も管理できない一門にお金の管理をさせようとしている。

一門にお金を管理させるという決定は口頭で「なんとなく」行われ、知り合いの親方たちに口頭で「なんとなく」伝えられた。その時に異論を挟んだり再検討を促した人たちはいなかったのだろう。結局、難しい問題に対応できないと人は知っているスキームに戻ってゆき、問題はなかったことにされる。

だが口頭連絡では誰が何を言ったかがよくわからず、その解釈も人それぞれである。理事会で口頭でなんとなく決まったことについて、それぞれが合意しないままでなんとなく理解したのであろう。だから理事会から出た人たちの解釈も最初から実はバラバラで、それが伝言ゲームを起こす中で「なんとなく」誤解されたのだ。これを、予備情報と思い込みがあって聞いていた貴乃花親方は諸般の事情もあり「ああ、これは自分がいじめて追い出されようとしたのだ」と感じ、「じゃあ俺はやめる」となった。それを突然聞いて慌てた田川の講演会の人たちは東京にやってきて涙ながらに「俺たちは何も知らされていない」と訴え、テレビは親方たちの「言った言わない」について一時間以上も話し合いを続けているということになる。全部がなんとなく行われており、それぞれが勝手に解釈した情報が飛び交っているというのが、村落的なガバナンスの欠点である。

このワイドショーの議論の中で、相撲ジャーナリストの人が面白いことを言った。相撲も一門を廃止しようという話が出たそうなのだがうまく行かなかったそうだ。ある程度票の取りまとめをしてくれる一門がないと「選挙がぐちゃぐちゃになる」というのである。そこから先はスルーされていた。誰もこれが重要だとは思わなかったのだろう。そして別の人が「そもそも誰がガバナンスなんて言い出したんですかね」と言った。「横文字で言われてもわからない」というのである。

もちろん相撲協会にはガバナンスはあった。それは一門というくくりの中で「なんとなく」行われていた。それがうまく行かなくなったので新しい統治方法が必要になっているのである。古い統治方法がうまく機能しなくなっている理由もなんとなくはわかっている。弟子の数が減っており外国人に頼らないとやってゆけなくなっているからである。相撲協会は引きこもるか、透明性の高いガバナンス方法を学ばなければならない。全てがなんとなくなのは、結局理事会で話し合ってこれを公式見解として一つに統一しないからである。

日本人は意思決定ができない。

相撲でガバナンスという言葉が出てくるようになったのは、例の暴力騒動以降のようだ。相撲は公益法人なので「ガバナンス」が求められるのだが、それができていないというわけである。では、ガバナンスとは一体何のことを意味しているのかと問われると、日本人にはうまく答えられない。にもかかわらずみんなで「やれガバナンスがなっていない」だの「日本にはガバナンスは向かない」だの言っているということになる。「公益法人にはガバナンスが必要だ」とみんななんとなく信じており、それぞれが勝手に解釈している。

実際の相撲協会は日頃から冠婚葬祭などで結びつき合っている地縁血縁的集団がないとどうやって理事長を決めていいのかすらわからない。地縁血縁の縛りがないと、ある人は貴乃花親方のように理想にこだわり続けるようになる。また、別の人たちは「票を入れてくれたら優遇してやる」とか「あの親方は普段から気に食わなかった」と言い出して選挙が荒れてしまうのであろう。

相撲協会が古いガバナンスに依存してしまうのはどうしてなのか。それはお金の流れに関係があるのではないかと思う。

「公益法人だからさぞかしたくさんの補助金を受け取っているのだろう」と考えて調べてみたのだが実際の補助金の額はそれほど大きくなさそうだ。つまり、透明性を持って扱わなければならないお金はそれほど多くない。一方、放送権料はかなりのもので一場所あたりの収益は5億円になる。これが年間6回も行われるので、NHKは30億円を相撲に支払っている。ちなみにこれは大河ドラマと同じくらいの予算規模なのだそうである。

大相撲は現在の仕組みを維持している限りにおいては黙っていても年間に30億円が入ってくる仕組みになっている。これを理事長が差配して山分けするということになれば取り合いになるのは必然である。一門という伝統の縛りをなくすと手近な親方を買収して多数派工作をしてあとは山分けということができてしまう。だからこそ一門のような固定的な仕組みを作って、これを相互監視によって防がなければならない。伝統はしがらみとして変えられないからだ。

ガバナンスは日本語で統治の仕組みと置き換えることができるのだが、英語由来の言葉なので英語経由で「後から検証可能な」というようなニュアンスが付帯している。一方、日本にも古くからの統治の仕組みがあるのだが「なんとなく緩やかにふわっと決まる」という日本流の仕組みが紐付いている。みんなが勝手に解釈できるので「自分が否定されている」という気分になりにくいのだろう。

ここにも過剰適応の問題がある。人は知らないものではなく知っているものに惹きつけられる。だが、その中で視野の外側にあるものが見えなくなってしまうことがあるのだ。

相撲は将来的に行き詰ることが見えている。スポーツファンたちはもっと透明性が高いところにゆく傾向があるからである。国際社会に接触しプロ化も進んでいるサッカーや野球には契約の概念があり努力が報われやすい。こちらのほうが実力どおりにの見返りが得られる仕組みが整っている。将来的にはメジャーリーグやヨーロッパサッカー界での活躍も可能である。

相撲は中学生で入門した後は相撲しかやらせてもらえないので幕内になる前に怪我などで廃業しても「全くつぶしがきかない」ことになる。今回の元々のきっかけになった日馬富士暴行事件では被害者に味覚障害が残った。相撲しか知らずつぶしがきかない上にちゃんこ屋も開業できない。暴力事件に向き合わなかったことで再び暴力が起こる素地は残されたままなので、今後、まともな親が相撲部屋に弟子を預けるはずはない。田川から来た泣いていた支持者の子供たちは貴乃花親方が去ったあとの大相撲を応援することはないだろう。「おじいちゃんたちが惨めな思いをした」のを目の前で見ているからだ。

また「モンゴル人閥」ができることで相撲協会のガバナンスは危機にさらされた。彼らはモンゴル人のままでは親方になれない。モンゴル人も日本の親方たちが見えないがそれは同時に日本人もモンゴル人社会が見えないということを意味している。だから日本人理事にはモンゴル人は管理できない。

これを緩やかに変えるためには徐々にお金の流れを変えてゆくべきなのだが、NHKの年額30億円は少し大きすぎる。これが貴重な財源であるということは確かなのだが、これがあるせいで将来の収入が閉ざされつつあるというとても皮肉である。スポーツ新聞を黙らせるには十分な金だが、相撲ファンを増やすには十分ではない。

実は同じようなことが日本の政治や社会でも起きているのではないかと思う。日本は債権国なので外国からお金を持ってくる必要がない。製造業が稼ぐ必要も農産物を売る必要もないのだ。すると外から新しい価値観を取り入れてでも海外にものを売ったり資本を調達しようという意欲は失われる。そこで、ガバナンスが必要なくなり「今入ってくるお金を好きな人だけで山分けにしようぜ」というような気分が生まれるのだろう。

問題は村と村の間にある


右側にあるシステム経由で投げ銭をいただきました。テスト的に導入したので入金があるとはおもわず、お礼をどうするか、どう報告するか、ご本人にお礼を出すかなどの詳細を考えていませんでした。毎日あまりあてもなく書いているのでこうした励ましはとてもありがたいです。なお文字数に制限がありメッセージは137文字で切れるようです。いろいろ行き届かず申しわけありません。


貴乃花親方の問題を見ながら、日本の村落共同体について観察している。小さな村落の集まりである日本社会では村と村は緊張関係にある。だから、村を超えた協力は起こらないというような話になりつつある。逆に緊張関係が破られてしまい一つ強い村ができると「ガン化して暴走する」ということだ。村構造には利点もあるが欠点も多い。しかし、日本人は村に慣れ過ぎておりそれ以外の社会統治の仕組みを村統治に置き換えてしまう傾向があるようだ。

観察の過程でわかったのは、すべての問題は個人に落とし込まれるということだ。問題を指摘して改革を起こそうとした人、組織の限界を超えて成長しようとした人などはいじめられて貶められることになる。その時に問題ではなく人格が攻撃されるのが常だ。

今回は貴乃花親方問題について考えたのだが、もともとのきっかけは「日馬富士暴行問題」だった。このブログのタグは今でも日馬富士暴行問題となっている。解決されるべき問題は暴力の根絶だったのだが、いつのまにか部屋の長である親方同士の人格攻撃に矮小化されて鎮圧されてしまった。その過程で日馬富士暴行問題を起こした構造上の問題は解決されることなく、八角理事長が再選されたことで「禊がすんだ」ことになった。

だが、同じような問題はいくらでも見つかる。例えば伊調馨選手の問題は、才能があり国民栄誉賞まで取った伊調馨選手が成長を求めた結果排除されかけたという問題である。大切に扱えばまだ金メダルが取れたかもしれないという問題の他に、成果をあげたのにさらなる成長を目指した結果組織に反逆して潰されかけたということになる。このため「あの人は選手なのか」と存在を無視されかけている。この裏には至学館という村が女子レスリングを支配しているという問題があった。日本人は個人は村の限界を超えて成長してはいけないという掟の中で過ごしており、もし限界に触れてしまうと追放の憂き目にあうということである。フジテレビの取材によると練習場所を提供する大学は極めて少ないそうだが、これは栄監督ら至学館派閥が女子レスリング強化選手の許認可権を握っているので大学側が「忖度しているのだ」という観測がある。この問題がうやむやになれば、成長を目指す日本の女子レスリング選手は海外に拠点を移さざるをえないかもしれない。

またマクドナルドでwi-fiがうまく動作しない問題の裏にはフランチャイズ店と本部がお互いに問題を押し付け合ってあうという事情があった。単にwi-fiをつなぐという問題を解決しようとするとなぜかマクドナルドのフランチャイズ店が本部に不信を持っているという事情がわかってしまうのだが、wi-fiを接続するというコンビニエンスストアでもできているような簡単な問題は解決しない。これは彼らが顧客サービスなどという「どうでも良い問題」には興味がなく、普段からの人間か安慶に夢中になっているからである。

このことから森友学園問題が解決しない理由もわかる。官邸(その実態は特定の経済産業省の官僚らしいのだが)が財務省に干渉することにより内部で問題が処理できなくなった。加えて迫田さんから佐川さんへの引き継ぎが行われてしまい問題の隠蔽に失敗したのだろう。つまりこれは村を超えて起きた問題なのだと言える。問題が大きくなっても安倍官邸や財務省官房(つまり麻生大臣のことだ)は問題を他人事だと考えている。さらに本省と地方組織という問題もある。問題の全容はさっぱりわからないのだが、ニュースを追っていると「誰が悪い」という指の差し合いが始まるので有権者は組織図に詳しくなってしまう。だが組織図は問題を解決しない。安倍首相はこれを財務省が勝手に解決すべき問題だと認識しているし、自民党の議員たちも「安倍政権を変えれば自民党に実害は及ばないかもしれない」などと考える。

問題はいつも村の外にあると誰もが認識しているのだが、実は村と村の際に落ちているということになる。

相撲、女子レスリング、マクドナルドの問題は村と村の争いごとだと考えられる。日本人はそもそも村の争いが大好きなので人間関係や組織図に注目する。ここで誰もが忘れているのは「競争力の低下」という結果だ。村の中の争いに夢中になると外が見えなくなる。例えば、暴力が蔓延している相撲に弟子が集まるはずはないのだから中期的に相撲は弟子を集められなくなるだろう。レスリングは才能のある選手を潰してしまうのだから国際競争に勝てなくなるはずだ。そしてマクドナルドの客はスターバックスやコンビニのイートインスペースへと流れる。内部闘争に夢中になり個人の人格攻撃を繰り返す裏では競争力の低下が起こるということになる。絶対にそうなる稼働かはわからないのだが、どの小競り合いを見ていても競争力低下の結果であり新しい競争力低下の原因になっている。

となると森友問題も実は透明性や法治主義の問題ではないということがわかる。内部で問題が解決できない組織を放置すると国際競争力が低下するのである。多分北朝鮮問題に日本が関与できないという問題は偶然起こったことではないのではないだろうか。同時に、安倍政権を変えたところで日本の競争力は高まらないかもしれない。もちろん、放置することはできないが、かといって変えただけでも問題は解決しないだろう。

問題の原因は実は人にあるわけではなく、村と村の際にあるからだ。

日本型村落の暴走はなぜ起こるのか

泰明小学校の狂気について考えた。最初は校長先生が暴走しているのだと思っていたのだが、どうやら銀座とその公立小学校の校長がいっしょになって狂気に蝕まれているらしかった。持続可能なコミュニティには再生産機能があるのだが、銀座ではそれが失われている。しかしながら過剰な選民意識とプライドのせいでそれに気がつかないばかりか、外から見ると狂っているとしか思えない思いつきを実行に移そうとするというのがその筋書きだった。子供というのはある程度騒ぐものだが、高齢化して活気を失いつつある街はそれを「品格がない」と抑圧する。

ここに見られるのは「社会の寛容性が失われてゆく」という過程である。社会の寛容性が失われると優秀な人たちが遠ざかるというようなアメリカ型の考察(クリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求める)も成り立つのだが、銀座では子供は騒ぐことも許されずアルマーニの服をきておとなしくしていなければならないのである。こんな街でゆっくり子育てができるはずはない。街はすでに中国人観光客頼みになっており、新住民も引き付けられないとしたら衰退してゆく他に道はなさそうだ。

なぜこのようになったのだろうかと考えた。どうやらコミュニティが持っているべき機能は何なのかというアイディアを日本人が持てなくなっていることに原因がありそうだ。そこで、もともとはGHQに原因があるのではないかと思った。GHQは日本人が狂った戦争に突入する理由をヨーロッパと同じように全体主義に求めた。しかしながら核となる首謀者がいないことに戸惑う。それはあまりにも謎めいていたのでカルト宗教的な怪しさを感じ、国家神道が悪いのだろうという結論にいたる。そこで、国家神道を中心とした集団主義を破壊する中で、日本の伝統的村落が持っていた再生産機能が破壊されたという筋書きだ。

こうした村落の斬り崩しは40歳代から50歳代の親の世代から始まった。団地に住む核家族がもてはやされて、料理などの伝統は全てテレビで覚えるというのが、今の70歳代の人たちが始めたライフスタイルである。例えば我々が伝統だと思っているおせち料理もデパートのマーケティングがテレビによって流布したもので、恵方巻きとあまり変わらない程度のありがたみしかない。これが行き着いたのが「土日には私鉄に乗って公園のようにデザインされた街に出かけ、ショッピングを楽しむ」というようなライフスタイルだ。私たちはこうして「一人ひとりが自由に幸せの形を見つけるのだ」という信仰を獲得してゆく。

日本型村落について考え始めた頃は、日本型村落をかなりネガティブものだと捉えていた。これも個人主義信仰と関係がある。バブル期ごろまでに成長した人たちは多かれ少なかれ「日本型の村落と集団主義には欠陥がある」と信じており「アメリカ流の個人主義こそがかっこいい」という刷り込みを持っている。考えを進めるうちに、むしろ村落的共同体に戻るのも処方箋としてはありなのかなと思えるようになるのだが、「日本は集団主義的であり近代に目覚めるためには個人が大切」という思い込みはかなり強い。

後ろに戻るにしても前に進むにしても、私たちが本当に持っていた共同体について理解した上で、それが今後も成り立ちうるのかということを考えなければならないように思える。

さて、ここまではGHQが悪いという前提で論を進めてきたのだが、必ずしもそうとばかりは言い切れないなと思った。昔、CS放送で「腰の曲がる話」というミニ映画を見たことがある。1949年に農林省が作った映画だ。もともと医療を呪い師に頼っていた村で女の人たちが立ち上がり共同診療所を作るという話なのだが、実は農業協同組合の設立を女性に訴えるために作られた映画である。旧弊な男性たちは当初は女が仕事を放り出して住民自治に立ち上がるのはけしからんなどと考えているのだが、やがて考えを改めざるをえなくなるという筋になっている。

このことからわかるのは、GHQは国家神道体制が悪いとは考えていても、集団主義が悪いとは考えていなかったということである。むしろ、住民自治を強めて自治に参加させた方が国家に騙されることはなくなるだろうという見込みがあったように思える。そしてそれに協力した国も「個人の考えをすり合わせて」などという面倒なことはいわず、みんなが協力して力や智恵やお金を出し合えば、もっといい暮らしができますよと言っていた。

そうなると、GHQを責めるのはお門違いだなと思える。つまり、我々の祖先は村落は当たり前にあるものなのでそれがなくなるとは考えていなかった可能性が強い。都市に出かけてゆく人たちというのは例外だと考えていたか企業が新しい村落になり得ると信じたのかもしれない。そう考えると共産党と公明党がイデオロギーによる共同体を作ったことも納得ができる。彼らは大企業に守られる立場にはなく、自分たちで共同体を再創造する必要があった。そのために選んだのが日蓮やマルクスといった彼らにとっての神々なのであろう。

その一方で、自治組織として作られた集団はどれも男性中心の既得権益獲得手段に変わってしまった。女性と再生産機能が否定され「戦いと規律」によって暴走してゆくのである。このことからいくつかのことがわかる。

  • 一概に、集団主義が悪いというわけではない。
  • 集団の中には男性的機能と女性的機能があるのだが、集団が暴走する過程で女性的機能が抑圧されてゆく傾向がある。(ジェンダー論として「女性」に再生産機能を割り当てることについては異論があるかもしれない)
  • これはGHQのような外からの圧力の結果として生じているのではなく、我々の社会に内蔵されているようだ。
  • こうした、コミュニティに対するある種の欠落はいわゆる左翼と呼ばれる人たちには顕著に見られる。「個人が大切」と考えるあまり、いつまでたっても考えがまとまらず、自民党に変わり得る勢力が作れない。

この欠落は保守の人たちの中に顕著に見られる。彼らは口では個は集団に尽くすべきと言っているが、実は搾取のために集団を利用しているに過ぎない。日本型村落に戻ろうと考えた時一番障害になるのが集団への回帰を求める保守の人たちだ。彼らのなかには、過剰な自己防衛本能と他人への懐疑心に苛まれた「自裁信仰」の持ち主か、安倍首相のように自分の家族の利益のためには他人を利用しても構わないという利己主義者しかいない。そもそも我々がどのようなコミュティを形成していたのかということには興味がなく、戦時下ででっち上げられた国民を戦争に動員するためのカルト的な物語を持ち出して「これが伝統である」と騒ぎ立てるばかりである。

当初このブログを始めた時には「社会が再び成長するためにはどうしたらいいのか」ということを考えるはずだった。しかし気がついてみると我々の社会は成長どころか現状維持すら怪しい状態いあるようだ。ここから抜け出すためには、私たちがどのような集団を形成していて、どこに向かいつつあるのかということをもう一度冷静に考えなければならないのではないかと思う。日本人が「居心地の良い空間で次世代をはぐくみ育てること」をこんなに軽視する理由がわからないからである。

日本の村落構造に関する一応のまとめ

これまで日本の村落構造について書いてきた。最初にこのタグがあらわれるのは2017年12月なのだが、ページビューを稼ぐために時事ネタを含めこともあり

かなり複雑化している。本人も何を書いたのかわからなくなっているので、過去に考えたことをまとめた。

そもそも村落とは何で村落の何が問題なのか

日本人は社会を村落として理解している。村落は空間的に閉じられた自明の空間であり、村人は個人ではなく集団で利益の獲得を目指す。村落構造では序列がはっきりしないので、常に影響力を誇示するための競争と緊張関係がある。

実は村落構造で序列がはっきりしない理油は書いていなかった。後述するように日本人は個人を嫌うので強いリーダーシップを持った指導者が出てこない。このため中心が空白になり、そのために権力抗争が横行すると考えられる。これは中空理論として知られており、ロラン・バルトと河合隼雄がそれぞれ別に考察しているとのことである。

村落のメリットはその中に安住していれば経済的な見通しが立ち安心感が得られるというものである。この安心感は代えがたい。村を出た人がこれを再構築することは難しいほどだ。

村落の欠点は変化に耐えられないということである。村落が外部からの変化にさらされて経年劣化を起こすと村人に利益を分配できなくなりいろいろな問題が起こる(貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題)ことがある。さらに村落を出てしまった人のマインドが変わらないと村落で得られていた安心感が得られなくなり、個人が言葉では表現できない不安に直面することもある。

この安心感が得られないことは日本人にとって問題が大きいのだが、この問題もあまり中心課題としては触れてこなかった。もともと全く意思疎通が不可能な他者や急激な変化に対応してこなかったため、日本人はリスクを極端に嫌う。不確実性を避ける傾向はG.ホフステードによって観察されている。しかしながら、どうしてもリスクを受け入れなければならなくなると、今度は「安全神話」を作ってリスクについて考えなくなってしまう。日本人が美しい山や川の代わりに作る理論は多かれ少なかれ安全神話を含んで硬直化する。

もう一つのデメリットは個人のなさである。村落で個人が立ち現れるのは村八分にされた時(貴乃花親方事件小室哲哉不倫報道問題)だけである。つまり、個人というのは罰なのである。個人の意見が取り入れられることはなく、社会的な制裁の対象になる。今回の考察の中ではこの個人のなさを問題視している。なぜならば西部邁の自裁権問題で考えたように個人で考えることは創造性の第一歩になっているので、個人がいないということは社会から創造性が奪われるということを意味するからである。さらに、社会を作るための起点も個人なので、個人が意見を持たないということは社会が作られないことを意味するからである。

最後のデメリットは権力構造が安定しないために起こる恒常的な闘争だ。最近では「マウンティング」と呼ばれることも多く、窮屈な人間関係やいじめの原因になっている。

村落とマウンティング

村落内部の序列は意思決定に関わる声の大きさで決まる。そして序列を決めるのは当人同士ではなく周囲で見ている人たちである。このため村人は当事者同士だけではなく他の村人からどう見えているのかということをいつも意識している。こうしたことが起こるのは村にリーダーがいないからである。例えば、クラスでいじめが横行するのは強い規範意識でクラスを引っ張るほどのリーダーシップがある生徒がいないか、先生が監視者・仲裁者としての役割を果たさないからなのだ。

ときには、村人に自分の影響力を誇示するために合理的ではない要求を出して人々を罰したりすることがある。これを序列構造の下方から見たのがいじめである。こうしたいじめは例えば主婦や学生の間でも恒常的に行われている本質的な行為だし、職場では権能を利用したセクハラやパワハラがなくならない。現在ではこれを「マウンティング」と呼ぶことがある。学校は学問を教える場ではなくいじめを通じたマウンティングを学ぶ場所になっている。(いじめをなくすにはどうしたらいいか)いじめをなくすためにはこうしたマウンティング構造そのものを解体する必要がある。

しかし、はあちゅうさんの童貞いじりで見たように村落構造もその行為の意味も当事者には意識されないので、日本人はそこから抜け出すことが本質的にできない。はあちゅうさんは女性としてこうしたマウンティング社会の被害者だといいつつ、一方では性的魅力や経験に欠ける男性をいじめていたのだが、それを意識して同じ問題であると捉えることはできなかった。いじめの構造は社会を勝ち抜いてきたはあちゅうさんの中に完全に内在化されていたのである。

言語化して意識されないならいじめをなくすためには社会構造そのものを解体するしかない。つまり、パワハラをなくすためには会社を解体しなければならず、クラスのいじめをなくすためにはクラスそのものをなくさなければならないということになる。

新しい村落の構築

村落は所与のものであり、日本人は価値を提示して新しい社会集団を作ってこなかった。そもそも個人がないので新しい価値観が提示できない。つまり、村落の価値観や安心感の源は言語化されない。

安心感を無理に作ろうとすると原理主義的な極端な物語が生まれる可能性がある。不確実性を無視した物語を作ろうとするからだ。さらに、物語は自分の中から生まれてきたものではなく、貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題で見たように過去の主張から大きな物語を作るか、創価学会と共産党で見たように外国の先端の思想から表面的な部分だけを持ってきて自分たちの物語に付け加えることになるからだ。

もちろん物語の構築にはメリットもある。例えば個人が好き勝手に解釈すればいいのでコンフリクトが表面化しない。さらに矛盾したものを糊のように含むこともできる。例えば、憲法改正議論で見たようにアメリカへの軍事的依存を前提としつつも自分たちで憲法を書き換えたから独立国であるということも言えてしまうのである。つまり、全く同じ内容をコピーして書いたとしても「アメリカに言われて書いたのと自分で書いたのでは違う文章だ」といえてしまう。

一方で、本質的な理解を伴わないので村人の理解を伴わない。だから複雑な問題を扱えないという問題も抱えている。安全神話によって物語を構築してしまうと、扱えない問題を全て排除しなければならない。現在の日本には安全保障問題だけを見ても「日本は神の国だから絶対に勝てる」「憲法第9条があるから外国は攻めてこない」「アメリカが背後にいるから中国には絶対に負けない」という三つの安全神話がある。これは、北朝鮮が「核兵器さえ持てばもう安心」だと思うのに似ている。「地震の可能性を排除してしまえば原発事故は絶対に起きない」と考えるのにも似ている。また安倍首相が「アンダーコントロールだ」と宣言したから福島の廃炉作業がうまく行かなくても特に気にならない。日本人は福島の事故からは何も学ばなかったが、これは私たちが持っている基本的なリスク対処方法だからである。

仮説を先に立ててしまい現実をそこに合わせようとするのだから現実にうまく対応できない場合がある。例えば、他者との区別のために「自分たちで決める」ということを優先すると、自分たちだけが決められるのは結局滅びることだけなので、三島事件および西部邁と自裁権利で見たように急速な崩壊に向けた欲求が現れることにもなりかねない。

議論の関心と焦点

村落でそもそも所与のものである環境と利益分配構造が関心を集めることはない。しかし、議論のオブジェクティブ(対象物)は環境の規定と利益の確保と分配なのだから意識にずれが起こる場合がある。意識がずれると当事者同士が何を話し合っているのかということがわからなくなり、他者からも理解されないので議論がますます錯綜する。

例えば、議論が村落的なマウンティングに使われることがある。つまり吉田茂と岸信介の憲法議論TPP論争で見たように「自分たちは聞いていないからそれには反対だ」などと言い出すのだ。しかし、こうした論争も対象物に対する議論を偽装するのでますます本質がわからくなる。

日韓の慰安婦問題とアメリカの存在で見たように、村落の争いは実は当事者に向けて行われているのではなく村の衆に向けて行われていることもある。()こうした村落的議論は村ではなく例えば国際的コミュニティでも行われることがある。そのため、何について争っているのかよくわからないことがある。

落とし所のない議論の中には議論の本当の関心と対象物の間にずれがあることがある場合が多い。

集団と個人

価値観による社会統合ができない日本人には損得勘定をめぐる集団しか作れないのだが、利益追求は集団を通じて行われる。利益追求は時間的空間的に個人が得られる利益を最大限にしようということになる。これが崩れると組織の統制がとれなくなる。利益還元には時間的に幅があるので変化に耐えられない(貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題)のだ。また、利害に関係がないとなると、集団に関心を寄せなくなる。するとプロジェクトから人が逃げ出すか(東京オリンピック豊洲移転問題)冷笑とバッシングが起こる(荒れるTwitter)ことになり議論がますます起こりにくくなる。もともと議論の目的が問題解決ではなくマウンティングと利益確保だからである。

日本人は集団を通じた利己主義によって組織統制を行っているのに、利己主義が非難されるのは、集団が経年劣化すると集団を通じた利益追求ができなくなり誰かを犠牲にしなければ存続できなくなるからだ。

村落のガバナンスを取り戻すためにはガバナンスができるように集団を縮小して利害関係を単純化するか、個人が価値観をすり合わせて集団を作る「社会」へと移行しななければならない。このときに硬直的な原理を取り入れてその場しのぎの対応をすると変化への対応はますます難しくなり場合によっては集団が破綻することがある。

出口の一つは個人が価値観を言語化して集団で共有することだが、日本人は本質的に個人を社会に向けて打ち出すことを嫌う。

例えば、日本人は社会の一員になるときに個人を捨てなければならない。Twitterを匿名化するか一切の政治的な意見をつぶやかないようにするというのが普通だ。このため日本人は表に出る人に対する潜在的な恨みを持っている。

経済的に利益をもたらしてくれる間はちやほやするが、一旦気に入らないことがあると集団で圧力をかけて社会的に葬るか潰してしまう(小室哲哉の不倫騒動)ことになる。またテレビでもいじめがエンターティンメントの一部になっており(浜田雅功の黒人フェイス問題ベッキーの不倫いじり問題)こうした集団的な圧力には商品的な価値がある。日本は集団に同化して言葉を失った代わりに集団で無言の圧力をかけて個人を潰してしまう。

すると、個人が村落構造を変えるための議論ができなくなり、村民はますます不安にさらされることになる。不安の正体は先行きが見えないことではなく不安を言語化して客観的に捉えることができないという点にある。

国体議論と憲法議論はなぜ不毛になるのか

前回は、日本人がマルクス・日蓮・立憲主義・憲法第9条がどれもお経のように捉えているというような話を書き、その中に国体主義を入れた。つまり、国体もお経のようなものなのではないかということである。

今回は国体について扱う。燃えやすいテーマなのでいったん読むのをやめて「自分が思う理想の国」について考えていただきたい。

先に「私が思う国の形」について考えたい。それは、自分たちの運命を自分で決めながらそれぞれが考える理想の形で「まだ見えていない可能性」を追求できる社会だ。まだ見えていない可能性を成長と呼ぶと、もし成長にとって必要だと考えれば社会を作れば良いし、いったん作ったなら他人の成長も巻き込んでいるのだから、それに責任を持つべきである。もちろん、これに賛同していただかなくても、以降の読み物は読むことができる。

国体主義はこの中では唯一の日本独自の概念であり英語のウィキペディアでもkokutaiという項目が設けられている。いろいろな概念が誤解されるのはそれが輸入概念だからなのだが、国体は日本独自の概念であり、解される可能性などないのではないかと思える。元をたどれば古事記や日本書紀のような伝統的な書物にまで遡ることができる古い概念だ。

ところが、古事記も日本書紀も天皇家の正当性を主張するために作られた物語であり、真実をベースにしているのかもしれないがいわばフィクションである。そして、国民すべてが合意するような「国体論」は未だに存在せず、それどころかほとんどの国民は国体には興味がない。国柄などということを考えなくても日本という島の形があり日本語という言葉があるからだ。

そもそも、古事記や日本書紀も、中国語で書かれているのだから中国を念頭に書かれているのかもしれない。もし、文字を持たない日本人を説得するとしたら、それは口伝だったはずだ。現に古事記は歴史をすべて丸暗記していた人からの聞き書の形になっている。当時はかなり長い文章か膨大な伝承をそのまま暗記することができる人がいたのだろう。国を発展させるためには庶民にも文字を教えるべきだなどと考えた人はいなかった。仏教の布教も口伝やきらびやかな仏像を通じて行われた。「お経みたい」というのは、つまり何が書いてあるかわからないがとにかくありがたいということの例えであり、つまり意味がわかっていない人たちから見た仏教の感想である。

明治時代になって国の統治システムを国体と呼ぶようになると、国柄についての議論が始まる’。アメリカに渡った人たちは、アメリカ人が「アメリカの基本は民主主義だ」と明快に理解していることに驚いたのではないだろうか。そこで「日本の統治システムとは何だろうか」ということを考えてみたものの答えられる人は誰もいなかった。考えたことがないのだから答えられなくても当たり前だがm問題は実はそのあとだ。どれだけ考えてもみんなが納得する答えが見つからなかったのである。

明治維新体制は天皇を中心とした国家だ。だから天皇という存在をを動かせないという制約があったがそれでもまとまらなかった。

さらに不幸なことに「国家体制」の議論は政局的に利用されることになりついには言論を萎縮させる事件が起こる。有名なのは昭和10年(1935年)に起きた「天皇機関説事件」だ。ある貴族院議員が美濃部達吉貴族院議員を攻撃した。美濃部は起訴猶予処分になったが貴族院議員を辞任せざるをえなくなる。「右翼に気に入らないことを言ったら逮捕され投獄されるかもしれない」のだから議論が活発に行われるはずもない。さらに日本は経済的に行き詰まり、その打開策として中国に進出するのだが、今度は軍事的に膠着し、最後にはアメリカと対立して破綻してしまう。

そんな中で国体は議論されなくなり、代わりに日本は天皇というお父さんを中心にした仲良し家族なのだということなったのだが、実際の「お父さん」とその取り巻きたちは多くの兵士を餓死させ最後には沖縄を犠牲にして自分たちだけは生き残ろうとした。もし日本が家族だとしたら、とんだ暴力一家である。

最終的に国体は国民を追い詰めたということになり、議論そのものが行われなくなって現在に至る。

戦後の新しい国体議論に進む前に、こんなストーリーはどうだろうか。

ある狭い村に住んでいた人たちが三人平原に連れてこられた。村の狭さにうんざりしていた彼らが「土地をあげるから好きな国を作って良いですよ」と言われた。一人ひとりは理想を追求することができるのだろうが、それでは社会にはならない。そこで話しあいを始めるのだが制約事項が何もないので何も決められない。そうこうしているうちに「なんでも決められる」ことに不安を覚えて取っ組み合いの喧嘩を始めるのである。

現在の国体論は憲法議論の形で行われている。安倍首相は「国のかたち、理想の姿を語るのが憲法」と言っているのはその影響だろう。ただし、その議論に影響力を行使できないことがわかっている野党側は「為政者を縛るのが憲法であり、安倍首相とは憲法観が違うから話し合いすらできない」と譲らない。

もともと安倍首相が憲法を改正したいのはおじいさんの影響だと言われている。ではおじいさんである岸信介はどうして憲法を改正したかったのだろうか。よくわからないののだが、いくつか断片的な話を総合すると以下のようになる。

  • 日米の集団的自衛体制を固定化したかった。
  • 吉田茂らの一派が、岸ら公職追放組がいない間に憲法を決めてしまったのがおもしろくなかった。

つまり、岸信介は「アメリカに基地を貸して、代わりに守ってもらっている」ことを前提に「日本がアメリカに従属しているから」ではなく、「これは集団的自衛でありアメリカに協力してやっているのだ」という理想形を作りたかったのだろう。安保の交渉を見てもそれは間違いがなさそうだ。

しかし一方で、自分がかかわらなかったうちに吉田茂一派が「勝手に」妥協の産物として日本は軍隊を持たずにアメリカに守ってもらっているという体制を憲法として固定化してしまったのが面白くなかったということも言える。「聞いてないよ」というわけだ。

つまり「俺たちがいない間い勝手に決めたからくだらないに決まっている」と言っているだけだと言える。もともとは安倍さんのおじいさんと麻生さんのおじいさん(しかも揃って外孫)の内輪揉めなのだが、それに加わったのが安保反対運動を聞き入れられず、ベトナム戦争も止められなかった左派である。左派に「戦争反対とは何に反対しているのか」と聞いても明確な答えはない。しかし、多分彼らが考えている戦争は第二次世界大戦にベトナム戦争が混ざった戦争なのではないだろうか。

つまり、ここに参加している人たちが言っているのは「決めるときに俺は意見を聞いてもらえなかった」と言っていることになる。これが現代の国体議論である憲法改正議論の正体だ。

つねづね、ネトウヨの人たちは現在のアメリカは大好きなのに、なぜGHQを嫌うのだろうかと思っていたのだが、実はアメリカが二つあるのではないということがよくわかる。つまり「吉田茂が対応したアメリカ」と「俺たちが話をしているアメリカ」があるのだ。これは民主党がやろうとしたTPPと自民党が実際に交渉したTPPが別物だと認識されているのと同じことだ。

もちろん、岸信介の論にも理解できる点はある。現在の体制は世界第3位の経済大国が軍事的にはアメリカに従属しているというのは極めて不自然である。これを対等な軍事同盟にすれば少なくとも形の上では日本は独立国としての体裁を取ることができる。気持ちは違ってくるだろうし、国や社会に対する責任感も生まれるかもしれない。

岸信介にとって不幸だったのは、多分娘が自分の心情をよく理解せず、さらに孫が凡庸(あるいはそれ以下)な人だったことなのだろう。安倍首相は岸信介が憲法改正をしたかったことは知っているし、憲法調査会を作っていたことも知っているようだ。しかし、岸信介が何をやりたかったのかはよくわかっていないようである。

もし仮に「主権国として対等にアメリカと関わることができるようになりたい」というおじいさんの理想を実現するのなら、沖縄で基地問題が起きたときには抗議をするだろうし、北朝鮮問題についても主体的に責任をとって関わろうとするだろう。しかし安倍首相はアメリカの庇護下にあるという状態を楽しんでいるようにさえ思える。さらに自分の政権を維持するためにはアメリカとの親密さが重要だということを理解しているので、決して機嫌をそこねるようなことを言おうとはしない。つまり、従属国の首相であるということを完全に内面下してしまっている。これは多分岸首相が恐れた「堕落した従属国の総理大臣」の姿だろう。

安倍首相は国防に関わることについては一切国会答弁しない。「相手の出方があるので手の内はあかせない」と言っている。実際には日本には軍事的自由がないので「自分たちにはわからないし決められない」ということなのだが、裏を返せば何か問題があったときに国民は「アメリカが勝手にやったことだし」「知らなかったから責任は取れない」と言って良いことになる。これは戦前の陸軍と国民の関係にそっくりである。

こうしたことがいっし問題にならないのは実は憲法や国体の議論が「理想の追求」ではなく単に「プロセス論」に過ぎないからである。つまり、自分たちが決められばなんでもよいわけだし、そもそもそこにすでに国と固有の言語を持った人たちがいるわけだから多くの人は関心すら寄せないのである。

多分、これだけを専門に研究している人から見ると暴論と言えるまとめ方だが、国柄と憲法の議論はいわば壮大な内輪揉めの歴史で、基本的には「俺は聞いていないから気に入らない」という性質のものである。

常に言葉も通じない他者に囲まれて彼らが地平線の彼方からいつ攻めてくるかわからないという状態になればそれなりに「あの人たちを違っている我々とは一体何なのだろうか」ということを考えるのだろうが、日本人にはその必要がなかったということなのかもしれない。

実際には自分たちが行き詰まるかもしれないという不安感を社会に投影している人も多い。つまり「このままでは没落してしまうかもしれない」と不安に考えている人も多いわけで、自分たちのあり方について考えることができないということには実害がある。こうした不安を抱えている人たちの心情を察せず「聞いていないから気に入らない」というような議論を繰り広げているのが、今の政治なのである。

日本人は安心感をどうやって村落の外に持ち出したのか

聞くとはなく国会の代表質問を聞いていた。既にTwitterなどでご存知の方も多いとは思うのだが、安倍首相にはやる気が感じられず全ての答弁においてコピペ原稿を使い回していた。安倍首相は体調がすぐれないのか声の調子が悪く、ときどき水を飲むために答弁(というより官僚作文の朗読)が止まった。これだけを見ると、三選を目指す総裁候補とは思えなかった。

しかし、今回の話は安倍首相のやる気のなさとは全く関係がない。日本人が宗教を村落からどのように外に持ち出したのかというのがテーマである。

この筋を思いつくまで公明党と共産党という真逆に見える政党の類似点について書くつもりだった。この類似点は「宗教」である。彼らの信奉する宗教は村落的なコミュニティを外に持ち出して人工的に再構成するために利用されているようだが、不完全さを含んでいる。その不完全が何なのかというのが今回のテーマだ。

公明党と共産党はどちらも固定的な支持者を抱える政党なのだがその世界認識は真逆である

公明党は自分たちの支持者である信者に説明ができるようによく組み上げられた演説(質問の形をしているのだが実質的には演説だった)をしていた。創価学会には多分「人間は大切」という基本理念がありそれを発展させる形で様々な政策プランが提案されているのである。

公明党の特徴はプランの名前にありがたみのあるカタカナの名前が使われていることだった。これは既存の宗教に戦後流の科学的なコーティングをまぶした砂糖菓子のように見える。仏教はその普及過程で「難しい言葉を理解できなくてもこのお経さえ唱えれば極楽に行けますよ」という約束として理解されるようになるのだが、公明党のカタカナは現代のお経のように機能しているのだと思った。例えていえば、医学書を読んで聞かせれば癌が治療できるというようなものなのだろう。

一方で、共産党側は「とにかく全てがうまくいっていない」ということを言っている。彼らもまた自分たちの信じる宗教理念が掲げられさえすればたちどころに全てがうまく行くと信者に説明しているのだろう。全てを読み終わったあとで小池晃議員が仲間の議員たちと「言ってやったぜ」というように笑顔をかわすのが印象的だった。もちろん、彼らの経典というのはマルクス経である。イギリスで作られた科学的な思考は海を越えて宗教になったのだ。

この二つの全く異なった世界観について安倍首相は同じような原稿を読んで応えていた。「公明党のご協力で作られたプランを力強く推進する」し「共産党の言っていることは言いがかりだ」という二つのことしか言っておらず、その間を官僚がコピペされた文章で埋めてゆくという調子である。質疑という形を取っていながら質問も答えもない。そこに広がっていたのは全く無意味な言論空間だった。応酬も新しい情報もないのだから、報道は「言い間違い」と「ヤジ」にならざるをえないのだ。

自民党にはこうした宗教的な感覚はない。多分、自民党が村落を離れなかった人たちの集まりだからなのだろう。彼らはコミュニティを再構成する必要がなかったので宗教的なスローガンを必要としなかったと言える。一応、スローガンは使っていたが要するに「地方の中小企業に金を回せ」とか「地方の観光をもっと盛んにしろ」とか「高速道路を作れ」というような主張のために利用しているだけである。こう考えると自民党の作った憲法草案が「ああ、山が美しく四季が心地よいなあ」というものになってしまうのは当たり前である。自民党には政治的な理念はないが、美しい山ときれいな海に囲まれてさえいれば、そもそも理念など必要がないのである。

公明党は農村から都市部にでてきた人たちが作った宗教結社がその出発点になっている。共産党も都市労働者が作り上げた政党である。つまり、彼らには頼るべき農村コミュニティがなく、新しい理念を掲げなければならなかった。その時の最先端のコンセプトを利用しながらそれをご本尊にするというのが共通したやり方である。そして、いったんコンセプトができてしまうとそれを変えることができない。理解していないのだから変えようがないのは当たり前である。

これを他の政党に当てはめることができるかというのが次の課題になる。簡単に想起できるのが護憲経である。これは憲法第9条がご本尊になっている。憲法第9条を北朝鮮にかざせばたちどころに核兵器が退散するという宗教だ。ところが、この宗教はある悲劇に見舞われている。

福島瑞穂議員は安倍首相に「社会民主主義を信じれば救われる」というようなことを主張してスルーされていた。彼らは社会党から社民党になる過程で教義の変更を行おうとしたが、それを信者に浸透することができなかったのだろう。信者たちはもっとプリミティブな形で護憲を理解しているのではないかと思える。その意味では社会党から派生した宗教は術で中途半端に展開している。いわゆる立憲主義というのは少なくとも大衆理解の段階では「平和憲法さえ掲げれば全ての問題はなくなる」という宗教理念なのだが、立憲民主党の人たちの言っていることは「難しすぎる」ということになる。立憲民主党が宗教政党として成立するとすれば「憲法は安倍首相の魔の手から国民を守る護符であり決して手放してはならない」と言い続けなければならないのではないだろうか。

普通に考えると民主主義社会が成立するためには、国民がなんらかの政治的理念を理解した上で政策を支持する必要がある。しかしながら、つぶさに見てゆくと日本の政党の支持者たちが政治的な理念を理解した上で政党を支持しているとは思えない。むしろ、昔から知っているお家の坊ちゃんであるという安心感から政治家を支えていたり、何かありがたいものを掲げることで「全てが丸くおさまる」と考え違っているように思える。このため、教義は更新されず、更新されないから共有することもできなければ折り合うこともできないということになるだろう。

さて、これまでにでてきた仮説は次のようなものである。

  • 日本人は所与の村落を再構成する過程で、美しい山並みや浜辺の代わりに、なんらかの宗教的な教義を必要とする。村落を出ない人たちにはこのような教義は必要とされない。つまり、宗教的教義は狭く閉ざされた環境の代替物である。
  • 宗教的な教義はその時点で最先端の優れたものを取り入れてありがたみをます。そのありがたみは実は何でもよい。もしキラキラ輝くガラスのコカコーラの瓶が最先端であれば、コーラ教ができていただろう。
  • 日本人は教義の本質を理解することはないので教義が更新されることはない。

こうした「村落の再構成」はいろいろなことに見られる。例えば日本相撲協会の内実は単なる体育会系の暴力集団だが環境が変化することでマネジメントが破綻しつつある。それを再構成しようとする時に決して本質的にどうマネージするかということが語られることはなく、代わりに「日本は神の国であり、相撲は国体を支える儀式なり」というような教義が利用される。

これを自民党を支える新たな村落に当てはめてみたい。それは「国体教」である。日本は世界に類のない神の国であり、荒ぶる神によって守護されているという宗教だ。このように宗教的な教義で包むことにより「自主憲法を作ってアメリカの占領体制から抜け出したい」という願いと「アメリカの依存して中国を圧倒したい」という願いが矛盾することなく折り合うことになる。宗教は論理的に矛盾したものを包んで一つのパッケージにする力があるようで、これが都市や地方に住んでおりお互いに連帯する要素が何もない人たちを惹きつける。我々はこの一群の人たちをネトウヨと呼んでいるのかもしれない。

これは比較的新しくできた教義なので今のところ矛盾をすることはない。しかし、アメリカの勢力は衰退し始めていて、やがて現実と合わなくなる可能性がある。つまり、ネトウヨの信じる宗教もいずれは、マルクス経のような運命を辿ることになるのではないだろうか。

社会的劣等機能の発露としてのTwitter

先日西部邁さんについて書いた。いろいろと曲がりくねって書いたのだが、最終的には自決権(ご本人は自裁権と言っているそうだ)というのは考えようによっては、創造性をなくし自滅の道に進むのではないかというような筋になった。保守は日本人の美点を見つめるのと同時にその欠点をも無自覚のうちに内包してしまい、これが破滅への指向性になりえるのではないかと考えたわけだ。

保守の欠点は明らかだ。彼らは「不確実性」が取り扱えないのである。西部さんの著作は読んだことがないので詳しいことはわからないのだが、バブル期の「朝まで生テレビ!」が殴り合いに近い言論を繰り返していたことからみると、協力して不安やリスクというものを分担しあうのが苦手なのだと思える。リスクを計算して分散したり出方がわからない人たちと対話するのが苦手なのである。

こうした指向性がどこから出てくるのかはわからないのだが、彼らが西洋流の左翼思想をキリスト教の伝統なしに理解し後にそれを保守に取り入れたからなのかもしれない。もともと日本人は神道の伝統と中国的な思想を通して「曖昧さ」を理解していたはずだ。しかし、なぜだか戦後の保守思想は一神教的を偽装した何か別のものに変容してしまう。

一神教の概念はいまでは「国体」という絶対神への帰依として理解されている。これはかなり一般的に浸透しているようだ。先日、Twitterで軍事や憲法第9条について考えている専門家に「自衛隊は国民を守っているわけではない」と突っかかっている人を見かけた。この人は明らかに日本を日本人の総体とは考えていない。つまり日本国ー国民=何者かが残ると考えているのだろう。

もともとの日本の神道が教義を持たないことを考えるとそれはかなり奇妙な転向である。もちろん個人で見ると保守論壇にも曖昧さを理解できる人たちはいるのだろうが、少なくとも集団としての彼らは他者が理解できないだけでなく、日本が本来持っていた曖昧さすらできなくなっているように思える。そして、それが絶対的な教義を生み出している。

日本の神道が教義を必要としていなかったのは、人間が理解できないものへの畏れを主に実践を通して示していたからなのだろう。今のように「国体」という教義を使って他人を恫喝したり従わせようとするのは少なくとも伝統的な神道ではないように思える。

さて、ブログをお送りする側としてはそこで「人間は全てを見透せるわけではなく、だからこそいつも可能性が残されているのである」というようなことが言いたかった。創造性の源としても不確実性は重要である。例えば、政策議論としては「やはり文系の学問も大切だ」というような結論に誘導されるだろう。

ところが、どうもそう受け取った人たちばかりではなかったようだ。中には「本当にそんな気がする」という感想を書いてこられた人もいたし、Twitterでも「言語化してもらってありがたいが不安が増した」などという人がいた。「日本は確実によくない方向に向かっている」という印象があるのかもしれない。

このブログは当初「創造性」を扱っていた。第一次安倍政権が倒れた頃には、日本にもアメリカに倣ってイノベーションを起こすべきだなどという機運があったからである。特にシリコンバレー風のイノベーションセオリーやユングについて扱っていた。

例えば「イノベーションの達人」のようにイノベーションを起こすためにはどのようなチームを作るべきかとか、ミンツバーグの「戦略サファリ」のように成功する戦略には決まり切った形があるわけではないというような本を読んだりしていたのだ。

さらに心理学の中にも「人間には扱いかねるような危険な創造性」があり、それを磨いてゆくことでそれぞれの人の「私らしさ」を追求して行くことができると考えている人もいる。ユングのタイプ論の要点は「表に出ていない」危うさをどう成長に結びつけて行くことができるかということを研究している。

しかしながら、こうした記事が読まれることはあまりなかった。日本人は手っ取り早く成功事例を取り入れたいと思うのだろう。成功者の話は読みたがるがその背景にある理論などには無関心だ。

そうこうしているうちに政治について扱うようになった。東日本大震災の不安もあって民主党政権が挫折し、リベラルな風土に根ざしたアメリカ流のイノベーションもリーマンショックとともに流されてしまったという扱いきれない不確実性が波状的に襲ってきていた時代である。

現在はあまりにも大きかった不確実性にうまく向き合えないという時代だ。日本では「自分たちでも改革ができる」と主張していた民主党が「失敗」したし、アメリカでも「Yes, We Can」と人々を鼓舞していたオバマ大統領が否定されてトランプ大統領による「Make America Great Again」が支持を集めている。

保守と呼ばれる人たちは「不確実性などなかった」と考え、自分たちが理解できる価値体系に戻ることができれば全ての問題はたちどころに解決すると考えている。しかし、それ以外の人たちも漠然としていて言語化されていない不安を持っていると同時に「もう社会としては成長などできるはずがない」という確信を持っているようである。

問題さえ見えてくればあとは克服する方法を考えればよいだけなのだが、どうもそうは思えないという人が少なからずいるということになる。むしろ、問題そのものを見てそれに圧倒されているというのが現状なのかもしれない。

ユングは個人の問題としての劣等機能に着目したのだが、社会や集団にも劣等機能があるということになる。不確実さを扱えないことだと規定したのだが、直線的で分析的なものの見方が得意な社会であり、不定形で感覚的なものを扱えないということなのではないかと思う。これについても引き続き考えて行きたい。

二重人格社会 – 小室哲哉は誰に「殺された」のか

ここのところ村落社会について考えている。村落社会、インテリの部族社会と考えてきて、最近考えているのは二重人格社会である。しかし、それだけでは興味を引きそうにないので最近のニュースを絡めて考えたい。考えるのは「アーティストとしての小室哲哉は誰に殺されたのか」という問題である。

今回の<事件>のあらましをまとめると次のようになる。一般には介護へのサポートがなかったことが問題視されているようである。

小室哲哉は往年のスター作曲家・アーティストだ。過去に著作権の問題で事件を起こしその後で奥さんが病気で倒れるという経験をした。職業的には周囲の支えもあり音楽家として再出発したのだが、私生活問題である介護で抑鬱状態に追い込まれたところを週刊誌の不倫報道に見舞われ、ついに心理的に折れてしまった。小室さんは病気の妻を抱えており今後の生活の不安もあるが、今は何も考えられないほど追い込まれている。

周囲から援助されない天才職人の悲劇

この問題についての一番の違和感は、ワイドショーがこれを小室さんの私生活の問題だと捉えていたことだった。アーティストが健全な創作活動をするときに私生活が健全なのは当たり前なのだから、プライベートも仕事の一部である。さらに付け加えれば、普通のサラリーマンであっても健全な私生活があってはじめて充実した仕事ができるのだから「ワークライフバランス」は重要なテーマであるべきだろう。

だが、日本ではサラリーマンは会社が使い倒すのが当たり前で、私生活は「勝手に管理しれくれればいい」と考えるのが一般的である。小室さんの私生活が創作活動と切り離される裏には、こうした日本のブラックな職業観があるように思える。

一時間の会見のを聞く限りでは、ビジネスとしてお金になる音楽家の小室さんに期待する人は多いが、小室さん一家の私生活をケアする友人は誰一人としておらず心理的にパニックに近い状態に陥っているようだということだ。つまり、小室さんは「金のなる木」としては期待されていたが、彼の私生活を省みる人はそれほど多くなかったことになる。

過去に小室さんは、著作隣接県を売渡すことで資金を得ようとしたのだがそれがなぜだったのかということは語られない。もともと電子音楽はいくらでもお金がかかるジャンルなので職人としての小室さんは、良い機材を買ったりスタジオを建てたりしたかった可能性もあるのではないか。継続的な創作活動を行って欲しければ、誰かがこれを止めてやるか管理してやるべきだったのだが、逆に「権利を売り払えばお金になりますよ」と吹き込んだ人がいるのだろう。権利のほうがお金になるということを知っている「裏方」の人がいたのだ。

さらにこうした「裏方」の中には、小室さんを働かせればお金になるし、権利は後から取り上げてしまえばいいと考えていた人たちもいるかもしれない。小室さんは「金のなる木」として期待はされていたが、継続的に音楽活動をするために援助してやるプロデューサ的な人には恵まれなかったということになる。逆に彼が生み出す価値をどうやって搾取しようかという人が群がっていた可能性もある。アーティストは金のたまごをうむガチョウのようなもので、卵が産めなくなれば絞めてしまっても構わないということである。

本来ならこの辺りの事情を合わせて伝えるのがジャーナリストの役割だろうが、そもそも日本にはそのような問題意識すらない。

表に出る人の不幸が商品になる社会

一方、不倫記事が売れる背景についても考えてみたい。つまり「ジャーナリスト様」は何をやっていたのかということだ。

文春はなぜ芸能人の不倫疑惑にこれほど強い関心を持つのだろうか。それは「表向きは立派に見える人でも裏では好き勝手にやっているのだ」と考えたい読者が多いからだろう。華やかな人たちが欲望をむき出しにする姿を見て「ああ、あの人も好き勝手やっているのだから、私も好きにやっていいんだ」と思いたい人が多いのではないかと思う。不倫は個人が持つ欲望の象徴と考えられているのかもしれない。

社会が創造的であるためにいかにあるべきなのかということを考える人は誰もいないが、沈黙する人たちの欲望を満たして金をもらいたいという人はたくさんいる。

有名人がバッシングの対象になる裏には「個人が組織や社会の一部として抑圧されている」という事情があるのではないだろうか。日本人は学生の間は個人の資格で情報発信してもよいし好きな格好をしても良い。しかし、就職をきっかけに個人での情報発信は禁止され服装の自由さも失う。これを「安定の代償」として受け入れるのが良識のある日本人の姿である。その裏には「表に出る人は極めて稀な才能に恵まれた例外である」という了解がある。自分は特別ではないから諦めよう、ただし特別な人たちが少しでも変な動きをしたらただでは置かないと考えている人が多いのだと思う。

これが政治家や芸能人へのバッシングが時に社会的生命を奪うほど過剰なものになる理由ではないだろうか。だからこそ不倫や政治家の不正を扱う週刊誌は売れるのだ。

二重人格社会

Twitter上では週刊文春に対するバッシングの声で溢れており週刊誌を買っている人など誰もいないのではないかと思えてくる。中には不買運動をほのめかす人さえいる。だが、実際に考えを進めると「同じ人の中に違った態度があるのではないか」と思えてくる。日本が極端に分断された社会であるという仮説も立つのだが、同じ人が名前が出るか出ないかによって違った態度を取っていると考えた方がわかりやすいからだ。

異なるセグメントの人がいるわけではなく「名前が出ていて、社会を代表している人」「名前が出ていないが意見を表に出している人」「名前も出ていないし意見も言わない人」というような異なる見え方があり、二重人格的に言動を変えている人たちが多いのではないかと思えるのだ。

これが「二重人格社会」である。

日本を窒息させる二重人格社会

さて、アーティストが優れた音楽を生み出すためには周囲のサポートが欠かせない。私生活の問題に直面する人もいるだろうしビジネス上の知識のなさから資金繰りに困る人もいるだろう。もちろん、作った音楽をプロモートしたり権利を管理する人なども含まれる。

小室さんの件では「介護が大変でサポートする人がいない」と指摘する人は多いのだが、創作活動全般に対してのサポートに言及する人はいない。

さらにその周りには「自分の名前で偉そうにやっているのだから失敗したら大いに笑ってやろう」とか「権利だけを取り上げてやろう」いう人たちがいる可能性もある。こういう人たちが表に出ることはない。

小室さんは会見で「華やかな芸能人になりたいのではなく、単に音楽家になりたかっただけ」と言っている。この意味で「自発的な音楽活動はしない」というのは防御策としては実は正しいのかもしれない。裏方の職人であれば嫉妬を集めることはないからである。だから、小室さんに「戻ってきてまたみんなに感動を与えて欲しい」などとは言えない。彼に存分に創作活動をしてもらうような体制が取れないからだ。

ただし、これは社会にとっては大きな損出だ。なぜならば、表に出て著作活動をする人はその代償として精神的に殺されても構わない社会であると宣言しているに等しいからだ。こんな中で創作活動に没頭する人がいるとは思えないので、日本は創造性の枯渇したつまらない国になるだろう。本当に創作活動がやりたい個人はそうした価値観を尊重してくれる国に逃れてゆくだろう。

日本人の二重人格的な言動は日本を枯れたつまらない国にするのではないかと思えてならない。

慰安婦問題と村意識

今日は慰安婦問題について考える。一つだけお断りしておきたいのは、この文章の目的は慰安婦が無理やり連れてこられたか、それとも意思があってきたのかということについて白黒つけようということではないという点である。つまり、事実についても歴史認識についても考えない。

今回のムン・ジェイン大統領のステートメントについて見てみよう。

  • 合意には重大な欠陥があるから「最終的な合意だ」というのは認められない。
  • かといって日韓関係を悪くする意図はない。
  • 単に所感を述べただけで決定ではない。

正直なところ、何について怒っているのかが良くわからないし、どうしてあげるべきなのかもわからない。と、同時にこれは韓国内部の合意形成プロセスになんらかの問題があり、その気持ちの問題を述べているのだろうなということはわかる。つまりこれは韓国の「ムラの事情」であり、日本は八つ当たりされているように思える。

これまで日本の村落について見てきたのだが、韓国も同じような村落社会であるということがわかる。つまり、うちわのきもちがありそれがおさまらないと言っているのである。これまではコンテクストのはっきりした日本の問題を扱ってきたので、それが外からどう見えるかということについてはよくわからなかったのだが、韓国の問題を見ると「村落の問題というのは外から見ると良くわからないがなんだか気持ちが悪い」というのがとてもよく分かる。

それではこの村落というのはどれくらいの広がりを持っているのだろうか。Quoraで聞いてみた。最初は「慰安婦」を韓国語にしていたので韓国人にしかわからないはずだったのだが、これはQuoraでは直すべきだといわれた。

第一にわかったのは韓国人はあまりこの問題に興味がないか相手に説明するつもりはなさそうだということだ。

さらに韓国人も日本人と同じように自分の気持ちを整理して他者に伝えるのが大変下手だということが分かった。自分たちの文化の肝がどこにあり、それを外部の人たちに伝えるということができないようなのだ。

明確に韓国系だとわかるのは4人のうち2名だったのだが、そのうちの1名(韓国系アメリカ人)によると、どうやら韓国社会は「弱者への共感を示すのがとても大切な社会である」ということのようだ。しかし、これも明確な形では表現されておらず、こちらが「意を汲み取る」必要がある。

これを参考にすると、多分弱者への共感を形で示す必要があるのだろう。だが、日本人は逆に弱者への共感を示すのが極めて下手な上に自分たちの文化をうまく外の人たちに表現することができない。

もう一人の人は「我々の政府」のような言い方をしているので、プロフィールには出てこないが多分韓国人か韓国系なのではないかと思う。この人は「慰安婦問題が政治利用されている」ことに対して怒っていた。弱者の共感を示すべき「我々の政府」が慰安婦を利用して前政権を否定しようとしていると言っているのである。つまりこの人は日本人には怒っていない。

そもそもムンジェイン大統領のステートメントを見ても彼らが何を解決しようとしているのかがわからないのだが、実名掲示板で聞いても結局何について怒っていて日本政府が何を失敗したのかがさっぱりわからない。

ここから分かるのは彼らが「謝り方が悪いからもう一度謝れ」と言っていて、その謝り方も気に入らないが、どう謝ればいいかは自分で考えろと言っていることになる。

外側からみればこれほど理不尽な言い方もないのだが、良く考えてみると日本人もこういうことをやりがちである。自分の気持ちというものがあり「それがうまく伝わらない」ことに苛立っており、その苛立ちを外にぶつけているのだろう。

こうした人たちにどう対処するべきかは人によって異なるのだろうが個人的にはほっておけばいいんじゃないかと思う。

相手は感情的に苛立っているので、理性的に何かを言っても無駄だろう。さらにどうやって謝ったらいいのかを聞くというのも無駄だ。なぜならば相手は自分たちの文化を意識的には理解しておらず、さらに韓国人の内部にも意識のずれがありまとまらないからだ。

しかしながら日本政府にも全く非がないというわけでもない。相手が感情的になっているところに「いやそんな事実は全くなかった」などといって張り合ってしまう。日本人もいったい何が解決したいのかということが良くわかっておらず、国際社会で悪口を言いふらされるのに苛立っているということになる。そこで無理やりにお金で口封じを図ったうえで政府間で密約を交わしてしまうから話がややこしくなる。

韓国人は何について怒っているのかがわからないので、合理的な説明を求められると「賠償」といういかにも合理的に見えるものに仮託してしまう。しかし、お金をやっても問題は解決しないのでお金の渡し方が悪いとか決め方が気に入らないなどというのだ。

日本政府はすでに戦後賠償を済ませているのだから、彼らの非難については淡々と謝罪したうえで「お気持ちはすでにお渡ししてありますよ」という事実を伝えるべきなのかもしれない。国際社会を巻き込んでどっちが悪いなどと言ってみても、部外者には何のことだかわからない。

ここから我々が学べる教訓は意外と簡単である。村落内部の議論というのはこれくらい良くわからないものなので、普段から意識して説明ができるようにしておくべきだ。韓国政府の今回のやり方はとても子供じみているが、日本もいくつかの問題についてそう思われている可能性はきわめて高いのではないだろうか。

貴乃花親方の罪は何だったのか

日本相撲協会が貴乃花親方に対する処分を決めた、理事を解任するというのだ。理事会には解任を決議する権能はないので評議会を開いて処分を検討することになっているという。これまで貴乃花親方が情報を出さないと叩いていたマスコミは、処分が出た瞬間に「この処分はおかしい」と言い出した。さらにTwitter上にも「これはひどい」とか「相撲協会はおかしい」というようなリアクションが溢れた。

この話の表向きのポイントは、被害者側の親方である貴乃花親方がなぜ首謀者の一味である白鵬、ガバナンスの最高責任者である八角理事長よりも重い罰を受けなければならないのかというものだ。日本社会は法治国家であるという前提があるのだが、法治国家ならば「被害者側」の方が重く罰せられるのはおかしいように思える。

もっとも。貴乃花親方が処分された理由を理解するのは簡単である。貴乃花親方は村のうちうちで話し合うべき恥を外に晒してしまい村人に恥をかかせた。だから村を追い出されかけた。つまり、「貴乃花親方は村の恥を外に漏らした罪で村八分になった」と考えればよく、これは日本人なら誰でも簡単に理解できる。

このことは、日本人の行動原理を理解するためにはやまと言葉に置き換えてみると良いということを表しているように思える。ガバナンスやコンプライアンスというのは格好をつけるために用いられる言葉であって、実際には「仲間はずれ」とか「村八分」いうような大和言葉で説明ができるのが本質なのである。

スポーツ報知はこのように相撲協会の言い分を伝えている。

 高野委員長は「本件の傷害事件は、巡業部長である貴乃花親方が統率する巡業中に発生した事件。貴乃花親方は理事・巡業部長として、貴ノ岩の受傷を把握した直後か被害届の提出前、遅くとも被害届の提出後には速やかに日本相撲協会へ報告すべき義務があったにもかかわらず怠った。貴乃花親方が被害者の立場にあることを勘案しても、その責任は重い」とコメント。

だが、これはいかにも苦しい弁明だ。

報道の中には相撲協会には警察から報告が入っていたとするものがある。相撲協会は「処理は場所が終わってからいでいい」と考えており、なおかつ警察が「誰が被害者なのか言わなかった」と主張している。相撲協会は、知ってしまうと処分が必要になり金儲けの興行の邪魔になるのでやらなかったのではないかと疑いたくなる。つまり、聞こうとしなかったにもかかわらず「報告がなかったから貴乃花親方を処分した」と言っている。これは矛盾しているのではないかとも思える。

貴乃花親方は役職者として報告義務違反を犯して処分されたという説明がなされたのだが、報告義務違反を犯したのは貴乃花親方だけではない。白鵬も日馬富士も報告義務違反を犯しており、その意味では同罪と言える。いずれにせよわかっていたのに調査しなかった人は減給だけで済むが、不当に問題が隠蔽されることを恐れて報告をしなかった人が理事を解任されてしまうというのは法治主義の原則にしたがえばおかしいように思える。

力士たちは「力でわからせてやる」という世界に住んでおり、これが一連の暴力事件の温床になっている。問題が起きた時には恥を外に漏らさないという収め方をするので暴力事件がなくなることhなさそうだ。大和言葉だけで説明すると「うちうちでおさめる」のである。

しかし、この大和言葉マネージメントには限界がある。暴力が収められないと入門者が減ってしまう。だからこそ、モンゴル人に頼らなければならなくなっているのだ。白鵬はモンゴル人にも利権(親方になる権利)をみとめよと言っているのだが、これは聞き入れられそうにない。権利も認められないのに義務だけは負わされるのだから、やがて相撲村はモンゴル人に依存できなくなるだろう。

相撲協会は、外部から閉ざされた村社会に戻ることもできるし、近代的なスポーツに生まれ変わることもできる。この二者択一は日本社会に似ている。日本は民主主義国家に生まれ変わることもできるしあいまいな村社会に戻ることもできるという岐路にいる。

例えば、相撲は単なるプロレス並みの興行である。悪口のように聞こえるかもしれないが、プロレスは自分たちが単なる興行でありm、社会的な責任を追求されれば興行が立ち行かなくなることがわかっているぶんだけ抑制をきかせられる。それでも試合中の死亡事故や練習中の「かわいがり」による死亡事故などが起きているようだ。閉鎖的な暴力集団という面もファンに許容されており「そういう世界だと知って飛び込んのだろう」と思われているのかもしれない。相撲もプロレスのようにしてしまえば、NHKの中継はなくなるだろうが、興行が成り立つ程度のかわいがりも容認されるだろう。

貴乃花親方が改革をしたいのなら、「相撲は現代社会の良き構成員として」「協会側は正当な理由があり調査に協力しなかった」といって法廷闘争に持ち込めばいい。相撲協会は改革のために理事と理事長を解任し、少なくとも理事長には外から現代的なガバナンスができる人を招聘すべきだろう。相撲を近代的なスポーツにしようとするならば、親方は単に柔道のコーチのような存在になるだろう。

残念ながら国体という概念を持ち出して「相撲は桜が紋章になっており、菊の紋章をいただく皇室と並んで日本の伝統を担う」というようなことを言っているようでは、単に新しい村落構造を作るだけになってしまうだろう。

貴乃花親方が裁判に打って出た場合、相撲村の掟と日本国憲法が相撲をすることになる。どちらが勝つのかは歴然としていると思う。


さて、Twitterでメンションがあったので乱文ぶりを添削したのだが、ついでにこの文章を書いた後に何が起こったのかを補足しておきたい。結局、八角理事長は再選された。貴乃花親方の部屋では動揺が起こったのか貴公俊が暴力事件を起こした。相撲界には暴力という事件を公平に裁く裁判所のような仕組みがなく、親方衆の胸先三寸で罪状が決まってしまうことになっている。貴乃花親方は相撲協会に「降伏」することでこれを是認してしまった。これは、貴乃花親方がやったことも世論を喚起して日馬富士や白鵬への罪を重くしようとしたという行為を認めてしまったということを意味する。

これを書いた時には裁判をすれば良いと書いたのだが、実際には裁判は起こらなかった。そればかりか人治的な慣習を是認してしまったことで、暴力が隠蔽されうる体質を温存させてしまったことになる。これが直ちに相撲界を弱体化することにはならないだろうが、前近代的な体質が残ることで、中期的に相撲への入門者を減らしてしまうことになるだろう。

だがここで「貴乃花親方が愚かだった」というつもりはない。なぜならばここに出てくる全ての親方衆は相撲の利権構造に依存しており、小さな相撲部屋がお互いに緊張関係を持ちながら連携しているような状態にある。つまり、貴乃花親方が「改革」を貫いてしまうと親方の力関係が強くなり「彼に利益を独占される」危険性があると考えてしまうわけだ。このような小競り合いのプレイヤー同士の改革は、外に明らかな危機がもたらされない限り難しいのではないかと思う。

一方でこのニュースは未だに(208/4/1)ワイドショーの人気コンテンツである。暴力や相撲界の将来などという問題よりも、村の中の細かな人間関係に日本人が強く惹きつけられることがわかる。