日本人は正義を語ってはいけない – トロッコ問題

毎日新聞の記事で面白い話を見つけた。ある小中学校で「トロッコ問題」が大問題になったというのである。倫理学をいい加減に扱う日本人は正義を語ってはいけないなと思った。




トロッコ問題というのは、マイケル・サンデルのこれから「正義」の話をしようでも有名になった倫理学を学ぶための問題である。多分知っている人が多いはずだ。功利主義という「得をする人が多いのが一番いい選択肢である」という考え方がある。しかし、その考え方を取ると犠牲者がでる場合がある。多数派のために少数派が犠牲になればいいという議論になるからだ。トロッコ問題はそれを考えるために出される問題なのだが、最近の「民主主義=多数決」という偏った議論を考え直すためには良いツールになる。

ところが日本人はこの問題を「面倒で厄介な問題」と考える。そこで集団で圧力をかけて「考えないように」してしまうのである。これは「悪いことを考えるとそれが起こる」のでそれが起こらないように考えないようにするという言霊信仰である。「ご迷惑をおかけしました」という呪文を唱えると問題がなかったことになる。

今回は学校の校長たちが保護者に「不安を与えて申し訳なかった」と謝罪して終わりになっており、新聞もそれについては論評していない。日本人はトロッッコ問題が扱えず、したがって多数決で出る犠牲者の問題を考えることはできない。だから日本人に正義を語らせるのはやめたほうがいい。そもそも概念的な問題を扱えないからだ。

ところがよく見て行くとこの記事にはもっと恐ろしい問題が隠れている。このスクールカウンセラーはそもそもこのトロッコ問題を「よくわからない問題」と丸めているのだ。それを不安に思ったらカウンセラーに相談して欲しいという意味で使ったと言っている。これは恐ろしい告白だ。

もともと「意思決定をめぐる難しい問題を突き詰めて考えましょう」という問題をこのカウンセラーも取り扱ってみたのだろう。だがよくわからなかった。ただ心情的に「悩んだら誰かに相談しよう」ということは理解できる。ところがこの二つが結びつくと「自分で責任が取れそうになかったら誰かに相談して責任や罪悪感を分散しましょうね」と仄めかすことになる。集団主義へ生徒を誘導しているのだが、多分スクールカウンセラーはそのことに気がついていないだろう。

例えば原子力発電所の問題は一人が決めたら独裁だが、周りの人にいろいろ相談してやったから誰も責任を取らないでもかまわないということになっている。福島の漁師は犠牲になっているがこれは東京というもっと大きな消費地を助けるために仕方がなかったことであるというのが功利主義的な考え方であり、集団主義なので誰も責任は取らない。日本は犠牲者が出たら「運が悪かった・仕方がなかった」で済ませる国だが「本当にそれでいいんですか?」という議論はしないで「みんなで考えたから仕方がなかった」と置いてしまう。実はカウンセラーがやっているのはそういうことなのだ。

カウンセラーはおそらく「よく知られている問題」だから権威があるのだろうと考えていてその理解が中途半端なまま自説「自分たちに相談してください」に結びつけている。権威を利用しようとしているわけである。

ではこのカウンセラーが知的に劣っているのかと言う疑問が出てくる。実はそうでもないのではないかと思う。例えば教育勅語は「天皇はすごいんだから従うべきだ」と言う主張を補強するために四書五経の徳目を集めてきて「天皇は父親だからなんでもいうことを聞かないとね」と結びつけている。わかっていなくても、最後の「天皇に従えだけ」がわかっていればよいわけで、それが悪用されると「片道切符で敵の戦艦に飛び込んでね」ということになってしまう。戦争はみんなで決めたことで誰かが責任を取るものでもない。でも俺たちは助かりたい。だから仕方がないからお前が犠牲になってくれということである。

最初にこの話を聞いた時「トロッコ問題」を概念的に扱えないから日本人は正義について語れないのだと思った。ところが毎日新聞の記事にはトロッコ問題に関連する議論がリンクされていた。

ところがこの問題実は「自動運転」の議論に結びついてしまっている。つまり日本人はこの問題を「概念」ではなく「具象」に注目してしまうようなのだ。つまり実際に自分がハンドルを握るという想像をしてみないとこの問題が考えられない。そしてそれを行っているのが、かなりいろいろなことを知っているはずの新聞記者たちによって行われているところに病理があると言える。経験に強くとらわれる傾向を長年教育によって刷り込まれてきた日本人はトロッコ問題を原発ではなく自動運転に結びつけて考えてしまうのである。

日本人は正義について考えることができない。ここで考えただけで三つも理由が出てきた。おそらくここから脱出することは不可能だから諦めたほうがいい。

  • 具体論に落として自分の経験の範囲でしか考えられないという、具象と経験の誤謬。
  • よく語られるとかよく知られているとか、みんなが言っているという権威に頼ってしまう、権威の誤謬。
  • 不安なことを考えるとそれが起こってしまうと考える、因果関係の誤謬。

本来この話はここから功利主義批判になりコミュニティ論になるはずだ。それが政治哲学者の考える「予定」である。4つの政治哲学で今後の働き方をひもとくという記事にはそのことが書かれている。最終的にはコミュニティや共通善という話になり、日本国憲法の「公益」に関しての議論になるはずである。the common goodは憲法第12条の原文にも書かれている概念だからだ。

もちろん「功利主義などは西洋の考え方が基礎になっているから我が国は我が国独自の哲学体系で考えるべきだ」という主張は可能だし、憲法が真面目にコミュニタリアンの考え方に沿っているのかというのは検討しても良い疑問だとは思う。

だが日本人が「独自に考えよう」とすると具象化の罠に陥ってしまい概念化に失敗することが多いように思える。経験が同じような人たちが集まっているので概念化しなくてもなんとかなってしまうという事情がある。

だから日本人は本質的に憲法批判も再構築もできない。自分たちの思想を体系化して落とし込むことができないからだ。経験則に体系はないのでこれは当然のことである。

ゆえに正義が語れない日本人は憲法を自分たちの手で作ることはできないだろう。日本人にできるのはわかっている部分を経験から得られた心情に結びつけることだけで、この先混乱と形骸化が進むはずである。一部教育の問題(これは十分改善できる)が含まれているわけだから、惜しいといえば惜しい話である。