給食と自由を巡る論争

小学校1年生の娘を持つ母親が学校の先生に文句をいうのを聞いた。その市の小学校では給食は残さずに食べなければならないらしい。食べ終わるまで席を立ってはいけないのだ。しかしその娘には食べられないもの(ただしアレルギーではない)がある。そこでその母親は「学校が食べ物を押しつけるのはよくないのではないか」というのだ。児童には「食べない自由もある」という主張である。

普通に考えると「先生が言う事を聞かないのはよくない」ということになる。若い母親は黙って従うべきである。一方で、こうした主張は「民主的」とは言えず、あまり好まれない。

そこで次に考えられるのは、給食を食べないデメリットを伝えるという方法だ。給食は栄養バランスを考えて計画されているのだから、まんべんなく食べる事でバランスのよい食事ができるはずである。子供の頃の食生活はその後の食生活に影響を与えるだろう。つまり、好き嫌いをなくしてくれる先生に感謝するならまだしも、非難の対象にするのは「筋が違うのではないか」というものである。

この論の反論として考えられるのは「栄養バランスも自己責任である」というものである。つまり、その人の食事を管理するのはその人自体であって、他人にとやかく言われる筋合いのものではないというものだ。つまり、人には「不健康になる自由」もあるというわけだ。

さらに食べ残しは食料を無駄にするので良くないという論も考えられる。しかしこれも「食費を払っているのは親(あるいは納税者)なのだから、無駄にする自由もある」という反論が予想される。

自由というのはかなり厄介な概念だ。「正しい食生活を身につける」という大義があるのだから、そもそもそれは自由ではなく「ワガママだ」とレッテルを貼ってしまいたくなる。実際には「先生には従うべきだ」とか「子供の時に偏食をなくすべきだ」と言った方が簡単だし、現実的であろう。

その一方で「嫌な事をしない自由」という概念にはやや不自然さを感じる。このような考え方はなぜ生まれたのだろうか。

これは学校の側に責任の一端がありそうだ。学校は自由の意味を教えないことで問題を再生産しているのではないかと思う。

最近の学校は親を「お客様」として扱い、最終的な責任を負うのを嫌がるようである。先生は「最終的に食べるか食べないかは母親の責任だし、次の学年の先生がどのような指導をするのか分からない」と言ったそうである。本来なら「絶対に子供のためになるのだと信じている」くらいのことを言って母親を説得してくれても良さそうだが、そうはならないらしい。母親は仄めかすように「偏食はよくないんじゃないですかねえ」というようなことを言われ「攻撃されているように」感じたようだ。

最近は偏食の子供も多いらしく(ついでにアレルギーの子供も増えているようだ)先生たちも苦労しているようである。しかし子供に「栄養バランス」などと言っても分からないし、いちいち説明するのも面倒だ。そこで学校は給食をゲーム化するようである。クラスごとに目標を決めて食べきったら表彰するのだそうだ。つまり、子供は「なぜホウレンソウを食べなければならないか」ということを学ぶ前に「自分が食べないとクラス全体の迷惑になる」ということだけを学んでしまうのである。小学生はこのようにして「集団主義」を身につけてしまうのだ。

これを聞いて、去年起きた子供の死亡事故を思い出した。チーズ入りチヂミを食べた児童が亡くなったという事故だ。その学校ではクラスで同じような競い合いをしていた。そこで児童は目標を達成しようとしてアレルギー物質の入った食べ物を食べてしまったのだ。

よく考えてみると、先生には児童を説得して指導するインセンティブはない。先生に期待されているのは、国や市が決めた教育要項に従って「効率よく」クラスを運営することだ。「児童が偏食行動を身につけようと、給食さえ食べてくれれば知ったこっちゃない」のかもしれない。先生個人の力量は期待されておらず。集団で行動すればよい。そこで責任だけを負わされてはたまったものではないだろう。

給食の問題から実情をまとめると次のようになる。親の側は「個人の自由」を盾に「嫌な事」を避けようとする。子供が嫌がること事を強制して嫌われるのも避けたい。その一方で子供たちは「個人としての自覚」を持つ前に「集団主義」を身につけてしまう。先生は「児童個人を説得して訴える」ことを放棄しており「個人で職業的な責任を取る」ことも避けるのだ。

このような状況下で、どの程度の「自由」を子供に与えることが「正しい」のだろうか。また、嫌がる子供にホウレンソウを食べさせるために、子供をどのように説得すべきなのだろうか。答えは様々あり、その答えに行き着く論理も種々あり得るだろう。

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