コミュニティマネジメント実践編 – 「引用」を徹底して大混乱する

フェイクニュースが多い。特にネトウヨ系の人が自分の言いたいことだけをいう絶叫型の記事が多く困っていた。軽く「引用をしっかりさせれば収まるだろう」と思っていたのだが、これが大間違いだった。日本人には引用を理解できない人がいる。説明してもわかってはもらえないのである。日本人は「理由を気にしない」という性質があるので制御するのにかなり癖のあるやり方をとらなければならない。

このため民主的な環境を守ろうとすると独裁を取り入れなければならないというジレンマに陥る。おそらく正解はなく工芸的な按分が求められる。つまりコミュニティマネージメントはサイエンス(科学)ではなくアート(工芸)の分野なのだ。




ことの発端はヘイト系の記事だった。Twitterで出回っている画像を勝手に使って韓国人を屈辱したり南京事件を否定したり左派リベラルを罵倒する記事が多い。これは困るなあと思った。同時に「愛知トリエンナーレ事件」が起きており「自分たちの言いたいことをいうのが表現の自由なら俺たちも言わせてもらう!」と息巻きヘイト記事を閲覧停止にすることを「憲法違反だ!」などと言い出す人達が出てきた。場を荒らすことが快感になっているような人たちが実際にはとても多い。

このため、モデレータ権限をシェアできなくなりなおかつ外形的な基準作りが必要になった。そこで「引用元のない画像が入った記事はシェアできないことにします」と宣言した。ヘイト記事に嫌悪感はあるものの感情は捨てて「根拠があやふやなものは非表示にすればいい」と思ったのである。

意外と文句を言ってくる人は少なかった。理由はおそらく二つある。

  1. ヘイト記事が嫌いな人は多い。ヘイト記事が減ってそれを歓迎した。
  2. ヘイト記事を書いてくる人は権威的な人が多い。権威的に振る舞っていればあまり文句を言ってこない。

おそらく2はポイントだろう。集団による競争を好む日本人は弱者を嫌い足を引っ張られて弱者になることも嫌がる。このため、日本では「人権」などを使って弱者目線でやると反発してくる人がいる。「責任」とか「役割」という民主主義的な概念もない(あるにはあるが大切なものとはみなされていない)ので、上から「これは独裁である」として正解を提示するのが良いのである。日本人のこのデュアルな価値観を理解することはとても大切だと思う。

ただここから迷走が始まった。

それでも引用なし記事を送ってくる人がいる。どうやら表示停止にして理由を説明しても「それはそれ」で「これはこれ」と思うようだ。ルールというのは関係性によって決まるのであってやっていい人とやっていけない人がいるというデュアルな理解があるようだ。つまり「口ではそう言っているが俺は許してもらえるだろう」とか「しつこくやっていればそのうちなんとかなるだろう」と思うわけである。

よくこのブログで「日本人は原理原則にこだわりがなく理解しようともしない」などと書いているのだが「引用のない記事は画像の信憑性がわかりませんから掲載停止にします」という理由付け(why)に日本人は興味を持たない。そして関係性を働きかけてくる。

しかし、繰り返しているうちに「なんだかよくわからないがとにかく引用元をつければいいらしい」と考える人が出てきた。関係構築に失敗すると今度は外形的な基準に逃避するのである。ある人はTwitterから画像を取ってきたようだが、そのTwitterはコミック雑誌かなにかを無断転載している。外形的には引用元はあるがオリジナルが追えない。これも閲覧停止にした。

すると今度は「この人はコミックが嫌いなんだな」と言ってくる人が出てきた。つまり、画像が入ったやつは全部ダメなんですねというわけである。理由がわからないので(提示してはいるが大した問題だとは思われていない)今度はその人が嫌いなんだという主観の問題に置き換えてきた。

こちらとしては「基準を示せばいいだろう」と思うのだが、日本人は基準を「建前」や言い訳の説明と捉え「本当のところ」を探ろうとする。これが実に面倒だ。なぜならばそんなものはないからである。

コメントで「過渡期なので仕方ないのかもしれないが基準をはっきりしてくれ」と言ってくる人がいた。基準は明らかで「出元が明らかなものを引用元としてお願いします」ということなのだがこの人はそれが「明快だ」とは思わなかったようだ。原理原則に興味がないというより意味を感じていないのだろう。そこで「虫の居所が悪いんですね」と言ってくるわけである。

  1. 日本人は原理原則には興味がなく理解しない。
  2. 原理原則がわからないと関係性構築を試みる。
  3. それに失敗すると今度は外形的なルールに従おうとする。
  4. それに失敗すると「機嫌が悪いからだ」とか「嫌いだからだ」という主観的な問題だと捉え直す。

学術論文だと一次資料から引用しないものははねられてしまう。ゆえに学術論文を書いた人(大卒以上)ならこのルールは明確なものだと思っていた。実際に理科系の諸回答を見るときちんと出典を示しているものが多い。つまり「日本人」といっても理科系の日本人はきちんと引用の大切さを知っている。

どうやら、日本で文系アカデミズムを信頼しようとするとひどい目に合うらしいということはわかった。まともな卒論を書いて出てきた人が意外と少ないのかもしれない。

そこで説明しようと思ったのだがここでふと気がついてしまった。ネットの世界には「広がることを前提にした」形式が二つあるのだ。理系の人なら引用はしっかりとという基礎があるのでそれを踏まえた上でこの「広がることを前提とした」方式を理解できるだろうが、おそらくそれをやって来なかった(そして定年後に政治に「目覚めた」)人たちにはもう無理だろうと思った。

一つはWikipediaである。クリエイティブコモンズというライセンスになっていて「クリエイティブ・コモンズである」ということを示せば転載とリミックスができるようになっているそうだ。だからWikipediaは引用元さえ示せば(厳密には示さなくてもCCであることだけを宣言すれば)無断で転載してもいいのだ。もう一つはエンベッドである。YouTube・Twitter・インスタグラムなどの埋め込みのことだ。

これはどちらも著作権を維持したままで広めてもらおうという仕組みである。著作権の法体系には「著作者は意図に沿わない広がり方をしないようにコントロールする」という個人主義的な動機があるのだが、おそらく引用を理解できない人にこれを納得してもらうのは無理だろう。そしておそらく個人主義的な動機が理解できない人に民主主義を理解させるのは無理だろう。

そもそも学術論文の引用ルールを知らない上に、クリエイティブ・コモンズやエンベッドなどに触れているのでおそらく何が何だか分からなくなっているのだろう。これを説明しようとして一時間ほどかけて文章を書いてみたがおそらくは通じないだろうと思った。特にエンベッドは「どのサーバーに元情報があるか」という技術的なことがわからないと理解ができない。

ただ、理解できない人たちはこれを「インテリ(と言っても大学卒業レベルくらいの話だが)」が俺たちを排除しているとみるだろう。この壁は上からの共産主義や社会民主主義が日本に浸透できなかったのに似ている。おそらく民主主義もこの壁にぶつかる。あるいは「民主主義は甘くて美味しいものですよ」というGHQのやり方は日本では唯一の方法だったのかもしれないなとすら思った。

こうなると「この人はなんだか気難しい人だから画像がついた記事は削除される可能性が高い」という理解を受け入れるしかない。そこで「引用元原理主義者」なので諦めてくださいと書いた。「気難しい」キャラにするしかないのだ。

日本人に政治的議論は無理だと思う理由はいくつもあるのだが、論拠を示すために引用元を示すということもその原因の一つなのだろう。そのため今日も論拠の定かではない意見がネットには出回っていて、それを元に果てしない<議論>が続いている。

ただ、なぜだかわからないがフォロワー数は増え続けている。ついに先日2,000人を超えたそうだ。「気難しいキャラなんだがニュースを解説してくれるからまあいいか」と思う人が多いのかもしれない。あるいはネットの政治情報が混乱しているので「ある程度制御が効いた」プラットフォームが求められているという可能性もある。ただこれを閲覧してくる人がコミュニティ運営に協力してくれるということはなさそうである。

いいことなのか悪いことなのかはわからないが「役に立てばいいや」という意味でも日本人は原理原則や個人の意見をほとんど気にしないのだ。

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