PTAと日米文化の違い

菊池桃子さんのPTAは働く親にとって負担が大きいのではないかという発言が支持を集めているという記事を読んだ。日本ではPTAというと、タダ働きを押し付けられて気苦労ばかりというイメージが強い。もともとはGHQが押し付けた制度なのだが、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

まず、これはアメリカの制度なのでアメリカでも問題が起きているのではないかと考えた。確かにPTAには加入しないでPTOを作る学校もあるということで一定の不満はあるようだ。PTAは全米的なピラミッド型の組織になっているようだが、それはいやだという人たちがいるのだろう。

ではPTAやPTOはアメリカでも嫌われているのだろうか。

これについてはアメリカ暮らしを経験した日本人がいくつかの体験談を書いている。まずPTA/PTOはそれほどの負担を求められない。どちらかというと「学校の教育に参加する権利を買っている」という側面が強いようだ。それだけではなく「PTAが寄付を募って先生に渡す」ということすら行われているという。つまり、無償労働だけではなく経済的なサポートもPTAやPTOの役割になっているようだ。これには教会のような寄付文化に慣れているという事情がありそうだ。

大きく違っているのは「アメリカ人はいやなことやメリットのないことはしない」という点である。このためそもそも「自発的に発生した集団でいやいや何かをやる」ということが存在しえない。

PTAに入ると学校の事情がわかり、寄付を通じて学校教育にも参加できるというのがメリットだ。その他、保護者との関わりを持つことができて「コミュニティに参加できる」こともメリットになっている。一方、活動に参加してもそれほど負担になるようなことはないという。

一方日本は強制参加であるうえに一部の暇な保護者たちや実力者に「タダ働きを強制される」ということになっている。中には親と学校の揉め事の仲介者として気苦労を背負わされるということもあるようである。誰がタダ働きを強制しているのかということは実はよくわからないが、先生や教育委員会と心理的に癒着してしまった上層部の人たちが「あるべきPTA像」という空気を押し付けてくるのが日本のPTAということなっている。

この裏側にあるのは「コミュニティに参加はしたくないが」「何かあったら自分の主張を押し付けてくる」人の存在である、いわゆるモンスターペアレントだ。普段から保護者たちとの間に親密な関係があればよいのだが、実は集団の中で孤立するケースは日本の方が多いのではないかとすら思える。

日本でPTAをなくすと多分「言いたいことがある時だけは騒ぎ立てるが、普段は何も協力しない」という親が増えるのではないだろうか。政治を観察するときに「消費者型の有権者」という絵が観察できるのだが、日本人のコミュニティに関する考え方を如実にあわらしている。自分たちが公共を運営して問題も共有するという意識は極めて希薄なのだろう。

そうはいっても「協力したくても協力できないのだ」という親も多いのかもしれない。それは会社組織が学校と同じようなフルコミットメントを求めるからではないかと思った。つまり働いている親は「会社という村」に所属することを求められ、その監視網に置かれる。その上保護者のネットワークに組み入れられてLINEで24時間監視されるようになると神経が持たなくなるのだろう。「どちらもほどほどに」というのは日本人にとって極めて難易度が高い。

この問題を考えていて興味深いのは「わがままな個人主義」であるはずのアメリカではチームワークを発揮してコミュニティが運営できるのに「集団主義で和を重んじる」日本社会の方が集団で孤立感を感じやすいのかということである。

最近「日本人の規範意識」について考えているので、ついその線から分析したくなってしまうわけだが最後にちょっと触れたようにコミュニティの関係が緊密すぎるという問題もありそうだ。「どうしてこんなことが起こるのか」ということを一度整理して考えてみるのも面白いかもしれない。

なおアメリカの学校の方が優れているというように取られてしまうと誤解を生むのでいくつか問題点もあげておきたい。給食が著しく貧相だったり、地区の財政により教育の内容に大きな格差があったりもする。公立学校は予算の捻出に苦労しているところも多いのではないかと思う。さらに最近では銃の問題があり学校で度々殺人が起きている。あくまでも日本のコミュニティを考察する上での参考であって、アメリカの学校制度の方が優れているなどというつもりはない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です