公共の崩壊 – 自己責任と夏休みの宿題不要論

Quoraで夏休みの宿題不要論という質問があるのを見た。ちなみに今は教育改革ではなく「日本人の政治嫌いと公共不信」について考察している。




この質問に「学校で夏休みに宿題を課す理由は勉強習慣を維持させるためでは?」という毒にも薬にもならないような回答を書いた。たくさんの回答を書いたので面倒になっていたのである。ところが面白いコメントが帰ってきた。勉強が好きな子はむしろ代行業者を使うというのである。

この質問を書いた人は宿題が不要であるということを証明したいわけで「宿題に意味がある」という回答は求めていないと思う。ところがその理由にまでは思いが至らなかった。これはどちらかというと「できる子」の視点である。できる子は公共を不効率なものと考えていてそこから出て行きたいと思っているのである。

学校の宿題はカスタマイズされていない。怠け者の子供は宿題を溜めるだろう。一方で、中途半端な内容の宿題はかえってできる子には邪魔である。夏休みくらいは学校に押し付けられない「将来に役に立つ」勉強をしたいのだ。つまり、平均をとると誰のためでもないものができあがってしまう。これが多数決民主主義の別の問題だ。社会主義的に一律に与える課題の問題という意味では社会民主主主義の問題と言っても良い。

学校側から見ると「親の世代と同じことをさせていると親が安心する」という理由で宿題を出すという事情があるようだ。変わらないことをみせるために宿題が出されているわけで「こんなものはいらないのではないか」という議論には対応できない。変わらないことを優先しているうちにシステム自体が疑問視されるというのはいろいろなところで見られる。そして実際にそこから離反する人も出てくるだろう。

一応彼らのために制度を再設計すると基礎勉強は最低限にして自由裁量時間を増やすべきだということになる。多分勉強しない子は最低限のことしかしないはずだが、それを外からなんとかすることはできない。中には日中を一人で過ごし「何をしているかわからない」という子供も出てくるだろう。という一方、できる子も夏休みの勉強の成果を学校に持ち帰ることはないだろう。彼らは受験勉強で忙しく「学校に構っている時間はない」からである。

我々はこれまで「公共の不在と政治嫌い」について主にこぼれ落ちた側からの議論を展開してきた。機能不全に陥っているセクターでは全体の調整力が失われ無力感としての政治不信が起こりますよねという図式である。ところがその対局には実は「公共に縛られたくない」という人たちもいる。能力があって自由主義の方がいいという人たちである。これを一つの制度で解決することはできないし全員を集わせて話し合いをさせるということもおそらくできないだろう。

ここまで大きな(あるいは遠い)視点になると問題は、公共というものが公共教育でさえも大きくなりすぎていて誰のためにもならないものになっているということがわかる。

さらに追い打ちをかけるのは「社会が提供する標準的なコース」に乗っていては落ちこぼれるかもしれないという恐怖心である。自己責任論に苛まれて個人の成長を追求してもそれが大きな広がりを持つことはないだろう。彼らは公共が機能している社会(そんなものがあればだが)に逃げてしまうだけだ。昔から学校の宿題が物足りないという人はいただろうが、行き過ぎた危機感がなければ「代行業者を使ってでも逃げ出したい」とまでは思わなかったはずである。

学校の先生は一生懸命に勉強して終身雇用の先生の地位を得る。ところが生徒はそうではないので「自己判断」で宿題を評価するようになる。するとお金を出してごまかそうという人やサボってためてしまってどうにもならないという人が出てきてしまう。その意味では学校制度はすでにかつてのようには機能しなくなっている。多分公共もかつてのような安心感を我々に与えてくれない。一度壊れた信頼は取り戻せないのだ。

日本人は身分保障をしてくれる集団を作るが、家族や地縁のような拘束力の強い集団は作れない。そして集団が身分保障をしてくれなくなると集団への貢献を控えるので集団は成長したり拡大したりできなくなる。集団を成長させても寡頭の意思決定者に搾取されるだけだと感じるからだ。かといって個人の意思疎通を通じて利害調整したりすることはできないので個人主義的な成長も難しい。こうして日本人全体が政治や公共を信じられなくなり様々な問題を引き起こすのだろう。

根底にあるのはちょっとした不信感だが、その不信感が機能不全を生み、それがさらに不信感を増大させてゆくのである。