政治的主張とインスタグラム、あるいはまた伸びてしまった安倍政権の支持率について

エイプリルフールの日曜日にぐだぐだとTwitterを見ていた。いつものように無責任にツイートしていたらレスポンスをいただいたのだが「これはどう対処すべきか」と迷った。かなり極端な主張だったからだ。個人的になんとなくいろいろなトラブルを抱えていらっしゃるようなのだが一貫性がない。嘘と断定することもできないのだが、何か虚実入り混じっている感じがある。一つだけ確かなのかこの人がこの主張を様々な議員の所に持ちかけて信じてもらえてなかったという点である。そこで拒絶された人の問題点を探し出して人にふれ回っている可能性がある。誰にも話を聞いてもらえないというのはなかなかしんどいだろうなと思った。

もし、この人がビジュアル系のサービスを持っていると、だいたいどんな人かがわかるのではないかと思った。センスの良し悪しは別にして精神状態がある程度わかるからだ。被写体を探し、構図を決めて、写真を撮影するというのは総合的な作業で、気持ちにある程度の余裕がないとできない。つまり、精神の安定性が写真に出るのである。Twitterは言葉だけのサービスなのでその辺りが判断できないのだ。

ということで、政治的な主張を通した人や困難があってそのことの追求に一生懸命になっている人(実際にTwitterでフォローしている人の中にはそういうアカウントがある)こそ、信ぴょう性を増すために、事象以外のことを呟いたりビジュアル系のサービスを導入すべきだと思った。思っている以上に他人は政治的な呟きだけのアカウントを極端な人格だと捉えている可能性があると思う。例えて言えばコールセンターの人が全ての顧客を「潜在的なクレーマーであり人格破綻者」として扱うのに似ている。だから、様々なソーシャルメディアをつかって「セルフブランディング」すべきなのだ。真実は自然と伝わると考えて「ブランディング」や「マーケティング」を嫌う人もいるだろうが、人は意外と外面しか見ていない。

さて、このことは意外と重要な問題になりつつある。安倍政権の支持率が出たのだが、持ち直しているようである。なぜか支持率の数字の増減だけで安倍政権が正義なのかそうでないかを決める極端な考え方の人が多いようで「森友問題の禊は終わったのだ」などと考える人すら出始めているようだ。ヘッドラインだけではわからないので少し記事を読んでみた。

共同通信の調査について伝えている毎日新聞によると、支持率は若干持ち直したものの、不支持率が高い状況が続いているという。毎日新聞は「内閣支持率増加に転じる」とは書きたくなかったのだろう。タイトルのつけ方を<工夫>している。少なくとも森友の問題が終わったと考えている人は多くないようだ。一方、読売新聞では続落している。たまたま見かけたこの分析によると一旦下がってから、再び持ち直した可能性があるとのことだ。分析は調査の感覚に違いに着目している。

このこと浮かび上がる可能性は「どちらとも言えない」層の一部が内閣不支持に転じ、支持していた人たちの中からも不支持者が出たのだが、佐川証言を聞いて「最悪内閣が倒れることは直近ではなさそうだ」と判断したというものだ。また、デモが盛り上がるのを見て「このままではまたあのデタラメな民主党系の内閣ができて地震とリーマンショックがやってくる」と考えた可能性もあるだろう。意外と「その場の雰囲気で流された人が民主党政権を支えた」と思っている人が多いのではないだろうか。

ここで安倍首相が信任されたなどと主張するつもりはないのだが、野党支持者にとって重要なのは群衆の姿しか見えない「安倍やめろ」コールは、偏った集団にしか見えないということだろう。もちろん政府は文書の一貫性などどうでもよいと感じているのだろうが、野党支持者も「ただ単に安倍政権をやめさせたいだけでしょ」と見られている可能性がある。「プロ市民」といわれる極端な考え方を持っている人たちというイメージだ。

この印象を払拭するためには「普通の市民が怒っていますよ」という印象を与える必要がある。やはり日本人は同調性が高いので自分と同じような人が怒って初めて「そろそろ自分も不支持に転じようかな」などと思うからである。

極端な一部の人が騒いでいると感じられると多くの人は態度を保留しておこうと考え、一部の人はこのままでは大変なことになるといって逆に支持に転じてしまう。決して政府のやっていることを容認しているわけではないのだが、政府側は「禊は終わった」と考えて結局問題をうやむやに処理してしまうのだ。

もちろん報道のやり方を変えるべきだとか、民主党系の諸政党は数合わせのゲームを今やるべきではないなどと思うこともあるのだが、相手をコントロールすることはできないわけで、まずは自分たちの側から戦略的に見せ方を変えてゆくべきだろう。このまま政権不支持が広がらなければ、森と問題は容認される形となる、公式文書の書き換えを容認する国が国際的に受け入れられることはないだろうから、海外からの健全な投資は減ってゆくだろう。これは国力の衰退にもつながることだろう。

インスタでのんきに写真など撮影している場合ではないなどと思うかもしれないのだが、多分この国の将来は不支持層をどう演出するかによって大きく変わってくる可能性があるのではないかと思う。

問題は村と村の間にある


右側にあるシステム経由で投げ銭をいただきました。テスト的に導入したので入金があるとはおもわず、お礼をどうするか、どう報告するか、ご本人にお礼を出すかなどの詳細を考えていませんでした。毎日あまりあてもなく書いているのでこうした励ましはとてもありがたいです。なお文字数に制限がありメッセージは137文字で切れるようです。いろいろ行き届かず申しわけありません。


貴乃花親方の問題を見ながら、日本の村落共同体について観察している。小さな村落の集まりである日本社会では村と村は緊張関係にある。だから、村を超えた協力は起こらないというような話になりつつある。逆に緊張関係が破られてしまい一つ強い村ができると「ガン化して暴走する」ということだ。村構造には利点もあるが欠点も多い。しかし、日本人は村に慣れ過ぎておりそれ以外の社会統治の仕組みを村統治に置き換えてしまう傾向があるようだ。

観察の過程でわかったのは、すべての問題は個人に落とし込まれるということだ。問題を指摘して改革を起こそうとした人、組織の限界を超えて成長しようとした人などはいじめられて貶められることになる。その時に問題ではなく人格が攻撃されるのが常だ。

今回は貴乃花親方問題について考えたのだが、もともとのきっかけは「日馬富士暴行問題」だった。このブログのタグは今でも日馬富士暴行問題となっている。解決されるべき問題は暴力の根絶だったのだが、いつのまにか部屋の長である親方同士の人格攻撃に矮小化されて鎮圧されてしまった。その過程で日馬富士暴行問題を起こした構造上の問題は解決されることなく、八角理事長が再選されたことで「禊がすんだ」ことになった。

だが、同じような問題はいくらでも見つかる。例えば伊調馨選手の問題は、才能があり国民栄誉賞まで取った伊調馨選手が成長を求めた結果排除されかけたという問題である。大切に扱えばまだ金メダルが取れたかもしれないという問題の他に、成果をあげたのにさらなる成長を目指した結果組織に反逆して潰されかけたということになる。このため「あの人は選手なのか」と存在を無視されかけている。この裏には至学館という村が女子レスリングを支配しているという問題があった。日本人は個人は村の限界を超えて成長してはいけないという掟の中で過ごしており、もし限界に触れてしまうと追放の憂き目にあうということである。フジテレビの取材によると練習場所を提供する大学は極めて少ないそうだが、これは栄監督ら至学館派閥が女子レスリング強化選手の許認可権を握っているので大学側が「忖度しているのだ」という観測がある。この問題がうやむやになれば、成長を目指す日本の女子レスリング選手は海外に拠点を移さざるをえないかもしれない。

またマクドナルドでwi-fiがうまく動作しない問題の裏にはフランチャイズ店と本部がお互いに問題を押し付け合ってあうという事情があった。単にwi-fiをつなぐという問題を解決しようとするとなぜかマクドナルドのフランチャイズ店が本部に不信を持っているという事情がわかってしまうのだが、wi-fiを接続するというコンビニエンスストアでもできているような簡単な問題は解決しない。これは彼らが顧客サービスなどという「どうでも良い問題」には興味がなく、普段からの人間か安慶に夢中になっているからである。

このことから森友学園問題が解決しない理由もわかる。官邸(その実態は特定の経済産業省の官僚らしいのだが)が財務省に干渉することにより内部で問題が処理できなくなった。加えて迫田さんから佐川さんへの引き継ぎが行われてしまい問題の隠蔽に失敗したのだろう。つまりこれは村を超えて起きた問題なのだと言える。問題が大きくなっても安倍官邸や財務省官房(つまり麻生大臣のことだ)は問題を他人事だと考えている。さらに本省と地方組織という問題もある。問題の全容はさっぱりわからないのだが、ニュースを追っていると「誰が悪い」という指の差し合いが始まるので有権者は組織図に詳しくなってしまう。だが組織図は問題を解決しない。安倍首相はこれを財務省が勝手に解決すべき問題だと認識しているし、自民党の議員たちも「安倍政権を変えれば自民党に実害は及ばないかもしれない」などと考える。

問題はいつも村の外にあると誰もが認識しているのだが、実は村と村の際に落ちているということになる。

相撲、女子レスリング、マクドナルドの問題は村と村の争いごとだと考えられる。日本人はそもそも村の争いが大好きなので人間関係や組織図に注目する。ここで誰もが忘れているのは「競争力の低下」という結果だ。村の中の争いに夢中になると外が見えなくなる。例えば、暴力が蔓延している相撲に弟子が集まるはずはないのだから中期的に相撲は弟子を集められなくなるだろう。レスリングは才能のある選手を潰してしまうのだから国際競争に勝てなくなるはずだ。そしてマクドナルドの客はスターバックスやコンビニのイートインスペースへと流れる。内部闘争に夢中になり個人の人格攻撃を繰り返す裏では競争力の低下が起こるということになる。絶対にそうなる稼働かはわからないのだが、どの小競り合いを見ていても競争力低下の結果であり新しい競争力低下の原因になっている。

となると森友問題も実は透明性や法治主義の問題ではないということがわかる。内部で問題が解決できない組織を放置すると国際競争力が低下するのである。多分北朝鮮問題に日本が関与できないという問題は偶然起こったことではないのではないだろうか。同時に、安倍政権を変えたところで日本の競争力は高まらないかもしれない。もちろん、放置することはできないが、かといって変えただけでも問題は解決しないだろう。

問題の原因は実は人にあるわけではなく、村と村の際にあるからだ。

この国では意味が人を殺す

夢を見た。ある凡庸な男がノートを移すのが上手だという理由で学校に入りどこかに採用される。最初は単純な書写をしていたがそのうち複雑になってきた。彼には何が書かれているのかはさっぱりわからない。しかし、ハネが違っているとか位置が違うと文句を言われるとその通りに書き直さなければならない。最終的にはノートの内容がシールで隠されるようになる。実はシールの下にはこう書いてあったと言うたびに周囲の同僚からざわめきが起こるのだが、シールの下にはまたシールがあり……と続く。

気分的には悪夢だったのだが、起きてから色々と意味を考えた。この男は官僚組織で働いているのではないかと思った。官僚は法律で定められた通りにプロセスを実行するのが仕事であり、その背後に意味や文脈を考えていてはいけない。つまり、わけがわからなくてもその通りに実行することを期待された人たちであると言える。実際にこれが悪夢にならないのは、手順が明確に決まっているからだろう。

ところが現実の官僚組織はそのようには機能しない。それがどうしてなのかはわからないが、彼らなりの価値判断基準があるからだろう。

例えば理財局は「国の財産を適正な価格で売り渡す」べきというミッションがある。つまり悪夢に出てきたように「自分が何を書き写しているのかわからない」という状態にはないはずである。

しかしながら、問題が二つある。一つ目の問題は公益に関わるものである。これは実は憲法改正で大きな問題になっている。

適正な価格というのはどう算出されるのだろう。理財局の場合「いくらで仕入れたか」ということはわからないのだから、実際にはどれくらいの需要があるかということが問題になるのだろう。できるだけ高いお金で売るのがよいのだから、土地は競売にかける必要がある。

では、買い手はどうやって適正な価格がわかるのだろう。それはその土地が算出する価値の一定期間の総和である。何か工場を作るなら、その工場の儲けから人件費と原材料費を差し引いて、経済成長分の価値を割り引いてやれば土地の適正な価格が出る。

ところが今回問題になっているのは公益性があるとされる学校だ。産業は利潤のないところには支出はしないのですぐに利益が上がらない学校のようなものには投資しない。しかし「誰かが」次世代の子供を育てるのを怠れば社会は荒廃するだろう。そこで国が支出して学校を作る。だから学校向けの土地は優先的に提供されてもよいというロジックがみちびきだせる。

しかし、実際には学校は国の補助金を優先的に貰い受けるための言い訳として使われることが多い。公益を考える時、利益計算は度外視して良いという理屈が成り立つからだ。何が公益にあたるかということは「政治の判断」になり、官僚組織が知ることはできない。

憲法改正問題で自民党がやたらと公益を入れたがるのはこのような理屈による。彼らは理屈はわからなくても「公益」と叫べば自分たちの願いが叶うということを知っているのである。だから、曖昧なままで自民党の憲法改正案を推進してしまうと日本経済はほどなくしてガタガタになるだろう。裁判所も官僚も公益性を判断できないのだから、全ての憲法規範に党の意思決定が優先することになる。理屈としては中間人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国と同じ体制になるということなのだが、東アジアで同じ指向性の国が出てくるというのは理由はわからないにせよ重要な視点なのではないかと思う。。

ところが、官僚組織が押し付けられた意味はこれだけではなかった。これが二番目の問題点である。

今回、日本会議の影響があったと言われているわけだが、日本会議は日本の伝統が守られるべきだと考えている。神道の影響があるので政教分離の原則から見ると政治との関係は不適切なのだが、実際には宗教と政治は密接な関係がある。あるものをないと言わなければならない。さらに籠池夫妻がどれくらい日本会議を本当に信じていたのかは曖昧である。単に商売としての学校経営に有利だからという理由でお近づきになっていた可能性もある。つまり、宗教という合理性とは別の価値判断が入ったためにさらに状況が複雑になった。ここによくわからないままで安倍昭恵さんが入ってきて話はさらに複雑になった。この人がどう関わっているのかは結局よくわからなかった。しかし「よくわからない」という点だけが重要である。

現場の人はよくわからなかったので「政治から要請があった」と書いた。それが妥当なことなのかということは彼らにはよくわからないし、よくわからなくても構わなかったはずである。

ところがここで問題が起こる。首相が「関与があったらやめるし役所が適切に処理している」と国会で不規則発言をしてしまったからだ。何が関与なのかという定義が曖昧な上に、ここで首相と学校の関係を証明できれば首相は嘘を言ったということになりやめなければならないという別の意味も生まれた。

このように森友学園問題にはいくつもの曖昧さと意味が生まれているので、もし本当に原因が解明したいなら複雑な意味を取り除いてやる必要がある。少なくとも「首相退陣」と「役人の道義的責任」は取り除いてやる必要があるだろう。しかし、感情的に一年以上も滞ったものがあり「冷静に判断しろ」というのは無理な話なのだろう。

合理性のない意味が政治を動かしている。しかし、籠池夫妻は「この学園には首相が応援している思想が入っており、夫人の関与がある」という意味をほのめかさなければ土地は手に入れられなかっただろう。また、首相が「関与があったらやめる」などとこの件に意味を与えなければ(たとえ野党がそう主張しても)理財局長は嘘の答弁をしなくても済んだであろう。つまり、誰かの発言が意図しない意味をうみ、意味が人を動かした。

さらに、財務省は「いったん行った答弁は絶対に間違っていない」と考えた。これは財務省がプライドの高い館長でありメンツがかかっていたからである。組織として守るべき別の意味が生まれた。さらに現場担当職員は「財務省は適正な値段で国有財産を処分しなければならない」と考えておりその証拠を文章に残そうとした。そうしないと後で犯罪や責任問題に発展しかねないし、職業倫理的にも許されないと考えたのだろう。これを遡って消されてしまったことで「あってはならないことが起きた」と感じた。

つまり、意味の入る余地がなければ、この問題がここまで大きく複雑になることはなかっただろう。国会審議が一年に渡って紛糾するはずはなかったはずだし、何よりも人が何人かが亡くなることはなかったはずだ。

意味はどこに生まれるのか。それは人と人との間に生じる。決して誰か一人の人が何かを言ったからと言って生じることはない。それは目には見えず、あとから厳密に観察はできない。それでも意味は存在する。

森友事件で、職員たちは意味に殺されたということになる。日本は意味が社会的生命を奪ったり人を殺す化け物になる国なのだ。