政治的主張とインスタグラム、あるいはまた伸びてしまった安倍政権の支持率について

エイプリルフールの日曜日にぐだぐだとTwitterを見ていた。いつものように無責任にツイートしていたらレスポンスをいただいたのだが「これはどう対処すべきか」と迷った。かなり極端な主張だったからだ。個人的になんとなくいろいろなトラブルを抱えていらっしゃるようなのだが一貫性がない。嘘と断定することもできないのだが、何か虚実入り混じっている感じがある。一つだけ確かなのかこの人がこの主張を様々な議員の所に持ちかけて信じてもらえてなかったという点である。そこで拒絶された人の問題点を探し出して人にふれ回っている可能性がある。誰にも話を聞いてもらえないというのはなかなかしんどいだろうなと思った。

もし、この人がビジュアル系のサービスを持っていると、だいたいどんな人かがわかるのではないかと思った。センスの良し悪しは別にして精神状態がある程度わかるからだ。被写体を探し、構図を決めて、写真を撮影するというのは総合的な作業で、気持ちにある程度の余裕がないとできない。つまり、精神の安定性が写真に出るのである。Twitterは言葉だけのサービスなのでその辺りが判断できないのだ。

ということで、政治的な主張を通した人や困難があってそのことの追求に一生懸命になっている人(実際にTwitterでフォローしている人の中にはそういうアカウントがある)こそ、信ぴょう性を増すために、事象以外のことを呟いたりビジュアル系のサービスを導入すべきだと思った。思っている以上に他人は政治的な呟きだけのアカウントを極端な人格だと捉えている可能性があると思う。例えて言えばコールセンターの人が全ての顧客を「潜在的なクレーマーであり人格破綻者」として扱うのに似ている。だから、様々なソーシャルメディアをつかって「セルフブランディング」すべきなのだ。真実は自然と伝わると考えて「ブランディング」や「マーケティング」を嫌う人もいるだろうが、人は意外と外面しか見ていない。

さて、このことは意外と重要な問題になりつつある。安倍政権の支持率が出たのだが、持ち直しているようである。なぜか支持率の数字の増減だけで安倍政権が正義なのかそうでないかを決める極端な考え方の人が多いようで「森友問題の禊は終わったのだ」などと考える人すら出始めているようだ。ヘッドラインだけではわからないので少し記事を読んでみた。

共同通信の調査について伝えている毎日新聞によると、支持率は若干持ち直したものの、不支持率が高い状況が続いているという。毎日新聞は「内閣支持率増加に転じる」とは書きたくなかったのだろう。タイトルのつけ方を<工夫>している。少なくとも森友の問題が終わったと考えている人は多くないようだ。一方、読売新聞では続落している。たまたま見かけたこの分析によると一旦下がってから、再び持ち直した可能性があるとのことだ。分析は調査の感覚に違いに着目している。

このこと浮かび上がる可能性は「どちらとも言えない」層の一部が内閣不支持に転じ、支持していた人たちの中からも不支持者が出たのだが、佐川証言を聞いて「最悪内閣が倒れることは直近ではなさそうだ」と判断したというものだ。また、デモが盛り上がるのを見て「このままではまたあのデタラメな民主党系の内閣ができて地震とリーマンショックがやってくる」と考えた可能性もあるだろう。意外と「その場の雰囲気で流された人が民主党政権を支えた」と思っている人が多いのではないだろうか。

ここで安倍首相が信任されたなどと主張するつもりはないのだが、野党支持者にとって重要なのは群衆の姿しか見えない「安倍やめろ」コールは、偏った集団にしか見えないということだろう。もちろん政府は文書の一貫性などどうでもよいと感じているのだろうが、野党支持者も「ただ単に安倍政権をやめさせたいだけでしょ」と見られている可能性がある。「プロ市民」といわれる極端な考え方を持っている人たちというイメージだ。

この印象を払拭するためには「普通の市民が怒っていますよ」という印象を与える必要がある。やはり日本人は同調性が高いので自分と同じような人が怒って初めて「そろそろ自分も不支持に転じようかな」などと思うからである。

極端な一部の人が騒いでいると感じられると多くの人は態度を保留しておこうと考え、一部の人はこのままでは大変なことになるといって逆に支持に転じてしまう。決して政府のやっていることを容認しているわけではないのだが、政府側は「禊は終わった」と考えて結局問題をうやむやに処理してしまうのだ。

もちろん報道のやり方を変えるべきだとか、民主党系の諸政党は数合わせのゲームを今やるべきではないなどと思うこともあるのだが、相手をコントロールすることはできないわけで、まずは自分たちの側から戦略的に見せ方を変えてゆくべきだろう。このまま政権不支持が広がらなければ、森と問題は容認される形となる、公式文書の書き換えを容認する国が国際的に受け入れられることはないだろうから、海外からの健全な投資は減ってゆくだろう。これは国力の衰退にもつながることだろう。

インスタでのんきに写真など撮影している場合ではないなどと思うかもしれないのだが、多分この国の将来は不支持層をどう演出するかによって大きく変わってくる可能性があるのではないかと思う。

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問題は村と村の間にある


右側にあるシステム経由で投げ銭をいただきました。テスト的に導入したので入金があるとはおもわず、お礼をどうするか、どう報告するか、ご本人にお礼を出すかなどの詳細を考えていませんでした。毎日あまりあてもなく書いているのでこうした励ましはとてもありがたいです。なお文字数に制限がありメッセージは137文字で切れるようです。いろいろ行き届かず申しわけありません。


貴乃花親方の問題を見ながら、日本の村落共同体について観察している。小さな村落の集まりである日本社会では村と村は緊張関係にある。だから、村を超えた協力は起こらないというような話になりつつある。逆に緊張関係が破られてしまい一つ強い村ができると「ガン化して暴走する」ということだ。村構造には利点もあるが欠点も多い。しかし、日本人は村に慣れ過ぎておりそれ以外の社会統治の仕組みを村統治に置き換えてしまう傾向があるようだ。

観察の過程でわかったのは、すべての問題は個人に落とし込まれるということだ。問題を指摘して改革を起こそうとした人、組織の限界を超えて成長しようとした人などはいじめられて貶められることになる。その時に問題ではなく人格が攻撃されるのが常だ。

今回は貴乃花親方問題について考えたのだが、もともとのきっかけは「日馬富士暴行問題」だった。このブログのタグは今でも日馬富士暴行問題となっている。解決されるべき問題は暴力の根絶だったのだが、いつのまにか部屋の長である親方同士の人格攻撃に矮小化されて鎮圧されてしまった。その過程で日馬富士暴行問題を起こした構造上の問題は解決されることなく、八角理事長が再選されたことで「禊がすんだ」ことになった。

だが、同じような問題はいくらでも見つかる。例えば伊調馨選手の問題は、才能があり国民栄誉賞まで取った伊調馨選手が成長を求めた結果排除されかけたという問題である。大切に扱えばまだ金メダルが取れたかもしれないという問題の他に、成果をあげたのにさらなる成長を目指した結果組織に反逆して潰されかけたということになる。このため「あの人は選手なのか」と存在を無視されかけている。この裏には至学館という村が女子レスリングを支配しているという問題があった。日本人は個人は村の限界を超えて成長してはいけないという掟の中で過ごしており、もし限界に触れてしまうと追放の憂き目にあうということである。フジテレビの取材によると練習場所を提供する大学は極めて少ないそうだが、これは栄監督ら至学館派閥が女子レスリング強化選手の許認可権を握っているので大学側が「忖度しているのだ」という観測がある。この問題がうやむやになれば、成長を目指す日本の女子レスリング選手は海外に拠点を移さざるをえないかもしれない。

またマクドナルドでwi-fiがうまく動作しない問題の裏にはフランチャイズ店と本部がお互いに問題を押し付け合ってあうという事情があった。単にwi-fiをつなぐという問題を解決しようとするとなぜかマクドナルドのフランチャイズ店が本部に不信を持っているという事情がわかってしまうのだが、wi-fiを接続するというコンビニエンスストアでもできているような簡単な問題は解決しない。これは彼らが顧客サービスなどという「どうでも良い問題」には興味がなく、普段からの人間か安慶に夢中になっているからである。

このことから森友学園問題が解決しない理由もわかる。官邸(その実態は特定の経済産業省の官僚らしいのだが)が財務省に干渉することにより内部で問題が処理できなくなった。加えて迫田さんから佐川さんへの引き継ぎが行われてしまい問題の隠蔽に失敗したのだろう。つまりこれは村を超えて起きた問題なのだと言える。問題が大きくなっても安倍官邸や財務省官房(つまり麻生大臣のことだ)は問題を他人事だと考えている。さらに本省と地方組織という問題もある。問題の全容はさっぱりわからないのだが、ニュースを追っていると「誰が悪い」という指の差し合いが始まるので有権者は組織図に詳しくなってしまう。だが組織図は問題を解決しない。安倍首相はこれを財務省が勝手に解決すべき問題だと認識しているし、自民党の議員たちも「安倍政権を変えれば自民党に実害は及ばないかもしれない」などと考える。

問題はいつも村の外にあると誰もが認識しているのだが、実は村と村の際に落ちているということになる。

相撲、女子レスリング、マクドナルドの問題は村と村の争いごとだと考えられる。日本人はそもそも村の争いが大好きなので人間関係や組織図に注目する。ここで誰もが忘れているのは「競争力の低下」という結果だ。村の中の争いに夢中になると外が見えなくなる。例えば、暴力が蔓延している相撲に弟子が集まるはずはないのだから中期的に相撲は弟子を集められなくなるだろう。レスリングは才能のある選手を潰してしまうのだから国際競争に勝てなくなるはずだ。そしてマクドナルドの客はスターバックスやコンビニのイートインスペースへと流れる。内部闘争に夢中になり個人の人格攻撃を繰り返す裏では競争力の低下が起こるということになる。絶対にそうなる稼働かはわからないのだが、どの小競り合いを見ていても競争力低下の結果であり新しい競争力低下の原因になっている。

となると森友問題も実は透明性や法治主義の問題ではないということがわかる。内部で問題が解決できない組織を放置すると国際競争力が低下するのである。多分北朝鮮問題に日本が関与できないという問題は偶然起こったことではないのではないだろうか。同時に、安倍政権を変えたところで日本の競争力は高まらないかもしれない。もちろん、放置することはできないが、かといって変えただけでも問題は解決しないだろう。

問題の原因は実は人にあるわけではなく、村と村の際にあるからだ。

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この国では意味が人を殺す

夢を見た。ある凡庸な男がノートを移すのが上手だという理由で学校に入りどこかに採用される。最初は単純な書写をしていたがそのうち複雑になってきた。彼には何が書かれているのかはさっぱりわからない。しかし、ハネが違っているとか位置が違うと文句を言われるとその通りに書き直さなければならない。最終的にはノートの内容がシールで隠されるようになる。実はシールの下にはこう書いてあったと言うたびに周囲の同僚からざわめきが起こるのだが、シールの下にはまたシールがあり……と続く。

気分的には悪夢だったのだが、起きてから色々と意味を考えた。この男は官僚組織で働いているのではないかと思った。官僚は法律で定められた通りにプロセスを実行するのが仕事であり、その背後に意味や文脈を考えていてはいけない。つまり、わけがわからなくてもその通りに実行することを期待された人たちであると言える。実際にこれが悪夢にならないのは、手順が明確に決まっているからだろう。

ところが現実の官僚組織はそのようには機能しない。それがどうしてなのかはわからないが、彼らなりの価値判断基準があるからだろう。

例えば理財局は「国の財産を適正な価格で売り渡す」べきというミッションがある。つまり悪夢に出てきたように「自分が何を書き写しているのかわからない」という状態にはないはずである。

しかしながら、問題が二つある。一つ目の問題は公益に関わるものである。これは実は憲法改正で大きな問題になっている。

適正な価格というのはどう算出されるのだろう。理財局の場合「いくらで仕入れたか」ということはわからないのだから、実際にはどれくらいの需要があるかということが問題になるのだろう。できるだけ高いお金で売るのがよいのだから、土地は競売にかける必要がある。

では、買い手はどうやって適正な価格がわかるのだろう。それはその土地が算出する価値の一定期間の総和である。何か工場を作るなら、その工場の儲けから人件費と原材料費を差し引いて、経済成長分の価値を割り引いてやれば土地の適正な価格が出る。

ところが今回問題になっているのは公益性があるとされる学校だ。産業は利潤のないところには支出はしないのですぐに利益が上がらない学校のようなものには投資しない。しかし「誰かが」次世代の子供を育てるのを怠れば社会は荒廃するだろう。そこで国が支出して学校を作る。だから学校向けの土地は優先的に提供されてもよいというロジックがみちびきだせる。

しかし、実際には学校は国の補助金を優先的に貰い受けるための言い訳として使われることが多い。公益を考える時、利益計算は度外視して良いという理屈が成り立つからだ。何が公益にあたるかということは「政治の判断」になり、官僚組織が知ることはできない。

憲法改正問題で自民党がやたらと公益を入れたがるのはこのような理屈による。彼らは理屈はわからなくても「公益」と叫べば自分たちの願いが叶うということを知っているのである。だから、曖昧なままで自民党の憲法改正案を推進してしまうと日本経済はほどなくしてガタガタになるだろう。裁判所も官僚も公益性を判断できないのだから、全ての憲法規範に党の意思決定が優先することになる。理屈としては中間人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国と同じ体制になるということなのだが、東アジアで同じ指向性の国が出てくるというのは理由はわからないにせよ重要な視点なのではないかと思う。。

ところが、官僚組織が押し付けられた意味はこれだけではなかった。これが二番目の問題点である。

今回、日本会議の影響があったと言われているわけだが、日本会議は日本の伝統が守られるべきだと考えている。神道の影響があるので政教分離の原則から見ると政治との関係は不適切なのだが、実際には宗教と政治は密接な関係がある。あるものをないと言わなければならない。さらに籠池夫妻がどれくらい日本会議を本当に信じていたのかは曖昧である。単に商売としての学校経営に有利だからという理由でお近づきになっていた可能性もある。つまり、宗教という合理性とは別の価値判断が入ったためにさらに状況が複雑になった。ここによくわからないままで安倍昭恵さんが入ってきて話はさらに複雑になった。この人がどう関わっているのかは結局よくわからなかった。しかし「よくわからない」という点だけが重要である。

現場の人はよくわからなかったので「政治から要請があった」と書いた。それが妥当なことなのかということは彼らにはよくわからないし、よくわからなくても構わなかったはずである。

ところがここで問題が起こる。首相が「関与があったらやめるし役所が適切に処理している」と国会で不規則発言をしてしまったからだ。何が関与なのかという定義が曖昧な上に、ここで首相と学校の関係を証明できれば首相は嘘を言ったということになりやめなければならないという別の意味も生まれた。

このように森友学園問題にはいくつもの曖昧さと意味が生まれているので、もし本当に原因が解明したいなら複雑な意味を取り除いてやる必要がある。少なくとも「首相退陣」と「役人の道義的責任」は取り除いてやる必要があるだろう。しかし、感情的に一年以上も滞ったものがあり「冷静に判断しろ」というのは無理な話なのだろう。

合理性のない意味が政治を動かしている。しかし、籠池夫妻は「この学園には首相が応援している思想が入っており、夫人の関与がある」という意味をほのめかさなければ土地は手に入れられなかっただろう。また、首相が「関与があったらやめる」などとこの件に意味を与えなければ(たとえ野党がそう主張しても)理財局長は嘘の答弁をしなくても済んだであろう。つまり、誰かの発言が意図しない意味をうみ、意味が人を動かした。

さらに、財務省は「いったん行った答弁は絶対に間違っていない」と考えた。これは財務省がプライドの高い館長でありメンツがかかっていたからである。組織として守るべき別の意味が生まれた。さらに現場担当職員は「財務省は適正な値段で国有財産を処分しなければならない」と考えておりその証拠を文章に残そうとした。そうしないと後で犯罪や責任問題に発展しかねないし、職業倫理的にも許されないと考えたのだろう。これを遡って消されてしまったことで「あってはならないことが起きた」と感じた。

つまり、意味の入る余地がなければ、この問題がここまで大きく複雑になることはなかっただろう。国会審議が一年に渡って紛糾するはずはなかったはずだし、何よりも人が何人かが亡くなることはなかったはずだ。

意味はどこに生まれるのか。それは人と人との間に生じる。決して誰か一人の人が何かを言ったからと言って生じることはない。それは目には見えず、あとから厳密に観察はできない。それでも意味は存在する。

森友事件で、職員たちは意味に殺されたということになる。日本は意味が社会的生命を奪ったり人を殺す化け物になる国なのだ。

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森友問題と安全保障 – 安倍こそが国難の本当の意味

多くの人が森友問題について考えている。様々な分析ツールが提供されておりそれを眺めるだけでも楽しい。ある人は官僚主義の類型について語り、またある人はゲーム理論として捉えているという具合だ。このブログでは主に隠された文化様式について考えている。例えば文脈とか小利権集団としての村などの構造である。

日本人は文脈と事実を分離して考えることができないので、後から分析することができないという結論が得られた。事実そのものが解釈なしには成り立たないので。後から検証しようとすると観察者の主観が入り事実そのものが変化してしまうのである。だから事実解明のための証人喚問は役に立たない。証人喚問は人民裁判としての意味合いしか持たないのだ。

実際、太田理財局長は自民党から公開懲罰を受けている。西田昌司議員は明らかに「理財局が自民党を騙した」というストーリーで太田さんを攻め立てており、空気を読んだ太田さんもまた西田さんのストーリーにあった供述をしていた。

例えば安倍昭恵さんが証人喚問されたとしても彼女がどう考えていたかという解釈が中心になる。ある時点では政治に介入する意図を持って口出しをしていたのかもしれないのだが、正確にはそれを政治課題だとは思っていなかった可能性もある。しかし、当初の意図が明確でなかった分、のちに証人喚問されれば、与党のストーリーに従って「何も知らなかった」と答え、野党のストーリーに従い「私が悪かった」などと言い出すかもしれない。

同じことが佐川元理財局長にも言える。もともと佐川理財局長は安倍首相の不規則発言(首相も議員も辞めますよ)をカバーしようとして泥沼にはまってゆくのだが、そもそも「関与の定義」もわからない上に、今では立場も変わってしまっている。だから、事実を調査したいなら本来はアンダーテーブルで行うべきなのである。

これまで森友問題を理財局と官邸の問題として扱ってきた。だから証人喚問をやっても意味がないが、ショーとして楽しみたいならそれでも構わないと思っていた。しかし、ちょっと状況が変わってきている。

森友問題の本質の一つに「官僚機構という意味の積み重ね」が突発的で曖昧な圧力に極めて弱いという問題がある。籠池夫妻は半ば戦略的に日本会議や首相夫人との関係をほのめかしつつ理財局に圧力をかけたのだが、全体として自分が何をやっているかよくわかっていなかった様子がうかがえる。安倍昭恵さんも自分の立場をわきまえずにふらふらと行動し、公務員を自分の私設秘書のように使っていたようだ。つまり、この3人は官僚機構にとって異物でありそれが毒として作用したのだ。毒のせいで意味が伝わらなくなり、結果として嘘が蔓延し、少なくとも一人以上の死者が出た。

ここで重要なのは籠池理事長夫妻は理不尽なディールメーカーでありお金のない自分たちが土地を手に入れるためにありとあらゆる手段を使ってきたという点だ。

さて、これと似たような環境が現在できつつある。それがトランプ政権である。トランプ大統領は典型的なディールメーカーである。ディールメーカーとは自分が有利な条件で取引するためにありとあらゆる手段を使って相手を揺さぶる人だ。最近では北朝鮮情勢と韓国のFTAを混ぜて話をしている。さらに、ティラーソン国務長官をTwitterで解任した。

トランプ政権はコミュニケーションパスや一貫性を気にしない。それどころか曖昧さを利用してディールを仕掛けてくる。専門家は次のように見立てている。

引用されている記事には要約が書いてある。

  • President Donald Trump appeared to threaten to pull U.S. troops out of South Korea if he didn’t get his way on trade with Seoul, The Washington Post reported Wednesday.
  • “We lose money on trade, and we lose money on the military. We have right now 32,000 soldiers between North and South Korea. Let’s see what happens,” Trump said, according to audio obtained by the Post.

これまでも、韓国が同意しなければ自由貿易協定から離脱するということは言い続けてきたようだが、今度は在韓米軍を退却させるという脅しをかけたようである。32000人が引き上げたらどうなるか見てみようと発言したというのである。

これは日本の安全保障にも大きな影響がある。不安になった韓国が文化的により親密度が高い中国に接近することは明らかだからだ。韓国が共産化することはないだろうが、これは東アジアにアメリカの同盟国としての日本が取り残されるということを意味しているばかりか、アメリカは日本にも同じような働きかけをしかねない。実際に「安倍首相と北朝鮮問題について話し合うついでに日本市場の解放について話した」とTweetした。

こうした恫喝に対抗するためには、まず国益を明確にした上で、官邸が本気になって部門調整をして、トランプ政権に対処してゆくしかない。しかしながら、そもそもそのようなディールメーカーに弱い上に、安倍政権は「政権浮揚のためにはトランプ大統領の気持ちをつなぎとめておかなければならない」という心理的な依存も強そうである。さらに日本政府と日本の官僚組織との関係も悪化している。財務省を「トカゲの尻尾」扱いしてしまったわけだから、他の省庁も同じような目に遭いかねないと警戒されても不思議ではない。

担当者が何人か亡くなっているし8億円の値引きが絡んでいるので「この程度のこと」などと言ってはいけないのだろうが、それでもまだ日本の安全保障問題と比べると「この程度のこと」である。なぜならば土地が不正に払い下げられたとしてもそのこと自体で命が失われることはないからだ。

しかし、これが国の安全保障の問題になるとどうだろうか。国のトップの意思決定の誤りがそのまま多くの人命に関わる。たとえば自衛官がなくなるということもあり得るだろうし、ことによってはそれではすまされないかもしれない。いったんなんらかの問題が起これば「情報を隠蔽した」とか「官僚の面子が」などという問題では済まされない。

ということで、本来ならば保守を自称する人たちの方が深刻にこの問題を捉える必要がある。ブログの片隅でやや反政府的な傾向のある人が心配しても本気にはしてもらえないだろうが、日本の存続にとって大きな危機が訪れようとしている。北朝鮮の問題は外務省と防衛省がうまくやってくれているだろうと考えている人が多いのだろうが、実際には官僚組織は不規則な揺さぶりに弱い。

これまでの問題は、安倍政権がリスクを扱えるかという問題だったわけだが、この程度の問題すらマネージできない人たちが北朝鮮情勢などコントロールできるはずはない。その意味では「安倍こそが国難」という指摘にはきちんとした根拠がある。

森友学園の問題について深刻に捉えるならば選挙のための儀式として財務官僚を叩くのはやめたほうが良い。それよりも実際に何が起きていたのか、安倍官邸に関係がない人が真剣に調査すべきである。野党の協力も得て、次の政権を担う自民党のリーダーを早く決めたほうが良い。

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粛清を求める人たちとその行く末

森友問題でいよいよ佐川国税庁元長官が証人喚問されるそうである。一方で安倍昭恵さんは招致されない。自民党は財務省に責任を押し付けて政治は知らなかったという所を落とし所にするのだろう。しかし、佐川さんを血祭りにあげたところで国民は納得しないだろう。すでに西田さんというネトウヨ議員が歌舞伎ばりに理財局長を吊るし上げたが「どうせ芝居だろう」と見抜かれてしまっている。そこで、どうやって自民党政権に痛みがあるように「見せるか」というのが次の焦点になりそうである。

日本人は言葉を信頼しない。もともと正解があってその正解に合わせて言葉を作るからだ。本質的な議論はアンダーテーブルで行われることを知っている。だからそのアンダーテーブルの議論に一定期間(あるいは永遠に)参加できないことだけが「本当の反省」を示す手段になる。だからすぐに「辞めさせろ」ということになるわけである。

しかし、誰かを血祭りにあげても安倍政権は倒れないであろう。これは、安倍昭恵さんを国会に引っ張り出してきてマリーアントワネットのように断罪し、安倍首相の「処刑」を望む人たちの欲求が満たされないということである。それは皮肉なことだが、日本が法治国家だからである。法治国家では裁判なしに人を裁くことはできないし、国会は裁判の場所ではない。

この戦いに勝利しそうなのは、実は自民党の反主流派の人たちである。安倍官邸側に「貸し」を作ることになるからだ。野党もこれに乗らざるをえない。なぜならば国会に出てこないと自分たちの利権を守ることができないばかりか、存在感も示すことができない。野党は佐川元理財局長に対する証人喚問が行われることで国会を「正常化」することに決めたらしい。

つまり、左翼の人たちはいずれにせよ勝利を手にすることはできないことになる。

怖いのはその反動である。

3.11後の原発反対運動を思い返すとよくわかるのだが、盛り上がったあとで「何も達成できなかった」という揺り戻しが来る。確かに彼らの主張通り原発がなくても電源が足りているということは証明できたし、多くの人が集まってくることによる連帯感も確認ができた。しかし、結果的に彼らの声は無視された。日本は小集団の利権で動く国であって、反対運動にはその場の盛り上がり以上の意味はない。そしてそのあと「あんな戦いに参加しても達成感が得られない」ということになってしまい、運動は縮小した。あの時「原子力発電所はなくしてしまえ」といって盛り上がっていた人たちは「憲法第9条は戦争への道」といういつもながらのスローガンに逃げ込むか、「もともとお付き合いで参加していただけだ」としか言わなくなった。

断罪に期待感を抱いている人はいますぐその希望を捨てるべきだと思う。野党に裏切られたあとで揺り戻しがくることは明白だからである。

日本の政治を健全なものにしたいという意識があるのなら、まずは「立憲主義を取り戻す」とか「法治主義の破壊は絶対にダメだ」などというスローガンを捨て去らなければならない。代わりに法治主義や立憲主義が何のために存在するのかを真面目に勉強しなければならないのだが、そのためにはそれが機能している国を実際に体験する必要がある。

実際には左翼の人もまた正解に支配されている。だから、民主主義という探索型の行動が理解できない。

安倍首相を避難している人たちは最初から「安倍はダメ」という正解を決めてしまっており、あるべきストーリーを設定し、そのストーリーに固執し続ける。現在安倍政権の説明は完全に破綻しているが、それはネトウヨの人たちにとってはどうでも良いことだ。安倍政権がそれを主張していているという事実だけが大切なのである。こうしたメンタリティが成り立つのは、実は説明の内容などどうでもよいからである。

しかし、左翼の人もまた同じ行動パターンを持っている。法治主義や立憲主義が絶対だと思い込んでいる。これは野党がそう言っているからである。野党もまた権威付けのために憲法学者などを利用するのだが、彼らの中には憲法は国際法規よりも上位にあると主張する人たちがいるそうである。

この両者は政治的に対極にいるように思えるのだが、実は小さな村を形成しているという意味では似通っている。お互いにすでに排除された経験を持っているので、ことさら何らかの権威にしがみつくのだろう。

現在、官僚機構に何らかの問題が起きており、その問題のせいで何人かが亡くなったということはたしかになっている。これは官僚組織という「意味の人間ピラミッド」が破綻しており、その破綻を支えきれなくなっているということを意味する。本来なら何が破綻しているかを突き止めて、その原因を取り除いてやる必要がある。

しかし、実際に行われていることはその破綻を誰かのせいにして自己の正当化を図ろうという浅はかな試みだ。政権側は官邸が間違いをおかしたとして国会の場で官僚を恫喝して見せた。しかし、反対側の人たちも実は安倍昭恵さんらを恫喝して見せしめにしようとしている。そして政治家は「どっちに乗ったら今後得なのか」を考えて様々な発言を繰り返している。

このままでは矛盾が起きるたびに誰かを血祭りにあげる粛清国家が出来上がり、その度に派閥などの小勢力が得をするという不毛な社会が作られるだろう。

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私が村落共同体について考えた理由

先日来安倍昭恵さんについて書いたところ、例によってアクセスが伸びた。彼女を国会に招致して吊るし上げるべきだと考えている人が多いのだろう。ページビューのためには同じような記事を書くべきだとは思うのだが、今回はちょっと違ったことを書く。そもそもなぜ、役に立ちそうもない村落共同体について書いているのかということである。


先日あるTweetが目に付いた。その人は、議論を行うのは「コントリビュート」するためだと主張する。その上で、コントリビュートがない議論はゴールポストの移動が起こり不毛なものになりやすいというのだ。バックグラウンドがわからないのに口をはさむのも申し訳なかったのだが、面白そうだったので引用しない形で、そもそもコントリビュートする対象がない議論が多いのではないかというようなことをつぶやいた。

特に会話が成り立ったわけではないのだが、一つわかったことがある。それは日本型の村落共同体について書こうと思ったきっかけである。

Twitterでフォローしているだけの人が「議論とコントリンビュート」について語るのを聞いただけである程度反応ができるのは、これが欧米では(少なくとも英語圏では)当たり前に行われる議論だからである。

例えば英語の学校では授業中に議論に参加しているかどうかというのは査定の対象になる。もし議論に参加していないと「授業を作る貢献をしていない」とみなされるのである。ではなぜ議論は貢献なのだろうか。

日本の授業の目的は先生が提示する正解を覚えることにある。それはもともと西洋的な近代化が教育の目的であり、正解が外にあったからだ。大学の先生は正解を研究したノートを毎年使っているし、高校以下だと教育指導要領という正解がある。

こうした正解思考は早いうちから植え付けられる。小学校では先生が正解だとしつけらえれる。例えば最初は観察の結果から「太陽が動くから影が動く」と教えられ、やがて「実は地球が動いている」と習う。だから、地球が動いていることを習わない間は「天動説」で答えないと罰せられてしまうそうである。それは先生が知っていて教えたことだけが正解だからである。それに逆らうことは決して許されないのだ。

ところが英語圏の学校では、先生が問題を出しそれを生徒が考えるというアプローチを取る。それは西洋へのキャッチアップを目的にしていないからだ。しかし、学生が授業に参加しないと授業そのものが成立しない可能性がある。だから授業への貢献が求められるのである。

ここで大切なのはある程度英語圏の文化に接した人なら誰でも「コミュニティを作ってゆく」ということについて意識を持っているということである。つまり、これは明示的な文化であり、なおかつ日本人でも覚えることができるということを意味している。

これが村落共同体について書こうと考えた理由だ。日本には明示的な習慣がない。にもかかわらずある程度前提としている文化が存在する。だから西洋的な民主主義が破壊されても国が壊れたりしないのである。

もともと日本の村落には「環境が所与である」という限定条件がありそれを動かすことができなかった。しかしコミュニティそのものは狭いのでその場その場で判断してもそれほど大きな間違いは起きなかった。また、文化的には似たような背景を持った人たちが集まっており他者もいないので、明示的に文化について説明をする必要はなかった。だから、意思決定のプロセスを明文化する必要などなかったのである。

冒頭の「ゴールを動かす」という指摘が重要なのは(ご本人がどう思ったかどうかは別にして)議論のパラメータが自由に動かせると思った時に、ゴールだけでなくさまざまなパラメータを操作することで利害調整や問題解決が面倒になってしまう可能性があるということを示しているからだ。

例をあげてみよう。例えば最近の国会では「仮定の質問には答えられない」という謎ルールが横行している。この仮定の質問というのが何を意味するのかがわからない人が多いようで、様々な反発を呼んでいる。例えば、北朝鮮が核ミサイルを日本に打つとか朝鮮半島で有事が起こりアメリカ軍の艦船が日本人家族を日本列島に移送するというのも仮定なのだが、それは政府のいう仮定ではない。

政府の考える仮定はある正解を導くために作られたストーリーである。ところが、野党にはそのストーリーが破綻する仮定がある。なぜならば与党に政権担当能力がないと証明することが彼らの最大の関心事であり利益だからである。だから政府は野党の仮定の質問には答えられないのである。

これは安全神話である。原発を推進したい人たちは「絶対に地震は起きない」し「核の再利用の技術はいずれ完成する」という前提で話を進めようとする。だが、絶対に地震が起きない保証などない。しかし、地震の可能性を入れてしまうと計算結果が狂う可能性が高いので「野党の仮定には答えられない」という。しかし、野党もまた「原発は大惨事を招く」という前提を持っている。逆安全神話と呼んでも良い。

そもそも議論をするのは貢献があるからで、貢献が必要なのは正解がないからだった。しかしながら、日本人は最初に村落の利害があり、そこから望ましい正解が作られ、その正解を導き出すために材料を集めるというルートをとる。だから、そもそも議論が成立しないのである。考えてみれば極めて単純な話なのだ。

民主主義というのは、一定の人たちが代表者を送り込み「正解を決めて行く」というプロセスのことである。だから多数派も少数派もそれぞれの意見を持ち寄って議論を行い、正解を組み上げて行かなければならない。この集まりを国民と呼ぶ。

しかしながら、日本にはこうした「国民」という前提はなさそうだ。その代わりにお互いに干渉しない村落がある。この村落の利益を持ち寄って、政党という閉ざされた空間で「根回し」をして、最終的に議会での儀式的な議論を経て国民に下賜するという方式をとっている。

このように日本人にはかなり明確な行動様式があるのだが、それが明示されないためにわかりにくい。このことはいくつかの弊害を生んでいる。

第一に、日本は民主国家であると錯誤する人が出てくる。日本の民主主義は後付けの権威付けに過ぎないのだが、それを本質だと習いそのまま信じ込む人が出てくるということになる。そしてそのことが我々を苦しめる。Twitterをみると日本は民主主義国家であり安倍首相から法治主義を取り戻さなければならないと主張している。

仮に日本に法治主義があったとしたら取り戻すことも可能なのだろうが、そうでないとしたら法治主義に基づいて国を運営し始めた途端に日本は崩壊するはずだ。この人たちは民主党政権で何が起こったのかを理解していないのであろう、彼らは型通りに政党主導型の民主主義を運営しようとして失敗した。

だから日本は法治国家でも西洋的な民主主義国家でもないと知るのはとても大切なのだ。

だがもっと深刻なのは安倍政権である。彼らは財務省幹部の人事という長期的利害に首を突っ込んだ。しかし、財務省のオペレーションそのものについては大した関心を寄せなかった。そして、結局はその力を自分たちの官邸村と安倍総理のお友達村への利益誘導に使おうとした。

つまり、政治の世界がかつて持っていた村の構造を壊してしまったことになる。このため財務省は何が自分たちの利益を守るのかという彼らにとって本質的なことがわからなくなってしまう。そこで担当役人は「自分を守るために経緯を事細かく書いた」文章を契約文書に残すのだが、それは幹部によってもみ消されてしまう。その結果起こったのが文書改竄事件である。

もし、安倍政権がルースベネディクトのような人を雇い、現代版菊と刀を書いていればこんなことにはならなかっただろう。彼らは断片的に「財務省の利権構造を直接操作すれば国を変えられる」ということにまでは気がついたのだが、自分たちもまた村落共同体であるということには気がつかなかった。さらに、意思決定プロセスに首をつっこむということはオペレーションを操作することだということもわからなかった。だから政治は混乱しているし、これから長い時間をかけてこの混乱を収拾する必要がある。

野党がやろうとしているのはこの点ではとても「間抜け」である。日本では指示は明確な形では行われず、間接的に利害関係についてほのめかす形で誘導される。なぜならば官邸はオペレーションを知らないし興味もないので直接指示が下せないからである。

安倍首相にとって「関与」とは形式的で儀式的な指示命令を指している。これに安倍昭恵さんが関われなかったのは当然であり、現場に興味がない安倍晋三さんが関われるわけでもない。だから、この線で押しても野党は自分たちの主張を証明できない。しかし、これに問題があったことを説明するためには、日本では形式的な民主主義の他に本質的な意思決定のプロセスがあ流ことを認めなければならない。すると野党が言っている「立憲主義」とか「法治主義」を取り戻せなどいうことはそもそも意味がなくなってしまう。そしてそれが立憲民主党などの野党への支持がない最大の理由なのだろう。

私たちを包んでいる行動様式と意思決定プロセスは目に見えない空気のように我々を包んでいる。前に進むにしても、後ろに下がるにしても空気ついて知らなければならないほどのところまできているようだ。現に知らないことでかなりの政治リソースが消尽されてるのは確かである。

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