不安を言い出せない社会と拡散するデマ

先日スーパーでパンがなくなったという話を書いた。不安な人が多いんだろうなあと思ったのだがQuoraやTwitterでは未曾有の台風なのだから備えて当然だというコメントをいくつか頂いた。もちろん備えるのは悪いことではない。




しかし、別の店にはまだパンがあった。多分テレビで情報を見て心配になり、買いに行ったら実際に品薄になっていた。そこで心配になり余剰の購買につながったのだろう。つまり今回強調したいのは備えることの是非ではなく、その行動が合理的かどうかである。合理的でないとしたらなぜそうなるのかということだ。

台風19号に備えてパンがなくなったスーパー

まずなぜそうなるのかという点から考える。今回は「身近に危険が迫っている」というメッセージがあった。さらに過去に南房総の住人がひどい目にあっているという情報も流れてきた。ところがソリューションを提供する人がおらず(マスコミは情報を流すだけなので地域コミュニティがなんとかすべきだった)解決策が見つからない状況になっていた。すると人々は過剰反応覚悟で備えるしかなくなる。

単純に言えば「地域コミュニティの不在」が招いた事態といえる。マスコミは情報を伝えてはくれるがコミュニティまでは作ってくれない。そんな中で砂つぶのようになった人々が情報を受け取るとこうなるのだ。

砂の粘度が現れているのがコミュニケーションの不在である。

今回見ていて「だれも何も言わない」ことがとても気になった。高齢者が棚をぐるぐると回っている。歩いてもパンは見つからない。とはいえ騒ぐ人もいない。なぜならば災害はまだ起きていないからである。つまり「未然の状態」なのだ。

高齢者が何も言わないのは彼らが戦後の混乱期という自己責任社会に育ち、今まただれも頼れないという時代を生きているからだろうと思う。加えて未然の状態であり目の前に明白な危機がない。漠然とした不安を抱えると人は合理的でない行動を取る。

彼らは「迷惑をかければコミュニティから排除されて捨てられる」という社会を生きてきた。だからよく「迷惑はかけられない」という。中には電車に乗って席を譲られると逆に怒り出す人がいる。彼らにとって迷惑をかける人というのはすなわち社会の厄介者であり無価値な存在だということになるのだろう。助けが必要な人ほど引きこもってしまうのだが、普段はそれが目に見えない。

と同時にそれは彼らが「役に立たない存在」向けてきた刃でもある。今でも、電車に乳母車と一緒に乗ってくる人たちに向けられる「迷惑だから家にいればいいのに」という暗黙の視線である。これは、現在の少子化につながっている。個人が自己責任の殻に引きこもっているが故に協力して全体最適を目指すということができないのだ。

ところが黙っているのは彼らだけではなかった。お店の人たちも何も言わない。話題を振ってみたが凍りついた笑顔で対応されただけだった。こちらは別の理由が考えられる。彼らはパートで発注権限がない。このために物資がなくても何もできない。多分そういう気持ちがあって目の前の問題を見てみぬふりをしてきたのだろう。この地域は一週間電気が止まっており恒常的に品薄が続いていた。そのときも何もしなかったしできなかったのだろう。現場からの声がなければ発注側は異常に気がつかない。

今回の台風被害ではあらかじめ想定されていた風害と停電に対しての初動は早かった。役所がフォーメーションを組んでおけるからだ。しかし今後予期せぬ洪水に対してどう対処したかが検証されることになるだろう。今の役所には権限がない。このため事前に決めておいた通りにしか動けない。日本社会の雇用環境が硬直化しておりリーダーが権限を握りしめているために柔軟に動けない。

高齢者は声を上げず現場もなにもできない。こうなると、全体が沈黙を守ることだけがパニックを防いでいるという状態になる。不安は封じ込めるしかない。すると当事者たちは自己防衛的な気分を強めてゆく。今回は局地的な品薄という問題だった。多分貯蓄を抱え込んで使わないというのも同じ気分に由来するのではないかと思われる。だが、社会がない以上そうするしかないのだ。我々が見ているのはかつて我々が作ってきた社会の廃墟であってその中身は多分かなり荒れ果てている。

沈黙が問題を解決しないのは明らかである。問題が解決しないのだから不安はいつまでもなくならずさらに全体的にみると合理的でない行動が繰り返される。多分、必要なのは「パンがなくて大変ですねえ」と笑ってみせることだ。だがそれをやろうという人は誰もいなかった。

この裏返しとして台風19号は未曾有の大きさの台風であり地球最大のカテゴリー6クラスであるというデマまで飛んだ。江戸川区が浸水して1週間は帰れないだろうと断言する人たちもいた。解消できない不安は匿名の情報空間に反動的な情報を拡散させる。実際に台風19号は広い範囲で浸水被害を起こしている。だから、Twitterには信頼できる情報だけを流すべきだ。それでも、不安の中で人はありもしない情報を拡散させ、またそれを信じてしまう人が出てくるのである。

なぜ障害者や韓国に冷たい人が増えたのか

最近、ものすごく疑問に思うことがある。れいわ新選組が障害者を2名国会に送り込んだことに腹を立てている人がとても多い。この理由がわからないのだ。




れいわ新選組は確信犯的に障害者を国会に送り出したのだろう。口ではバリアフリーなどと綺麗事を言ってはいるが、国会議員のような崇高な激務は重度障害者にはこなせないと誰もが考えている。山本らはそれを可視化しようとしたのではないだろうか。特定枠で「とても仕事ができそうにない人」を送り込んだらどうなるのかと考えた人がいたに違いない。ここで周囲が戸惑えば山本太郎の勝ちである。国の障害者対策(さらに弱者対策と称される様々な対策)の欺瞞が証明できる。ここまではとても合理的である。

維新の会がこれに反対するのもわかる。維新もポピュリスト政党なのでれいわ新選組とN国に絡んでいる。お客を奪われるのは面白くない。これも合理的な反応である。

ただ、障害者が国会に入って、周囲がサポートをすることに腹を立てている人がいるのが理解できなかった。対応は参議院の仕事だし、お金を出すのは参議院か厚生労働省である。別に怒っている人に直接的な迷惑がかかるわけではない。にもかかわらずこれに腹を立てている人は意外と多いのである。

そこで最初に「自分は省みてもらえないのに誰か別の人が優遇されているように思えるのが不快なのでは?」と考えた。私は勝手にソーシャルアカウンティングと言っているのだが「人間関係の帳簿」を日本人は持っている。でもそれは、どこか回りくどい説明だなと思った。

それがいきなり「あ、わかった」と思えるようなことがあった。PCモニターが壊れたのだ。多分部屋が暑かったからだと思う。1年前にも同じような経験をしていて「ああまたか」と思ってしまった。そこで別のモニターを接続して……などと考え、この暑さで別のものも壊れてしまうかもしれないと不安になってしまった。

やりたい作業があるのでテレビモニターを外してきて応急的に環境を作った。そこでQuoraやTwitterを見ていると無性に腹が立ってきた。世の中には不平不満を言っている奴が多いと思ったのである。わがままな奴らはみんなそのまま黙って消えてしまえばいいのに!と沸点に達した瞬間に「あ、これだ」と思った。

モニターのバックアップを持っていることからもわかるように、常日頃からパソコンが壊れるかもしれないという不安がある。なぜ不安なのかというと調子が悪いものをだましだまし使っていた時期が長かったからである。結局は累積した不安がストレスになっていて、何かあるとそれが顔を出してしまうのである。

適切な範囲で問題が与えられると人間は快感を感じる。人には解決する喜びがあるのだろう。だが、許容範囲を越えると今度は逆にものすごく腹が立ってしまう。人間には心理的に受け入れられるキャパシティを超過すると「問題そのもの」をなくしてしまいたくなるのかもしれないと思った。

気がついたことがいくつかある。問題が溢れている時に長ったらしい文章(例えばこのブログのような)を読みたい人など誰もいない。つまり、長い文章は炎上する可能性は低いだろう。Twitterでしょっちゅう炎上が起きている理由がわかったような気がした。Twitterは腹をたてるのにちょうどいい長さなのである。

Twitterはいつからか政治ネタでの罵り合いの舞台になっている。閾値を超えた時点でこれを見ると「黙れ!」と言いたくなるだろうなと思った。多分、単に興奮状態で反応しているだけなのだろうなあと思った。

さらにテレビも消してしまった。なぜかテレビには解決しなければならない問題が溢れており、しかもどの問題も不思議と一切解決しない。ただ、そもそもなぜそんな番組をわざわざ好き好んで見ているのかがよくわからないなあと思った。だが、習慣とは恐ろしいもので昼に名倉潤さんの鬱騒動について見てしまった。考えた上の行動ではないんだなあと思った。

問題の解決は多分情報を遮断することとストレスを減らすことなのだろう。だが、それは意識的にやらないと難しそうだ。ストレスに溢れた情報には刺激もあり興奮状態だとまた刺激を求めそうになる。つまり情報刺激には禁煙のような治療が必要なのだ。

情報ストレスの解決には治療が必要なのだろうが、もう一つのストレスはお金で解決できる。ストレスを減らすためと称して中古ショップにゆきFull HDのモニターを買ってきた。今前の画面よりもずいぶん広くなったモニターでこの文章を書いている。テレビをPCモニター代わりにしてもいいやと思ったのだがここは贅沢をさせてもらった。その代金は1500円だ。壊れてもまた買ってくればいいくらいの金額である。

高齢者の嫌韓はなにが問題なのか

韓国について二つの全く違った記事を見た。一つは中高生に関する記事で、もう一つは老人に関する記事である。




最初の記事は「インスタから紐解く、女子高生に「韓国」が人気な理由」というものだ。韓国人は「自分をよく見せることに積極的」な人が多い。SNSを通じてそれが伝わり日本人の中高校生も韓国が好きなるというのである。一度そういう印象がつくと、あのハングルでさえも丸くて可愛い文字に見えるらしい。

もう一つの記事は毎日新聞のもので「なぜ嫌韓は高齢者に多いのだろうか」というタイトルがついている。「よくわからない」とするものの、定年退職などで社会と切り離されたときに嫌韓発言に出会い「社会正義に目覚めた」という人が多いのだという。

韓国という一つの国に対する感覚が世代によって全く異なっているという点が面白い。ある人たちは楽しい韓国で気分が「アガり」別の人たちはコリアヘイターたちに囲まれて日々苛まれ続ける。

日本敗戦当時のアメリカに対する心象を除いてここまで両極端に反応が出る国というのは他にないのではないかと思う。アメリカですら普通の国民はあっさりと親米に転じてしまう。今では一部の人たちが反米感情を持ったまま孤立しているだけである。

反米感情の場合「戦争に乗ってお金儲けをしてやろう」という人たちはあまり傷つかなかったかもしれない。しかし純粋に日本を応援していた人たちには気持ちの持ってゆきようがなかったのではないだろうか。そこから類推すると現在の嫌韓は「企業人生を全うすればいいことがあるだろう」という期待が裏切られたのに行き場がないということなのかもしれない。そう考えると毎日新聞の「いまひとつ納得感が得られない」というのも当たり前の話だ。

もう一つ重要なのはパーソナルな情報空間という現代特有の事情だ。記事を読み比べるだけでも、世代間で接触するメディアが全く違うのがわかる。若い人たちはYouTubeやInstagaramなどできれいな韓国を知っており、自分を成長させるために新大久保に行くのだろう。将来が開かれていると感じている人は楽しいことを探し、自分のためにお金を使う。一方、中高年が触れるのは嫌韓本とそれに付随したSNSアカウントだ。つまり本を売るためのプロモーションに影響されてしまっているのである。彼らは本を売るために利用され続けるのだ。

若い世代は「自分をよりよく見せるため」のモデルを探している。INF危機を経験した韓国は競争社会になっており「他の人たちよりもよりよく見せる」ことが重要な社会だ。良し悪しは別として、まだ変化の余地がある日本の若い世代もそれに適応しようとしているのかもしれない。日本も「個人ベースの競争社会」に変わりつつあり、これまでのように謙虚にしていては埋もれてしまうというという社会になりつつあるのかもしれない。

では、嫌韓の問題は何なのだろうか。

高齢者は家に閉じこもりネットで選択的に限られた政治的な記事を読んでいる。そうしてそのような記事は問題解決ではなく、部数を伸ばすために読者が敏感に反応するコンテンツを提供しつづけなければならない。彼らは蓄積された資産の一部をそうしたメディアを応援するために使い続けることになるだろうが、後には何も残らない。

日本人には強い同調傾向があるのだが、接触メディアによって周りの見え方が全く異なってきてしまっていることがわかる。若年層が重要視するメディアは「解説なしの」ローマテリアル(原材料)であり、中高年層が見ているのは「解説記事だ」という違いがある。これは「憎しみを利用して物を売る」ためにはより多くの加工が必要という事情があるのだろう。

重要なのは韓国に親しみを感じる人はなんらかの自己表現について学ぶということだ。飽きたら韓国への興味は消滅してしまうかもしれないが、自己表現技術は残る。一方嫌韓は「憎しみマーケティング」なので参加者はいつまでも自己表現ができない。自分の気持ちが客観的に伝えられないからいつまでも嫌韓感情に煽られることになる。

嫌韓なら嫌韓でも構わないと思う。ただ、それを表現してみて初めてその良し悪しがわかるはずだ。多分、唯一にして最大の問題は自分の気持ちを語る術を得られなかった人たちが、そのままいつまでも何かに煽り続けら続けるということだろう。

映画「マトリックス」ではないが、眠らされたままの状態でエネルギーを吸い取られ続けて一生を終わるようなものである。多分問題点は嫌韓の果てにある結果だ。憎しみはお金儲けに利用されるが、後には何も残さないのである。