いじめ問題 – 千葉市教育委員会の回答

千葉市の教育委員会にいじめ問題について問い合わせたところ回答をもらった。回答は文末にそのまま載せた。なお問い合わせは1月24日に行ったのだが、回答までに2週間を要した。担当者曰く部門間での調整が必要だったそうだ。皮肉なことにこれが一番の問題点だ。

いじめがあったときにどう対処するかというのは細かいマニュアルにまとめられている。一読してみたが素人がとても読みきれるものではない。いろいろなことを想定しているからだというと聞こえはいいのだが、責任者を置いて意思決定を分担させたほうがいい。これをやらないのは、誰も責任を取りたくないからだろう。そこで事前にあれこれと決めておくのだ。官僚的なリスク回避のために生徒児童が犠牲になっているのである。

このため「管理責任がどうだった」という文脈ばかりが重要視され、実態が掴みにくくなっている。

回答のポイントは以下のとおり。

  • 生徒・児童が訴えを起こすことができるルートは複数あり、制度は充実している。学校を通さないことも可能だ。つまり、制度には問題はなさそうだ。
  • (千葉の場合)市長は再調査を命じることはできるが、判断そのものを操作することはできない。横浜にこのような制度がないならぜひ作るべきだろう。
  • 制度上、教育委員会は裁定や判断には責任を追わないことになっている。これは法律上決められている。ただし「自主的な辞任」はあり得る。
  • 認定は教育委員会が行うことになっている。横浜の教育長は「第三者機関がいじめの事実はなかったと言っているから認定できない」と言っていたのだが、これは必ずしも正しくないのだろう。ただし、調査を依頼しておいてそれを全く無視した裁定も出せないかもしれない。このあたりの責任分担が実はあいまいになっているのだ。
  • 教育委員会や第三者委員会は「善意の第三者」ということになっており、組織的な隠ぺいに関わるかもしれないというような可能性は(少なくとも法律上では)考慮されていない。これは制度上は教育委員会と学校は別系統だからだ。

千葉市の教育委員会の担当者は(あくまでも話の中での個人の感想であり、他市の事情に口は挟めないのだが……)「教育委員会は最終裁定を出す前だった」のではないかと言っていた。つまり、運用にはある程度の「柔軟さ」がありこれが曖昧さを生んでいるようだ。

また、以前の繰り返しになるが学校側の管理責任を教育委員会が隠蔽するなどということは法律上は想定されていないので、教育委員の人選は極めて大切だ。横浜市民は「150万円のおごり」がいじめに該当すると思うのであれば、林市長には投票してはいけないと思う。人事と予算は市長の大切な仕事なのだからこれをお座なりにするような市長は不適格だからだ。

一方で、保護者の中には、いじめがあったということを学校にはわかって欲しいが世間的には騒いでほしくない(学校を変わっても特定されることがあり得る)と考える当事者もいるということだ。結局「自殺の意味づけ」の問題になってしまうのだが、自殺だと認定されたとしても、児童生徒が戻ってくるわけではない。しかも、学校がそれを認めてしまうと「管理責任」という文脈が生まれてしまうということになる。大人が右往左往しているうちに隙間が生まれて、次から次へと同じような問題が生じることになる。

もちろん、「みんな仲良く」が前提になっている学校教育の場に「被害者・加害者」という概念を持ち込むのは辛いことだろう。しかし、いじめで自殺を選ぶ子供がいることも事実だ。1月末には松戸市で中学生が自殺したが、市教育委員会はいじめを否定している。須賀川では数日前にいじめ自殺があり、市教育委員会が深々と頭を下げたのだが、子供が生き返るわけでもない。去年の11月になくなった生徒に親に加害生徒が謝罪したという報道もあった。

最後にこの話題はすっかり騒ぎが落ち着いてしまった。他罰的な感情で興味を持っている人が多いことがわかる。つまり騒げるならなんでもいいと考えている人も多いのだろう。

市教育委員会の回答内容は下記の通り。リンク太字はこちら側で加えた。なお途中当該児童生徒という言葉が出てくるがこれは「被害者」を指すそうである。

1)本市のいじめに関しての第三者的相談窓口としては、以下の機関等が主なものとなります。いずれも、児童生徒や保護者が直接相談できます。

  1. 24時間子供SOSダイヤル
  2. 千葉市教育相談ダイヤル
  3. 子どもの人権110番
  4. 千葉市児童相談所
  5. 青少年サポートセンター
  6. 千葉市教育センター
  7. 千葉市教育委員会学校教育部指導課
  8. 県警少年センター

なお、いじめによる重大事態における調査依頼窓口は、学校を経由しない場合は千葉市教育委員会学校教育部指導課となります。

2)「千葉市いじめ防止基本方針」で規定されており、いじめによる重大事態が発生した場合、教育委員会は市長に報告することになっています。また、重大事態についての調査が行われた場合、その結果の報告を教育委員会は市長に行うことになっています。さらに、その報告を受けて市長が、必要があると認めた場合は、市長の附属機関である第三者委員会が再調査を行います。

なお、「千葉市いじめ防止基本方針」は千葉市教育委員会指導課のホームページに掲載していますので御参照ください。

3)「千葉市いじめ防止基本方針」に規定されており、教育委員が自ら調査を行うことはありません。重大事態の調査主体は「学校」「教育委員会事務局」「教育委員会の附属機関である第三者委員会」のいずれかとなり、その決定は教育委員会が行います。

4)議事過程は原則非公開となっていますが、調査結果(第三者委員会の答申)は原則公表となります。ただし、調査結果について当該児童生徒や保護者が公表に反対の意思を示したときは、この限りではありません。

また、いじめの認定は、調査結果を基に教育委員会が行うことを原則としています。

5)校長や教諭等の教職員の処分については、千葉市教育委員会が定めている「懲戒処分の指針」に則って行います。なお、処分はどのような非違行為があったか等により判断するものであるため、いじめの認定だけをもって校長・教諭等を処分することはありません。

6)改正後の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」においては、教育委員及び教育長は、特別職にあたるため処分されることはありません。ただし、同法律の経過措置として、改正法の施行前から継続して在職する教育長については、処分されることは、制度上はありえます。その場合、対象となる事案がどのようなものかによって、処分されるか否か、処分の程度は異なってきます。

教育委員及び教育長の辞任については、制度上は可能です。

 7)教育委員会の附属機関の答申として出される調査結果については、教育委員会及び市長が修正等を行うことはありません。また、学校、教育委員会事務局の調査については、市長の意向とは別に行うものです。

保護者が調査結果に不服がある場合については、「千葉市いじめ防止基本方針」において、「(調査組織による調査結果の) 説明結果を踏まえていじめを受けた児童生徒又はその保護者が希望する場合には、いじめを受けた児童生徒又その保護者等の所見をまとめた文書の提供を受け、調査結果の報告に添えて市長に提出する。」という規定があります。また、2)でお答えしたとおり、教育委員会からの報告を受けて、市長の判断で再調査を行うことがありえます。

いじめられる側にも問題がある

NHKの「あさイチ」という番組でいじめ後遺症の特集をやっていた。いじめられた人がその後うつやフラッシュバックに苦しむというような内容だ。ここで、柳澤秀夫という解説委員の人がちょこまかと意見を言っていたのだが、はっきり言って有害なのでいじめ関連の話のときには外した方がいいと思った。

いじめ被害者は社会常識から祝福されていない

柳澤さんが有害な理由はいくつかある。まず、いじめ被害者が加害者の罪状に判決を下すことを有害だと決めつけていた。いじめられたことがなく、いじめについて真剣に考えたことがないのだろう。次に親が親身になってくれないことを不思議がっていた。これもとても有害な態度だ。共通するのは「社会常識」だ。

よく「いじめられる側にも問題がある」と言われるが、これはその通りだと思う。いじめられる側は「虐待してください」というシグナルを出している場合が多い。「違っている」ことが問題になるのだが、それだけではいじめは起きない。いじめ被害者はターゲットになりやすい。

これは誰かにそう仕込まれているからである。あサイチでは「自尊心のなさ」が大きなテーマになっているのだが、被害者は誰かに自尊心を奪われているのである。奪っているのはたいてい最初に接触した大人だ。すると結論としては「最初のいじめ加害者は親」ということになる。良識があるNHKにはとても受け入れられないだろう。

いい親もいれば悪い親もいる

よく「しつけの為にしかる」という人がいる。確かにそういうこともあるのだろうが、そうでない場合も多い。公共の場で騒いでいる子供をヒステリックに罵倒している親を見かけることがある。「静かにしない」ことに憤っているのだろうが、感情的にがなりたてて周りを不快にしているのは親そのものだ。自分が(所有物である)子供をコントロールできないことにかんしゃくを起こしており、周りが全く見えなくなっているのだ。「愛情」や「愛着」ではなく「支配・被支配」という関係があるのだろうし、客観的な状況判断ができなくなっていることがわかる。

家族という収奪者

人から物を盗むのは犯罪だが、弱いものから感情や自尊心を奪うのは犯罪とはみなされない。その「手口」にはいくつかある。

一つは最初から「奪って当然」と思っているようなタイプである。この人たちは相手の所有物には興味がなく自分のことしか考えていない。だから、奪っていること自体に気がつかない。いつも自分の問題に頭がいっぱいで相手が見えていない。そのくせ奪った相手が異議申し立てをすると「私は正しい」と主張しはじめる。つまりいつも何かと闘っているのだ。個人的にはこういう人を「トランプさん」と名付けている。毎日が選挙キャンペーンなのだが、一体何の為に戦っているのかわからないような人だ。

もう一つ経路は共依存である。自分に価値が感じられず、誰か「お世話をする人」を探している。お世話をする人はつねに自分より弱くてかわいそうでなければならない。ということで子供に「かわいそうで何もできない人」という自己認識を刷り込むのだ。最悪の場合には「トランプさん」に犠牲車を差し出すことも厭わない。さもなければ自分が闘争の相手になってしまうからだ。親が共依存の相手を探しているなどありえないことのように思えるが「母が重い娘」というのは珍しくなくない。

言語化できない苛立ちを弱いものにぶつける人もいる。いつもは普通に話しているがなんらかのスィッチが入り、子供のおもちゃを力任せに破壊したりテレビを壊したりする。しかしいじめらられる方は思い当たる節はないのでいつもビクビクと怯えていることになる。この怯えは対人恐怖となり学校でもなんとなく挙動不審になったりする。それがまた新しいいじめを生むのだ。

まずは第三者の存在が重要

個人的に幸いだったのは、いじめられていた時に先生が「いじめられる側にも問題がある」とはっきり言ってくれたことだった。先生の中にはシスターが大勢いたのでサラリーマン化した公立学校の先生よりも人生の苦難を多く見てきているのだ。ノン・クリスチャンの担任は成績で子どもを選別するような人が多かったが、クラスの他に課外授業のようなもののがあり「最悪の事態を防ぐ」仕組みがあったのも(後から考えるとだが)よかった。

よく「信じれば不幸はたちどころに消える」とか「災難が降りかかるのは信心が足りないからだ」などといって脅す宗教があるが、本物の宗教はそんなことはしない。それは宗教者たちが普段から理不尽な出来事に接しているからだ。信心があろうがなかろうが苦難は起こりうる。優しくしていればいつかわかってくれる人が現れますよというようにごまかしたりもしない。

こうした個人的な経験から「いじめられる側にもそれなりの理由がある」と思う。知らず知らずの間に犠牲者としての役割を演じているからだ。自分でそれに気がつくのはとても難しいので、第三者の目が欠かせないのだ。コントロールできるのは自分だけなのだから、自分を変えてゆくしかないのだ。

収奪されるものは繰り返し奪われる

被害者としての低い自尊心を根底から覆すのは並大抵のことではない。その時に助けになるのが心理学を勉強した第三者の存在だ。逆に邪魔になるのが柳澤秀夫解説委員に代表される「何も考えたことがないのに社会的な常識」を振りかざす悪意のない大人だ。何も考えたことがないのに当然何かが言えると思い込んでいるからだ。

例えば「親は愛情があって子供を虐待などするはずがない」という建前はサバイバーを大いに苦しめるし、横浜の例で見たように「福島からきた転校生さえ黙っていれば丸く収まる」ようなことは決して珍しくない。社会は「美しい社会常識をいきる美しい私たち」を守る為ならなんでもする。例えば、あの福島の子さえいなければ「良い子がすくすく育つ横浜市」でいられる。これに加担している人は善意で踏みつける。逆に犠牲者は何回も踏みつけられるし、誰も助けてくれない。弁護人は自分しかいないのだ。

柳澤解説委員が驚いていた「加害者に判決を下す」行為は、いじめられることを客観化することが目的なのだろう。つまり、いじめ加害者が問題なのではなく、その受け止めが問題なのだ。

自殺しても構わないけれど

自殺するのは(よく考えた結果なら)構わないとは思うのだが、たいていの場合、加害者は「いじめるなら誰でもよい」と思っているはずだ。つまりいじめる側は大した理由があっていじめているわけではない。そもそも人の物を取っても何も思わないような人なのだろうし、取ったとすら思っていないかもしれない。人の物を取るのは犯罪だが、自尊心を奪うのは「気軽な娯楽」なのだ。

つまり、死んでもたいして意味がないのである。

だからいじめサバイバーは、どうにかしてこれを越えてゆくしかない。残酷なことに奪われた自尊心は戻ってこない(だからこそ重大な犯罪なのだが)のだが、それに変わるなんらかの技術を身につけるか、感情をオフにする術を身に付けるべきだろう。

正直いじめの当事者がこの文章を読んでくれるとは思わないのだが(それどころじゃないだろうから)それでも周りにいる大人は理解できないのなら黙っているべきだ。なんとか生きようとしてる人の邪魔をしてはいけない。

 

なぜ自殺しないといじめ認定してもらえないのか

昨日は横浜のいじめについて書いた。その中で「死ぬと祟り神になる」と書いたので補足しておきたい。これを読むと「ああ、また日本人合理的じゃない論」かとウンザリしてしまう人もいるかもしれないからだ。

明確な形のいじめなどない

そもそも、世間が考えるような意味でのいじめは存在しない。つまり人間関係では誰かが明確な加害者で誰かが明確な被害者ということはありえないからだ。当事者から見ても外から見てもそれは同じだ。代わりにあるのは集団での個人の利害のぶつかり合いにおいて、下位にいる人が感じるプレッシャーがいじめなのだ。

群れで優位に立って「他人をいじめても当然」と思っているような子は先生に可愛がられている可能性が高い。人気があったり、成績が良かったり、あるいは足が早かったりといった具合だ。つまり、先生や周りの大人たちはある意味でいじめの当事者なのだ。つまり広義の加害者になっている可能性が高く、調停者にも調査者にもなれない。

裁きたがる大人

にもかかわらず、近年のいじめ事件は「明確な被害者と加害者」を作って放置した学校と加害者を罰したがる傾向にある。これは「罰によってしかいじめを抑止できない」という見込みがあるからなのだろう。犯罪まがいのいじめがマスコミ経由で伝わるにつれその傾向が強くなった。このズレは問題解決を難しくするが、第三者は一向に構わないと考える。

昨日「教育委員会に市民がプレッシャーをかけるべき」という人と対話したのだが、教育委員会には独立性があるということを知っても他罰的な発言をやめなかった。案の定「原発反対」論者だったが、元地方議会議員だということである。

「いじめは犯罪である」というのはかなり危険な思い込みなのだが、それでもやめられない人が多い。

「祟り神」の正体

不明瞭な「いじめ」であっても、明らかに「被害者」が決まる瞬間がある。それは、被害者が死んでしまうことである。

この構図は一般化できる。高橋まつりさんのケースを思い出して頂きたい。高橋さんが生きていれば「この人にも甘えがあって会社に対してごねているだけかもしれない」などと思う人が出てくるはずだ。新入社員に過剰な労働を押し付けたりセクハラがあったりと、明らかに「いじめ」の構造があるのだが、当事者間の紛争がある場合どうしても「社会的に有利なほう(学校でいうと成績の良い生徒)」の言い分が通りがちだ。電通でたくさんの過労死寸前の労働者がいながら今まで問題にならなかったのは、多くのまつりさんが死ななかったからなのである。

死んでしまうと、その人には「私利私欲がない」というポジションが得られる。死んでいるから私利私欲など発揮しようがない。日本人は個人が幸福追求する権利があるなどとは思っておらず、私利私欲やわがままだと考える傾向が強い。だから私利私欲がなくなった(同時に生きていたら得られたであろう楽しいことも全て放棄してしまった)瞬間に、同じような苦しみを抱えている人の代弁者に祭り上げられてしまう。

この同じような苦しみを持っている人たちのやり場のない不安が「祟り」の正体で、そのために「祭り上げられる」空白の中心が「神」の正体なのではないかと思う。

よく小学生や中学生が亡くなった時に「死んではいけない」などという人がいる。それを聞くたびに考え込んでしまう。死ななければ「わがままな個人」として扱われる可能性が高い人にどんな解決策があるのだろう、と思うのだ。

生贄としての弱者と中心の空白

いじめはそもそも何が原因なのか。陸軍では多くの兵士がいじめられたのだが、これは大きな目的がなくなってしまったことが原因になっている。戦争に勝つ見込みがなくなると人々は不安になり、下にいる人をいじめはじめる。トップは自己保身に懸命になっており、兵士を助ける決断などしなかった。

電通でも同じ問題が起きている。電通はデジタル化に乗り遅れて、数字の改ざんなどが横行している。しかし、トップは抜本的な改革をせず、不安になった中間管理職が成果を求められて下をいじめ始める。高橋さんの場合、女性であり年次が下だという理由でいじめられていた。つまり、電通が成果を上げられないことの犠牲になっていた。

つまり、目的がはっきりせず成果があげられなくなると下にいる人たちを見つけていたぶるのである。このとき上はリーダーシップを失っているといえる。ではそのピラミッドの上には何があるのか。「実は何もない」のではないかと考えられる。

この「中心が空白である」ことは日本人を語る上でよく使われる。上に相談してきます」といって、上り詰めて行くと誰も意思決定者がいなかったということがよくある。アメリカ人は「誰が意思決定をしているのかがよくわからない」とイラつくことがあるそうだ。会議に「責任を持って意思決定する人」が現れないので「馬鹿にされている」と感じてしまうのである。

この典型例として挙げられるのが、天皇という神である。強大な権力があったのだが、戦前であっても実質的にはなにの権限もなく、開戦を止めることができなかった。にもかかわらず大量の戦死者と原爆を含む都市空爆が出たのは、この空白に多くの人が群がったからだろう。

「天皇が神である」というのは実は西洋人が考えるように神格化されているわけではない。「物言わぬ中心」として祭り上げられていただけなのだ。「天皇制」への回帰が危険なのは、天皇が悪いということではなく、この権力の空白が危険なのである。権力の空白が危険というよりは、何か危機にあった時に何も変えられないというのが問題だと言い換えても良い。

なにも決められないということ

今回の横浜の件は「子供が親の金を持ち出して友達と一緒にさわいだだけなんじゃないの」という疑念があるようだ。よく分からないから加害者のいうことも被害者のいうことも聞かないということになっている。つまり、横浜市の教育は目的を見失っており、権力構造も空白化している可能性が高い。これは多くの大都市で見られる現象なのではないだろうか。

横浜のケースがさらに痛ましいのはこれが「原発」というリスクに関しての反応であるという可能性が排除できないところだ。これは「市の教育」という小さなレベルではなく、国民全体が感じている危機意識である可能性がある。つまり、市の問題ではなくもっと大きな枠組みの問題であった可能性があるのだ。

いずれにせよ、横浜市長は教育長に無害な人を当てることで中心を空白にして学校という権威を守ろうとしていた。教育長は市長の期待通りになにも決めなかった。

実際に必要なのは当事者間の利害の調整だった。こう主張すると「被害者のかわいそうな子供」にも過失があるのかという人が出てくると思うのだが、強く振る舞うべきだと諭すのも教育だと思う。

人は群れを作って弱いものをいじめる。これが抑止されているのは理性の働きではなく、残念ながら警察力のようなものが働いていて群れのメンバーが暴走するのを防いでいるからだ。これを認めない限り、また「死んで解決しよう」という子供がでてくるはずだ。

それに社会が圧力を加えれば加えるほど、教育委員会は閉じて行き、何も決められなくなる。これがさらに中心を空白化させ、事態は悪化する。しかし、決められない事態は救済出来ない子供を増やすのだから、さらに社会的なプレッシャーが増える。まさに悪循環だ。

 

 

「それでも生きる」と決めた少年に大人たちがしたこと

先日来、憲法改正、教育、および政治の中立性などについて見ている。今回は横浜の教育委員会が炎上している問題について考えたい。

震災で亡くなった方を思い出して子供は生きることを決めた

福島から転校してきた子がいじめられた。いじめが止むことはなく小学校の低学年から高学年まで続く。悪いことに先生も「この子は学校カーストの下位にいる」と認識したらしく、それを黙認したまま追随した。この子の偉いところは自殺して逃げることを思いとどまったところだ。神奈川新聞が手記を伝えているが、東日本大震災では生きられなかった人を思ったようである。まずは、この手記を読んでから読み進めていただきたい。

だが、このことが却って「学校のいじめ認定」を妨げることになった。かなり苛烈ないじめをうけており(ハフィントンポスト)友達と遊ぶお金150万円をおごらされたのに「いじめ」を認定しなかった。「自殺したらいじめを渋々認める」という相場観ができているのがわかる。つまり「大人にいじめを認めさせたかったら死んで抗議しろ」ということになる。日本はそういう教育をしているのだ。

大人たちは、まずかばい合うことを決めた

では、なぜ教育委員会はいじめを認めたがらないのか。それはいじめを認定すると、学校が遡って管理責任を問われるからではないかと疑われる。生命や財産が危険にさらされるようないじめがあった場合には学校が「しかるべき措置」を取らなければならないと法律で決まっており、これを怠ったことになってしまうのだ。これは最終的に「校長先生や学校の名誉が傷つき、退職金などに影響が出る」ことになる。教育行政と学校の間には親密な連帯があり、これが隠蔽につながるわけである。

つまり学校などの集団の名誉を守るためは個人は多少の不具合は黙っていろと教育している。集団の方が個人より優先順位が高い。ただ、死んでしまうとこれが逆転する。死ぬと神になって祟ると考えられているからかもしれないとすら思う。

ただし、こうした「相場観」は文脈として空気のように共有されているだけのようだ。ねとらぼが面白いインタビューをしている。学校は責任を取らされかねないが、明確な基準があるわけでもないというところなのだそうだ。つまり「不確定」が生まれることになる。集団はこれを嫌うのだ。

極めてお役所体質が強い教育委員会

今回炎上の対象になっている横浜市の岡田優子教育長はもともと市役所の出身のようだ。高卒の女性ながら高い地位に上り詰めたのだという。この人が「いじめ調査」を主導したというよりは第三者委員会をコントロールできなかった可能性が高いようだ。岡田教育長は「法律に従って第三者委員会を作ったのでその結果を覆すことが難しい」と言っている。

間違いが決して許されない役所としては正しい対応なのだろうが、一般常識に照らして適切な対応をとるという教育委員会としては全く間違った対応である。子供と法令のどちらを守るのかと聞かれて「法令を守る」と言ってしまっているのだが、その意味に全く気がついていない。結果的に「命は大したことはない」というメッセージを子供たちに送ることになった。学校はかばい合う。いじめられた君が守られることはないという過酷なメッセージだ。

判断から逃げた大人たち

この「役人的な対応」が何を意味しているのかということが、おぼろげながら見えてくるのだが、決して像を結ぶことはない。ハフィントンポストの記事を読む限り、教育委員会や第三者機関は独自調査は行っておらず、学校の調査に頼っている。だが、学校側は「生徒同士のお金のやり取りは警察の調査などに任せたい」と及び腰である。つまり「いじめはなかった」と判定したわけではなく、判断から逃げたのだ。

なぜ警察が犯罪扱いしなかったのかと考えてみたのだが、多分「おごらされた子供」がいっしょに遊んでいたからだろう。親からお金をくすねて遊興費に使っていたのか、それとも強要されていたのかということは外からはよくわからない。調査は教育の一環であるべきで、つまりそれは子供に「あなたの命は大切だから学校はそれを全力で守る」というメッセージを送ることだ。だが、教育委員会はそこから逃げた。

福島から来た「穢れ」を背負わされた少年は、例えば非常勤講師みたいなものだ。やりがいを得られない先生たちは「下には非常勤がいる」と考えることで溜飲をさげることができるし、非常勤講師もその中で生きてゆくしかない。これは他人を犠牲にする行為だがいじめとは言われない。大人の世界ではこんなことは日常茶飯事である。つまり、福島からの転校生は集団の犠牲にされたのである。「その子がお金を出せばみんなが楽しい思いができる」と子供が考えても何も不思議ではない。本当に罪の意識はなかったかもしれない。閉鎖された集団は「下」を探すようになる。

正義にこだわる人たち – 政治的に偏りのない市民などいない

大人たちが「決める」という責任を避けているという傍証がある。決める責任がない人は「教育委員会はいじめを認めるべきだ」と圧力をかけ始めた。原子力発電所は悪であると考える人たちが「原発がなければこの子は福島で暮らせたのだから安倍政権の被害者だ」と考えても不思議ではない。学校関係者は決めるという責任から逃げたのだが、こちらは匿名だから責任を取らなくてもいいのである。

今回個人的な考察の対象は「教育は政治から自由でいられるか」ということや「国がスポンサーシップを持った時、教育はどう自立できるのか」ということなのだが、今回の件を見ている限りそれは絶望的に難しいようだ。

教育委員会制度は政治から独立しているという建前なので市長は教育委員会の調査に介入できない。建前としては普通の市民が教育委員会を運営していることになっている。これを「レイマンコントロール」というのだが全く守られていない。

「普通の市民」から見るとこれはどう考えてもいじめだ。つまり教育委員会は学校コミュニティに寄りすぎたあまり市民感覚から乖離している。だが「市民」の中にはいろいろな人がいる。天皇を中心とした家族的な国を作ろうという市民もいれば、安倍政権が嫌いだから原発避難者は社会の被害者でなければならないという人もいる。だから一度出した決定を市民の圧力で変えてしまうのは「政治的圧力」になってしまいかねない。

調整されない意見が教育委員会という官僚機構に直接ぶつかっている。こうした政治的な圧力に晒されて教育委員会は閉じこもり、さらに防衛的な態度をとってしまう。そして炎上だけが強まってゆく。決めたがらない大人と決めたがる大人の対立だ。だが、そこに命を選択した子供に対するリスペクトは微塵も感じられない。

子供へのアドバイス – 大人を信頼するな

あらためて社会の大人の対応をまとめてみよう。

  • 学校はただただ責任を取らされるのを恐れて調査もせず、なかったことにしたがっている。
  • 教育委員会は学校を慮って「いじめとはいえない」といい繕う。
  • 市民たちは自分たちの想いを事件に乗せて炎上を作り出す。
  • これを見た市議会議員たちは「票になるかも」と問題を取り上げる。

このいじめにあった生徒に何かアドバイスをするには何を言えばいいのかと考えたのだが、こんな感じになった。

  • 先生を含めた大人は自分のことしか考えないからアテにするな。
  • 自分の身は自分で守れ。死んだらいじめ認定してもらえるが得られるものは何もない。後で祭り上げて利用するだけだ。よく考えろ。
  • 友達にたかられそうになったり襲われそうになったら証拠をとれ。自分は絶対に関わるな。ある程度証拠が溜まったら迷わず警察に駆け込め。
  • みんな自分のことしか考えていない。あなたもそうしろ。不満が溜まったら自分より弱い相手を探せ。

これは明らかに間違った教育だが、これくらいしか自分の身を守る方法はなさそうだ。これを「震災ではたくさんの方が亡くなった。だから僕は辛くても生きなくちゃ」と受け止めた子供に伝えられますかということだ。

結局この「心苦しさ」を受け止めて「一人ひとりの大人が防波堤になってよりよい社会を作らなきゃ」と考えない限り、教育も社会もよくなって行かないのだろう。

あの震災で私たちは多分何も学んでいないのだろう。

浪岡中のいじめ問題 – 自殺者は被害者なのか

ご両親が娘さんの名前を公表されたようだ。

「浪岡中・犯人・名前」で検索してこられる方へ。この文章には、犯人の名前に関する情報はありません。で、調べてどうするんですか?


またいじめについてのニュースを読んでしまった。今度は青森県の浪岡中学校だという。このニュースを読んで、いじめによる死はなくならないのだろうなあと思った。学校側はトラブルは認識していったがそれをいじめだとは認識していなかったという。一瞬何を言っているのかよくわからなかったのだが、要するに「自殺しても事件化しなければいじめではない」という姿勢を示しているようだ。死ぬまで表面化しないのだから自殺は防ぎようがないのだ。

今回の考察にもつらい部分がある。公共の場で堂々と主張できないような内容だし、家族を失って悲しんでいる当事者にこれをぶつけることはとてもできそうにない。事実、この文章を読んだ人から「自分の意見を通すために遺書の内容を曲解している」という指摘が来た。指摘はコメント欄にある。どちらが正しいのかという<議論>が背景にあるのだと思う。

こうした指摘を受けても「それでも」と思うのだ。正しさというものが作り出す短絡さは多くの人を苦しめ、あるいは取り返しが付かない結果を生み出しかねない。その苦しみから救ってくれる人は誰もいない。ただ、本人だけが自分自身をそこから解放できるのだと。

いじめられる人は「弱者だ」と仮置きされることが多い。テレビの報道を見る限り自殺の練習をさせられたとか万引きをしないと言って殴られたいうような陰湿ないじめが行われていたらしいことが伺える。これだけを見るといじめられた生徒は一方的な被害者だったような印象を持つ。いわば群れの中で一方的に搾取されるような存在である。

もし、いじめられるものが弱者だったら、誰かにその窮状を訴えるべきだということになる。先生がなんとかしてもらえるように訴えるべきで、もしそれができないとしたら教育委員会に訴えるなどというのが効果的かもしれない。だが、そもそもアサーティブな生徒ががいじめられるはずはない。手を出すと面倒だからである。このようにすればいじめのコストを高めればいじめはなくなるだろう。

だが、こうしたアサーティブさは問題を解決してくれるのだろうか。このケースでは、亡くなった生徒の遺書が残っているのだが、黒塗りになった生徒◉との間に「どちらが正しいのか」というような構造があったような印象を持った。ここが今回引っかかったところである。

各紙の話を総合すると一年生の時にバレー部に入っており良い成績を残したが、◉たちのグループとの間に対立があり部活を辞めた。遺書では「頑張って◉と7名で優勝を狙ってほしい」と言っている。教室の片隅で閉じこもっているようなタイプではなく、一年生のときには学年生徒会会長を務めていたという。

「せいぜい」頑張ってと入れていたが、遺書には「せいぜい」とは入っておらず、したがって文意を大いに捻じ曲げているという指摘がありまましたので、取り除きました。また主観を客観化する意図はありませんので「印象を持った」などとしています。ただし、そういった印象を持つことは<正しくないから>けしからんというご意見はあるかもしれません。コメントには「原文を当たった上で考えて欲しい」ということがかかれていますが、その点については同意です。(2016/10/18)

当人の中にも「一方的にいじめられる弱者ではない」という認識があったのではないかと思える。テレビの情報が確かなら完全な虐待だが、当人は特別ひどい虐待はないと逆に否認している。

この遺書だけから類推すると「アサーティブさ」の方法が間違っているということになる。死んでしまえば、◉が悪となり、放置した学校は間違っていたということになるからだ。自殺が全ての問題を解決する手段になると考えていたとしたら実に悲しいことなのだが、その可能性が排除できない。

この場合先生がやるべきだったのは、いじめの防止ではなく、絶対的な正義などないということを双方に納得させることだったということになるのではないか思った。「どういじめを防ぐか」という視点ではこの問題は解決できないのではないか。それは被害者と加害者を作ることになり、加害者が「間違っている」という印象を作るからだ。

だから周囲が「いじめられる人を被害者だ」という認識を持つのは危険かもしれないと思う。いじめられる側にも問題があるという認識に立たない限り、たんに「アサーティブになれ」といじめの被害者を説得することはできない。さらに、結果的に人が亡くなったケースだけを特別視すると別の意味で死を利用することが可能になってしまう。

これを防ぐためには「自殺者を出したことは恥ずかしいことだ」という意識を捨ててオープンな調査をすべきだと思う。だが、人が一人亡くなっているわけで、これはなかなか難しいことだというのは十分に理解できる。

実際に掲示板では犯人探しが始まっている。中には浪岡中学校出身だというだけで犯人扱いされるから報道機関にいじめた奴の名前を通報しろという人までいる。その他大勢は「誰がいじめたのか実名を晒せ」と書き込んでいる。すでに実名が何人もでていて(もちろん加害者かどうかはわからない)これがさらなるいじめに発展するかもしれない。

ある意味、内戦のような精神状態になっているのではないかと思う。いったん命に関わる問題が起こると、あちら側とこちら側という意識が生まれ、統合が難しくなってしまうのである。自殺やいじめについて考えるためには、実は内戦が止められなくなった国や民族がどのような末路をたどるのかを考えると良いかもしれないと思った。