Twitterの議論はなぜ噛み合ないのか

先日Twitterで「女性の社会進出」に関する小さな議論があったのだが、まったく噛み合なかった。まともなネット言論などないというのは定説になっているのだが、なぜなのだろうと考えてみた。

結局2つの要因に行き着いた。一つ目は「学校で議論の仕方を教えない」からというものだ。日本の教育は途上国式の「キャッチアップ」型で正解を教え込むことが教育だと考えられている。そして、次の原因はパーティーがないからというものである。

日本人はパーティーを開かないからTwitterで議論ができないのだ。

パーティーの席には知っている人もいれば知らない人もいる。また、意見が合う人がいるかもしれないが、意見の合わない人もいるかもしれない。もし、意見が合わない人と出くわしたとしても「私は帰る」とは言えない。座がしらけるし、誘ってくれた人に対して失礼に当たるからだ。

そこで求められるのは「聞く」ことと「自己主張する」ことのバランスだ。自己主張は特に難しく「アサーティブネス」が大切である。また、自己主張するにしても「ユーモアを交えて軟らかく」話した方がいい。あなたにとって自明のことでも相手は知らないかもしれない。

パーティーというと突飛に聞こえるかもしれない。これは「公共圏」の例えなのだが、日本には公共圏というものが存在しない。

政治的議論は異なる意見を折り合わせてよりより選択肢を探索するための意思決定プロセスだ。しかし、そのような難しいことが何の訓練もなしにできるはずはない。まず必要とされるのは、異なった意見を表明する自己主張(アサーティブネス)だろう。

Twitter上での「議論」を見ていると、その態度は両極端だ。「私が何か言ったところで状況は変わらない」といって押し黙る人たちがいる一方で、「あなたは何も分かっていない」と突然叫び出す人がいる。その中間がないのではないかと思う。つまり、意見表明と意見交換がないのだ。

こうした状況を見ると「Twitterはバカばかりだから議論が成立しないのだ」と言いたくなる。しかし、政治家にも同じような状況が見られる。「支持者」とばかりしか話さない人が意外と多いのだ。学者にも一方的な主張を叫びまくっている人が意外と多いので、知能が高ければ議論ができるというものでもないらしい。

民主主義を健全に保つ為に政治的議論は重要だ。しかし「学校で政治議論を教育しろ」と主張してみても、なんだか楽しくなさそうだ。パーティーをやれば民主主義が盛り上がるという主張の方がなんとなく受け入れられやすいのではないかと思う。

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