テレビジャーナリズムという幻想

古館伊知郎がニュースステーションを降板するといって大騒ぎになっている。権力を批判する人がテレビから消える。それでは安倍政権の思うツボだというのである。こうした言説には違和感を感じる。そもそも、古館伊知郎が「テレビジャーナリスト」扱いされるようになったのはなぜなのだろうか。

そもそも、テレビのニュースは退屈なものだった。最初にこれを変えたのはNHKだ。1970年代にニュース原稿を読むのをやめて「語りかけるように」したのだ。

バブル期の後半に、テレビ朝日が夜のテレビニュースを変えた。ニュースにワイドショーのような「分かりやすさ」を加えた。しかし、それは「ジャーナリズム」を指向したものではなかった。あくまでもニュースショーだった。NHKとの差別化を狙ったものと思われる。そこで起用されたのが、TBSの歌番組「ザ・ベストテン」で人気だった久米宏だ。久米はニュースを読むアナウンサーではなかった。

その後、バブルが崩壊し、自民党政治への信頼が失われて行く。自民党の政治家は「金権政治化だ」とみなされるようになる。時代に沿うようにしていテレビニュースショーは「反権力化」していった。自民党を離党した「右派リベラル」の人たちが担いだのは熊本のお殿様の子孫である細川護煕だった。細川首相は近衛家の血も引いている。血筋の良さが重んじられるという点では、とてもアジア的な政権交代だった。

この頃の趨勢は「反自民」だった。しかし、非自民内閣が失敗したために、社会党を巻き込んだ「自社さ」政権ができ「自民党をぶっ壊す」と言った小泉政権へと続いて行く。有権者はこの間、一度も「左派」の政党を支持することはなかった。

ニュースステーションの枠を継いだのが古館伊知郎だ。久米は「ニュースステーションがなくなるのだから、次の司会者がいるはずはない」と主張したという。この人もジャーナリスト出身ではなかった。どちらかといえば、スポーツ中継(特にプロレス)などで活躍していた人である。つまり、テレビ朝日は依然としてニュースをショーだと考えていたのだ。「権力を監視し、提言する」のがジャーナリズムだとすると、ジャーナリズムのように見せるのが報道ステーションだった。

前者を格闘技だとすると、後者は格闘技をショーアップしたプロレスのようなものだ。報道ステーションは、格闘技ではなくプロレスなのだ。その悪役として選ばれたのが「権力」だったのである。

小泉政権が終ると自民党に対するバッシングは最高潮に達する。有権者は「自民でないなにか」を求めるようになった。そこで表れたのが民主党だが、3年間の民主党政治は無惨な結果に終った。東日本大震災のような天災もあり、有権者は民主党を「穢れたもの」として打ち捨てた。古代に疫病があると都を捨ててたようなものだ。民主党の後期ごろから人々は「改革」と口に出して言わなくなった。

「どうせ、変わらない」という空気が蔓延し、有権者は政治への興味を失った。今では一部の人たちが「安倍政権は許せない」と叫ぶ(あるいは呟く)だけである。反対が多いように見えるのに、自民党は支持され、憲法改正さえ伺う勢いである。「反権力」はもうトレンドではない。多分「権力側にいたい」というのが今の気分なのだ。

日本人は戦後一貫して「未来」を向いていた。現在よりも一年後の方がよくなると思っていたのだ。バブルが崩壊してもそれは変わらず「この状態はいつしか改善するはずだ」と考えていたように思う。明治以降「脱亜」の意識が強かったので「日本人は西洋に比べて劣っている」と考える人が多かった。実際は世界第二位の経済大国だったのだが「日本は小国である」と考えていた。

ところが、最近では「日本はここが優れている」という番組が多く見られるようになった。先進国最低レベルのGDPなのだが「日本はまだ西洋諸国と肩を並べている」と漠然と信じている人も多い。中国を中進国だと見下しているのだが、経済規模では遥かに及ばない。日本人は未来よりも過去の良かった時代を見る事に決めたのだろう。不安な未来を見つめるよりも、確実な過去を見て安心したいのだ。

だから「反権力」や「ジャーナリズム」はもう流行らない。商品価値がなくなったショーを続ける意味はない。だから、見ていて安心できるキャスターや、現状を肯定するニュースショーが求められるはずだ。多分「官邸から圧力をかけられたから反権力的な人たちが降ろされた」のではないのではないかと思う。

そもそも、現代のビジネスマンはスマホでYahoo!ニュースを見ているはずだ。これまでのように「権力批判」が売り物になるのは、高齢者相手のニュース番組だろう。TBSの時事放談やサンデーモーニングなど、今の政治の不出来を嘆くショーが生き残るのではないだろうか。

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