よくわからずに安保法制議論をしていた安倍総理と安倍総理がわかっていないことをわかっていた高市早苗

安倍元総理が核シェアリングについて言い出してからしばらくがたった。不思議な気持ちでこの議論を見ていた。実はこれはもう終わった話だからだ。当事者たちが何も理解していないまま安保法制議論が進行していたんだなあということがよくわかる。

“よくわからずに安保法制議論をしていた安倍総理と安倍総理がわかっていないことをわかっていた高市早苗” の続きを読む

防衛省日報隠蔽問題の経緯

布施祐仁さんの書いたレポートを読んだ。布施さんは当事者なのでいろいろ細かく書いているのだが、はたから見ているといつ誰が何をしたのかがよくわからない。そこでできるだけ判断を入れずに時系列でまとめてみることにした。とはいえ一つの記事でまとまっているものがない。そこでいろいろつぎはぎしてきた。するとなぜこんなことが起きたのだろうなどと思えてきた。遡ると、小泉政権以前に原因があることがわかってきた。

1980年代の日本は経済定期に成功していたので「その成功分の貢献をしないのはおかしい」という国際的なプレッシャーがあった。しかし国内の論争は第二次世界大戦の頃の対立を引きずっており「現状を維持して何も決めない」のが国是だった。岸内閣時代の苦い記憶のせいかもしれない。

もしかしたら間違っていることがあるかもしれないので、随時ご指摘いただきたい。とはいえ、本来これはジャーナリストの仕事ではないかと思う。


1990 イラクがクウェートに侵攻し湾岸戦争が起きた。日本は国際世論から人的支援を求められたが憲法の制約上応じることができなかった。代わりに130億ドルの経済支援を行ったがクウェートをはじめとする国際社会から感謝はされなかった。この経験はクウェートのトラウマと呼ばれており、外務省を中心に国際貢献の必要性が叫ばれることになった。その後、日本は内閣と外務省が「人的貢献」に向けた実績作りを行うことになる。これは具体的には自衛隊のPKO派遣を意味したが防衛庁は部外者だった。(nippon.com

当時、アーミテージ国務副長官から「ショーザフラッグ(旗色を鮮明にせよ)」という圧力があったとされる。そのため政府首脳部は「テロとの戦い」を名目にして自衛隊を海外派兵する実績作りを模索するようになる。イラク復興支援で小泉首相が自体隊の海外派遣に前のめりだったのはこうした国際社会(特にアメリカ)からの圧力があったためと考えられる。

2003 小泉首相は大量破壊兵器が見つかったというアメリカの声明にいち早く支持を表明した。のちに大量破壊兵器はなかったことが判明している。さらに、復興支援への自衛隊の派遣を推進した。これが現在までつながるPKO派遣の端緒となっている。当時の小泉首相答弁をNewsWeekはこう伝えている。結局2018年になってイラクの復興支援で自衛隊が戦闘状態に巻き込まれていたことがわかるのだが10年以上この事実は隠蔽されたままだった。

2003年に国会で「イラクで戦闘がない土地などあるのか」と追及された小泉首相(当時)は「自衛隊の派遣されるところが非戦闘地域」と豪語。しかし、当時のイラクでは外国軍隊へのテロ攻撃が相次ぎ、自衛隊が派遣された2003年、2007年に限っても、米軍だけで、それぞれ486人、904人の死者が出ています。この背景のもと、自衛隊の活動は短期間のうちに終了しました。

2011/8 民主党政権時に国連の要請を受けて菅直人総理大臣が派遣を決定。野田佳彦総理の時に派遣が始まる。最初は2名の調査派遣だったと朝日新聞が伝えている。

朝日新聞によると、わざわざ首相官邸に出向いたパンギムン国連事務総長からの要請を受けた菅直人首相が支援を表明し、野田政権になってから「調査団を送る」という約束をした。朝日新聞はその後の軍事的支援について心配しているのだが、野田首相がどのような心づもりで調査団の覇権を約束をしたのかは見えてこないし、その後本人からの回顧もない。自民党がある程度の戦略的意図を持っていたのに比べると、民主党の対応は場当たり的な印象が強い。

そもそも最初はアメリカを中心とする国際社会への「お付き合い」として構想されたPKO派遣だが、民主党政権下では米国主導ではなく国連主導の平和維持活動への協力として意識されていた可能性がある。あるいは「国連だったらよいか」と思われていたのかもしれない。しかしながら米国追従傾向の強い安倍政権下で南スーダン覇権がどのように位置付けられていたのかはわからない。

日本は小泉政権下で間違った情報をもとにアメリカのイラク侵攻を支持していたことを総括しておらず、南スーダンへの派遣がどのような意図でなされたのかという総括もない。「戦争反対」という声が大きいので、とにかく前例を利用して既成事実を拡大しようとする傾向が強い。そもそも根強い戦争反対論も第二次世界大戦や日米安保の自発的な総括がないところから始まっていることから、過去の記録を振り返らないことが話をこじれさせていることがよくわかる。

2012/12 民主党が選挙で大敗北を喫し、第二次安倍内閣が成立した。

2013/12 南スーダンの戦闘が激化する。その後も戦闘地域は広がり続け、ついには「比較的安全な首都のジュバ」にも危険が及ぶようになる。Yahooニュースが伝えるところによると、この時に撤退することもできたのだが、安倍政権は集団的自衛権の行使容認のための方策を模索しており、実績作りするために南スーダンのPKOを利用しようとしていたのか、それとも単に南スーダンの状況を過小評価していただけなのかはよくわからない。今の所「防衛省が報告をしなかっただけ」で知らなかったことになっているのだが、報道あったので「全く状況を把握していなかった」とは考えにくい。

一方、南スーダンでは2013年12月に内戦が発生。その直後に菅官房長官は「自衛隊の駐屯地周辺は概ね平穏」と発言。その後も、現地の日本人ボランティアが「自衛隊の駐屯地は首都ジュバのなかで最も危険な場所にある」と報告するなか、稲田防衛相(当時)が駐屯地周辺の状況を「戦闘」ではなく「衝突」と表現するなど、政府は危険を過小評価し続けました。結局、2017年3月に政府は「当初の目的を達した」と自衛隊の完全撤収を発表しましたが、その後も南スーダンでは内戦が続いています。

2014/7/2  集団的自衛権の閣議決定が行われる。毎日新聞 はこう伝えている。この後、国論を二分する安保法制論争が始まる。いったん解釈によって集団的自衛権の行使を容認したのだが、2017年になって首相が憲法改正によって自衛隊を憲法の中に書き込むべきだと提案した。これを契機にして自民党の中で憲法改正議論が行われるようになった。

政府は1日、臨時閣議を開き、憲法9条の解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認すると決めた。集団的自衛権は自国が攻撃を受けていなくても、他国同士の戦争に参加し、一方の国を防衛する権利。政府は1981年の政府答弁書の「憲法上許されない」との見解を堅持してきたが、安全保障環境の変化を理由に容認に踏み切った。自国防衛以外の目的で武力行使が可能となり、戦後日本の安保政策は大きく転換する。

2015/8 この年の夏には各地で戦争法反対のデモが起こるが安保法案は成立した。安倍首相は「日本人を守るために法整備したのだ」と説明し続け、自衛隊に危険が及ぶことはないとも言っていた。自衛隊の安全確保義務が法律に書き込まれているとHaffinton Postの記事は解説している。シビリアンコントロールの中には「自衛隊の安全確保義務」も書かれている。つまり軍隊ではないと解釈されている自衛隊が「戦闘状態に巻き込まれた」と報告しているのに何もしなかったというのは、法律違反であり、そのまま憲法違反の可能性があるということになる。

また、安倍首相も(2015年)5月14日の記者会見で、自衛隊員の安全確保は「当然」として、「例えば後方支援を行う場合には、部隊の安全が確保できない場所で活動を行うことはなく、万が一危険が生じた場合には業務を中止し、あるいは退避すべきことなど、明確な仕組みを設けています」と発言。

2016/7 南スーダンで大規模な武力衝突が起こる。しかし、日報に武力衝突という言葉が使われていたために憲法第9条との矛盾を突かれると困ると考えた稲田大臣は戦闘を武力衝突と言い換えてきた。稲田防衛相の日報隠蔽疑惑、「瑣末な話」が大事件化の事情…日報問題の隠れた本質

 南スーダン国連平和維持活動(PKO)に派遣されていた陸上自衛隊の部隊が、昨年7月に政府軍と反政府軍の間で戦車、ヘリコプター、迫撃砲も使い、300人以上の死者が出る大規模な戦闘が起こった際、「戦闘が生起した」という正確な情報を中央即応集団司令部(相模原市座間駐屯地)への「日報」(日々の状況や行動の詳細報告)で伝えていた。

2016/9 現地からの情報を掴んでいたジャーナリストが南スーダンの日報の情報開示請求を行う。この時点では日報はネットワーク上に残っていたようだ。これ以降の記録は主に安倍首相は本当に「陸自の日報隠し」を知らなかったのかによるが、他の資料も補足に使っている。

この頃すでに成立していた法律による「駆けつけ警護」の訓練が始まろうとしていた。毎日新聞の調査によると反対している国民は48%と無視できないほどだったが、安倍政権はなんらかの意図を元にした実績作りのために法案成立後の実績作りに前のめりになっていた。この記事によると駆けつけ警護が行われるのは11月からの予定だった。当時の説明では南スーダンでは武力衝突は起こっているものの戦闘状態とまでは言い切れない上にジュバは比較的安全なので自衛隊に新任務が付与されても大丈夫だと説明されていた。だが、実際にはジュバにも危険が及んでいたのである。

日報を見るとそのことはわかっていたが、その日報を稲田大臣と安倍首相が知っていたかがまだわからない。知らなかったとなると自衛隊が自主的に状況を報告していなかったことになり「文民統制」上の問題になる。文民統制違反は憲法違反となる。(AERA.dot

このため戦後は新憲法で軍人は閣僚になれないとし、自衛隊法で最高指揮官を首相と定めるなど文民統制を掲げた。自衛隊を管理する防衛庁を設け、官僚(背広組)が自衛官(制服組)に優越する「文官統制」の仕組みも作った。それは軍令にも及び、防衛庁設置法では防衛庁長官の命令を背広組幹部が「補佐する」とされた。自衛隊が有事や災害で動く際の指揮内容を背広組が仕切る形だった。

一方で知っていたとなるとやはり政治家と背広組が法律にある自衛隊の安全義務違反違反だったことになる。これは戦闘状態に巻き込まれると自衛隊が軍隊だったということになってしまうということを意味しており憲法違反になる可能性が高い。

2011/10/11 安倍首相は政府軍と反政府の間で衝突は起きたが戦闘ではないと答弁。(Huffinton Post)この時に内戦とは国や国のような組織(国準)の間で起こる活動であると解釈し、南スーダンの活動はこれには当たらないと説明していた。この時点で防衛省から首相や防衛大臣に報告が上がっていたのかはわからない。

稲田氏は「戦闘行為とは、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷しまたは物を破壊する行為」とした上で、南スーダンの事例は「こういった意味における戦闘行為ではない。衝突であると認識している」と回答。これに対し、大野氏は「戦闘ではなかったのか」と再三にわたって質問。途中、審議が中断する場面もあった。

稲田氏に代わって答弁に立った安倍首相は、「武器をつかって殺傷、あるいは物を破壊する行為はあった」とした上で、「戦闘をどう定義づけるかということについては、国会などにおいても定義がない。大野さんの定義では”戦闘”となるかもしれないが、我々は一般的な意味として衝突、いわば勢力と勢力がぶつかったという表現を使っている」と発言。あくまで、戦闘行為ではなかったという認識を示した。

2016/11/19 JB Pressによると駆けつけ警護を任務とする第十一次隊が派遣される。

2016/12 ジャーナリストに日報は廃棄してしまいなくなってしまったという報告が戻ってくる。布施さんによると実際に日報が廃棄されたのはそのあとだそうだ。のちに小野寺大臣にあがった報告ではローカルのハードディスクなどに残っていたことがわかる。

この不開示に誰がどのように関わったのかは不明。つまり、安倍首相や稲田防衛大臣が国会が紛糾するのを恐れて防衛省に不開示を指示したのか、あるいは防衛省が勝手にやったことなのかはわからない。

現在の「文民統制」とは報告書をあげていたかそうでなかったかという議論なのだが、実際には危険状態を誰が認識しておりどういう判断で派遣を継続したのかという問題の方が重要である。さらに、危険があるということを認識しながら任務を拡大したことに対する是非も議論されるべきであろう。

2017/1/17 岡部陸上幕僚長は南スーダンの日報があることを知っており、統合幕僚の辰巳統括官にその旨を報告していた。

2017/1/24 安倍首相が日報(全般)は報告のための文書であり公的文書の管理記録に従って廃棄されたと答弁した。安倍首相が日報が実際に存在しているということを知っていたかどうかは不明。

2017/1/27 辰巳統括官は黒江事務次官に南スーダンの日報問題について相談。すでになかったことになっているので見つかったものだけをあったというようにとの指示を行ったとされる。

2017/2/7  南スーダンの日報はすでに陸幕が廃棄したと言った手前統合幕僚監部で見つかった形にしようと判断し、背広組が稲田大臣にそう伝えた。

2017/2/13 幹部との間の会合で稲田防衛大臣「なんて答えよう」と発言したという記録が残っている。稲田大臣は「戦闘と言ってしまうと第9条との間で問題が起こるから戦闘とは言えない」と答弁して辞任を要求された。安倍首相は応じなかった。

2017/2/15 南スーダンでの記録も残っていないので、イラク復興支援の日報について問われて「こちらも廃棄した」と言わざるをえなくなった。稲田防衛大臣も含めた会合が行われ、黒江事務次官が「なかったといったものをあったとは言えない」と発言したとされる。

2017/2/16 今度はイラクの日報が本当にないのか野党が防衛省に問い合わせ。辰巳統括官は捜索の必要があると認識。(イラク日報についての経緯は毎日新聞の記事による)

2017/2/20  イラクの日報の問題で稲田大臣が「残っていない」と答弁。

2017/2/22「本当にないのか」と稲田防衛大臣が辰巳統合幕僚監部統括官に尋ねた。担当者はメールで3部署に確認したが「捜索したがなかった」と回答をしてきた部署の報告だけをあげて「探していない」部署については確認しなかった。

2017/3/27 教訓課でイラクの日報が発見されたが報告はしなかった。

2017/5 南スーダンからの撤収が決まる。Huffinton Post)の記事によると、政府は「危険だから」ではなく「任務が完了したから」撤収したと説明した。

安倍晋三首相は撤収する理由として、「自衛隊が担当している(首都)ジュバにおける施設整備は一定の区切りをつけることができる」と述べた。ジュバでは2016年7月に大規模な銃撃戦が発生するなど、南スーダンの悪化している治安情勢を考慮に入れた可能性もある。

2017/7/27 特別防衛監察の報告書が出る。防衛大臣が具体的な指示を出した可能性はあるが、照明はできないとした。この時点で黒江事務次官が主導して隠蔽を指示したとされた。責任をとって、防衛省のトップが辞任。稲田防衛大臣は事実上の更迭と伝えられている。

2017/7/28 当時の稲田朋美防衛大臣、黒江哲郎防衛事務次官、岡部俊哉陸上幕僚長の3人が揃って辞任した。(ニコニコニュース

2017/11 日報の実態把握調査が小野寺防衛大臣の指示のもとに始まった。(nippon.com

2018/3/7 三原文書課長はこの時点でイラクの日報があったことを知っていたが、他にいろいろと忙しいことがあったので小野寺大臣には報告しなかった。(JIJI.com

研究本部は1月12日、陸幕衛生部が同31日に、それぞれ陸幕総務課に日報の存在を連絡。陸幕は2月27日に統幕へ報告した。小野寺氏への報告が3月31日にずれ込んだことについて、防衛省関係者は「防衛相への説明や国会質問に耐えられるようにするため時間がかかってしまった」と釈明している。

2018/3/28 18年度予算案が可決され、国会で追求される可能性がなくなった。(毎日新聞)しかしながら、予算案成立の過程では森友学園をめぐる決済文書の改竄問題が取りざたされ、首相夫人の関与を巡り証人喚問が行われた。このため、その他の文書改竄や隠蔽が露見すれば政権の存続すら怪しいのではないかという雰囲気になっていた。その後、加計学園問題で首相官邸の関与があったらしいという証拠が見つかっている。

2018/3/31 防衛省によるとこの日になってはじめて小野寺防衛大臣に「日報があった」という報告がなされたとされている。

2018/4/9 安倍首相が日報が見つからなかったことに関して陳謝した。

2018/4/14 2004年に小泉政権下で実施されたイラクの日報にも戦闘の文字があったことが確認された。(朝日新聞)また、シリアが化学兵器を使ったとしてアメリカが大規模な攻撃を行った。国連による調査は行き詰っており調査団の活動期限もすでに切れていた。今回の攻撃では数百人規模のロシア人が亡くなっているという報道もあり、ロシア政府は国連に抗議したが抗議声明は否決された。安倍首相はいち早くアメリカに支持を表明した。(Blogos)トランプ大統領のシリア政策は支離滅裂であるという観測も出ている。(NewsWeek)ロシアとの親密な関係を強調するが、シリア攻撃でロシア人も殺しているからである。

Google Recommendation Advertisement



自衛隊の日報隠しがなぜいけないのか理解できなかった……

今日の話はちょっと気が進まない。普段わけ知り顔で得意そうに政治について書いているのに、今回は自分があまり賢くないということを示しているだけのエントリーになってしまうからだ。

実は自衛隊が日報を隠したことがなぜいけないことなのかがよくわからなかった。よくわからなかったので興味がわかず、あまり取り扱ってこなかった。

この疑問を解決するためには解決しなければならない二つの要素がある。一つは日本の防衛戦略に関する基礎的な理解である。これについては別に書くかもしれないのだが、要約すると次のようになる。

日本は国民の理解を得ながら防衛戦略を推進するしかない。変化の多い環境では「一人のリーダーが独占的に意思決定する」か「みんなが納得して意思決定してゆく」という二つの選択肢しかない。北朝鮮は前者を取ったわけだが、いったん国際社会に組み込まれてしまうと今度は経済的競争という「平和な戦争」が始まり、やがて労働党独裁では対処できなくなるだろう。中国のように限定的な解放という戦略は狭い北朝鮮では取れない。

ということで、この文章には日本は国民に理解してもらいながら権限を委託してもらうしか生き残る道がないという前提がある。これは民主主義が美しいから民主主義社会になるべきだというお話ではないし、武器を取るとやがて全面戦争になり地球が滅びるというようなお話でもない。一方で、自民党の強いリーダーシップと長い民族の歴史があればおのずと世界から尊敬されるというようなお話でもない。

そもそも、日報って何だろうと思った。何だかわからないので身近なものに例えようと思って題材を探した。最初に思いついたのはプログラミングだった。外付けハードディスクに日報の断片があったということなので素人プログラミングと状況が似ているなと思ったのだ。チームでプログラムをやる場合、当然ながら勝手にローカルにコピーして保存してはいけない。チーム内で共有しているプログラムが持っている変更を常に引き継いで行かないと思わぬバク担ってしまうからである。

しかし、この例は無理がある。森友学園の文書改竄問題のような契約書や決済文書の場合ローカルコピーが様々なところにあるのは問題だが、日報はそのようなものではないからである。このプログラミングのメタファーは日本人が協力できないということを考えるには重要なのだが、今回の例には当てはまりそうにない。

次に考えたのは日報が「トランザクションデータだ」というたとえである。つまり、最終成果物を作るために必要な材料というわけだ。この線で考えてゆくとすぐにそのヤバさがわかった。

「トランザクション」という考え方はコンピュータシステムを嗜まない人にはあまり馴染みがない概念かもしれないので「明細」と言っても良い。つまり日報は最終レポートを作るための原材料だ。

例えばフレンチレストランで食事を楽しんだあとに、ワインでふらふらになった頭で請求書をもらっても、明細は確認しない。これは私たちがお店を信頼しているからである。お店を信頼しているからこそ安心してへべれけになれるのだ。だが、あとになって支払いを思い起こし「過剰請求」されたのではないかと考えたとする。慌てて店に電話したところ「いや、もう明細は残っていないんですよね、そういう決まりなんで」と言われたらどう思うだろうか。多分「ぼったくりだ」と直感するに違いない。

日報は途中成果物なので最終レポートがしっかりしたものであれば特に見る必要はない。しかし仮に疑念があった場合には日報を取り出して「ちゃんと現地の情勢は反映されていますから」と説明しなければならないし「なんならご覧になりますか」と言わなければならない。

レストランの例で説明するとわかりやすいのだが、日報などと言われて「これは法令や省令で保存しなくてもいいということになってるんですよね」などと説明されると、法律じゃ仕方がないなと思ってしまう。稲田前大臣は「請求書は絶対に正しいし、その明細は捨てた」と言っているようなものなのであり、これは無理筋の説明だ。

ここまでドヤ顔で書いてきたが、多分みんなこれがわかっていて騒いでいるんだろうなと思った。新聞を読んでいる政治通の人たちもこれがわかっているんだろう。自分だけが理解していなかったわけで、ちょっと恥ずかしい気分になった。

途中成果物と最終成果物は不可分なので、最終成果物が取ってあるから途中成果物は捨ててもいいという理屈は成り立たない。明細を見せられないということは少なくとも不誠実の証だし、決まりにより捨ててもいいなどというのは、最初から騙す気満々だったということになる。レストランの例でいうと日本政府はぼったくりレストランなのだ。

しかも「何が何でも騙すぞ」と思っていたわけでもなかったらしい。財務省の例を見て「あとで問題になったら誰かのクビを差し出さないと収まらなくなるぞ」とビビったのだろう。ぼったくりレストランとしての覚悟もなかったようだ。

例えば新聞社は記事が最終成果物なので途中成果物は捨てても構わないとは主張できない。確かに取材源の秘匿という問題があり、普段は表にださないのかもしれないのだが、何か疑念があった時には取材メモを出さなければならないだろう。加えて別のところから「実は結論と違った事実を掴んでいた」というような話が出てきたら読者はどう思うだろう。多分、その新聞社は潰れてしまうか世間から叩かれるのではないだろうか。

さらに、調書も途中成果物である。普段はこれをおおっぴらにすることはないのかもしれないが、もしどこかから犯人を有罪にするためにはあってはならない調書が出てきたらどうだろうか。間違った情報だけで有罪判決を出してしまったとしたらその裁判はやり直しになるだろうし、警察は大いに責められるはずである。調書が判決の基礎になっているからである。

調書に関しては刑事事件として刑が確定したものに関しては情報が開示されるという法律があるそうだ。不起訴になった場合には開示されないともいう。

これらのことを考えていて、日報が隠蔽されていたということのヤバさがわかったのだが、一旦理解できると「なぜみんなもっと騒がないのだろう」と思えてくる。よくわからないが一部の人たちが騒いでいるだけなので「あの人たちは政権が欲しくて言っているんだろうな、お気の毒さま」と思っているのかもしれない。

さて、最初のややこしい話に戻る。日本は防衛戦略として「国民の理解を得ながら防衛政策を進めてゆくより他にない」というちょっと硬い話である。この部分はいったん文章を全部書いたあとに付け足した。なぜかというと結論が書けなかったからである。

日本人にとって民主主義は儀式(リチュアル)にすぎないのだから防衛文書が隠されていても儀式さえ滞りなく終わればそれで良いようにも思える。フランスのジャーナリストには「民主主義のお芝居をしている」と書かれているそうである。この人は紳士なのだろうがこれは皮肉ではない。多分事実だ。

政府も官僚も国会も司法もメディアも国民も、日本の民主主義を構成するすべての人たちが表面上はそれぞれの役割を果たしているように見えて、実際には「民主主義というお芝居」を演じているだけなのではないか?という皮肉すら言いたくなってきます。(ルモンド特派員 フィリップ・メスメール)

お芝居でも国は動いているわけだからそれでもいいじゃないかという見解は成り立つ。だがこれが成り立つのは固定的な環境があって、そこに順応するストーリーを時間を書けてでっち上げられる場合だけだ。現実の国際情勢は刻一刻と変化し、アメリカ大統領までもが「日本はアメリカの防衛戦略にフリーライドしている」といって拍手喝采されるようになってしまった。隣の国は核兵器を持とうとしている。この状況に対応する唯一絶対の正解があるという人がいたらその人は十中八九大嘘つきだろう。

こうした情勢の変化を受けて意思決定しなければならないことは増えてゆくはずのだが、その度に「センソー(何の戦争かはわからないけどとにかく「センソー」)ハンタイ」というデモを起こされて国会が止まっては困るのだ。だから、軍が関与する国際情勢上の変化はありのままに伝えられる必要があり、その意思決定はお芝居や儀式では困るということになる。そしてそれは防衛だけでなく経済にも影響が波及する。経済競争は多分「平和な戦争」である。

この点について考え出すとかなり長い文章になりそうなので、今日はここまでにしたい。今日の結論は日本政府は、意気地のないぼったくりレストランだということである。

Google Recommendation Advertisement



韓国には未来永劫謝罪しつづけよ

韓国と北朝鮮が「一発即発」の事態に陥った。すわ朝鮮戦争の再開かと思ったのもつかの間、対立はおさまった。北朝鮮が謝罪したからだ。これには拍子抜けした。「ゴメンですむなら警察は要らない」という言い方があるが、朝鮮半島では「ゴメンですむから戦争しない」わけだ。

日本人は形式上の謝罪ではなく本当の気持ちが大切だと考える傾向がある。心がこもっていない謝罪は屈辱である。だから、軽々しく謝罪してしまうとますます誠意を見せなければならなくなるかもしれないと警戒する。どこまでも譲歩をしなければならないと覚悟するのだ。だから、日本人は軽々しく謝らない。

ところが、韓国や朝鮮の人はそうは考えないらしい。彼らにとって大切なのは「体裁」と「体面」である。どのように処遇してもらうかが大切で、相手から謝罪を勝ち取らなければ「弱腰だ」と非難されるのだろう。韓国の民衆は力の強い相手に対しては強くでられずに、屈折した気持ちを持つ。これを「恨(ハン)」と言う。指導者が「謝罪」を勝ち取ることにより、民衆は溜飲を下げることができるのだ。

だったら、日本の政治家や外交官は韓国政府の首脳に会うたびに、挨拶の代わりに謝罪すればいい。身振り手振りなどを交えてできるだけ大げさに謝罪するのが良いだろう。だからといって、何もする必要はないし、罪悪感を感じる必要もない。謝罪は彼らの体裁を満足させてあげているだけなのだ。

70年談話については、日本国内で様々な議論が交わされた。これは、日本人が戦争についてとても真面目に考えているという点では好ましいのだが、実際には「謝罪」という言葉が入っていれば、そこにたいした裏打ちがなくても良かったのだ。また、これは指導者に対する民衆の感情なので、日本国民が韓国人に謝る必要はない。

これは「韓国人をあげつらっているのだろう」とか「蔑視だ」と考える人もいるかもしれないが、単なる文化差によるもので、どちらが正しいというわけではない。もう少し例を挙げてみよう。

ドナルド・トランプ氏は「日本はタフな交渉者だ」と主張し、アメリカ人の歓声を浴びた。日本人はこれを聞いて「日本はアメリカにこれだけ遠慮しているのに、なぜ非難されるのだろうか」と思うかもしれない。

これには理由がある。日本人は遠慮がちで相手に慮った言い方をしがちだ。また、会談の席では表情を表に出さずにいるのが礼儀だとされる。そこでアメリカ人は「表情はよく分からないが、自分の言い分は認められているのだろう」と推測しがちである。ところが、日本人は「自分の一存だけでは決められない」と言い結論を持ち帰ることが多い。その結果、結論が覆ることも多い。それを見たアメリカ人は「日本人はポーカーフェイスで相手を騙そうとしている」とか「良い条件を引き出そうとしている」とか「タフな交渉者だ」と感じるのだ。

こうした文化差には注意が必要だ。安倍首相は4月に訪米し「日本はアメリカを防衛できるようにします」と言って喝采を浴びた。ところが、国内では「日本が攻撃されない限り、他国防衛はしません」と説明している。持ち帰りの結果、結論が変わりつつあるわけである。

安倍首相は相手に配慮して、日本の細かい事情を説明しなかっただけのかもしれない。しかし、相手にしてみれば「約束が違う」ということになりかねない。アメリカ人は率直さを好み不正直をとても嫌うので、彼らを怒らせることになるだろう。

日本人として謙譲の美徳を持ち、相手に誠意を示すのはとても大切なことだ。しかし、その誠意がそのまま伝わるとは限らないのだ。

集団的自衛権と有権者の意思形成

無関心期

長らく、アメリカの保守派やジャパンハンドラーは日本政府に対して集団的自衛権の行使容認を訴えてきた。安倍晋三は第一次政権時代から集団的自衛権の行使容認に意欲を見せていた。当初は憲法を改正して、集団的自衛権の行使を容認する計画を持っていたものと思われる。その後、民主党の野田政権が集団的自衛権行使容認を議論した。

一方、集団的自衛権に関する国民の関心は強くなかった。一部の右派系雑誌が中国の脅威と絡めて日本の軍事的プレゼンス強化を訴えるのみだったが、雑誌の部数が少なく、議論の広がりはなかった。

その後、第二次安倍政権が発足し、2014年7月1日に憲法解釈を変えて集団的自衛権の行使容認を決定する。しかし、国民の関心は必ずしも高くなかった。安倍政権は2014年12月に「アベノミクスの成否と消費税増税の延長」を争点として衆議院議員選挙を行った。自民党のマニフェストには小さな字で集団的自衛権について書いてあったが、大きな争点にはならなかった。

コンテクストの不在

第三次安倍政権は2015年になって、アメリカの議会で集団的自衛権の行使容認を含む約束をした。公の場でコミットメントしたために、その後妥協の余地はなくなった。

その後、10の安保法案に1つの新しい法律を加えて国会に提出した。この頃から新聞での報道が多くなったが、国民の大半は「分からない」と考えていた。支持率は25%から30%といったところだ。

安倍政権は、中国の脅威とアメリカの依頼という重要な2つの文脈を国民に説明しないままで安保法制の説明をした。コンテクストが不明だったので、多くの国民が唐突な感じを持ったのではないかと考えられる。安倍首相は「敵に手のうちを明かす」という理由で、国民への説明を拒んだ。

権威ある第三者の登場

「潮目が変わった」のは、6月4日の憲法審査会だった。安保法制とは関係のない審査会で、自民党が推薦した憲法学者を含む3人が、安保法制は違憲だと表明した。これをきっかけに、安倍政権が秩序に挑戦しているのではないかという疑念が広まった。これを表現するのに「立憲主義に違反する」とか「憲法違反だ」という表現が使われるようになった。安保法制の内容に反対しているのか、安倍政権の態度に反対しているのかは判然としない。

態度を決めかねている有権者は、意思決定のために党派性のある意見を使わなかった。憲法学者は政治的に中立なポジションにいるものと信じられており、権威もあったので、態度を決めるのに役に立ったのだろう。

その後も「賛成派」や「反対派」の立場の人が国会の内外で自説を述べたが、世論には大きな影響を与えることはなかった。そもそも安倍首相が「敵に手のうちを明かすから」という理由で説明を拒んだために、賛成派も反対派もそれぞれの理由付けをして自説を補強しただけだった。

新聞とNHK

長い間日本では新聞は中立だと考えられてきたが、今回の安保法制では意見が別れた。政権に好意的な新聞(読売、産経)と批判的な新聞(朝日、毎日)である。態度が決まっている人は、同じ意見を持っているメディアを紹介する可能性が高い。故に、中立を装うよりも、ポジションを明確にした方が一定の読者にアピールする可能性が高まるのだろうと思われる。

NHKの評価は芳しくない。中立を装いつつ安倍政権を擁護しているのだという見方が一般的だ。NHKへの「言論封殺」が直接指示されたわけではないものの、結果的にNHKは萎縮した。安保関連の企画が通らなくなったという声もある。このため、政府にとって有用な説明もなされず、賛成派にとっては必ずしもよい結果をもたらさなかった。

これまでの観察から類推すると、メディアには党派性があるために、態度強化の役には立つが、態度変容のためには役に立っていないのではないかと思われる。

政党離れ

安保法制への反対が増えるに従って、反対表明をしている共産党や民主党への支持が増えてもよさそうだが、支持は広がらなかった。60%程度が無党派になっている調査もある。この点についての調査や分析は行われていない。

民主党は野田政権時に集団的自衛権行使容認を目指したのだが、現在は反対を表明している。また、民主党の中にも「反対派」と「実は賛成派」が混在しており、ツイッター上で自説を述べ合っている。対案が出せないのは民主党内の意思が表明されていないためと思われる。

安保法制を「戦争法案だ」と考える主婦や学生が「戦争反対」のデモを開始した。賛成派はこれを「共産党の影響を受けている」と攻撃したが、デモを主催する人たちは「共産党とは関係がない」と反論した。

一連の出来事から、既存の政党への拒否反応が広がっている様子が感じられる。政治的なイシューと政党が必ずしも結びつけて考えられていないのである。特にデモを起こして反対する人たちにとって「党派から独立していること」が重要だと考えられている。

ツイッター上の部族とニュースイーター

安保法制の議論がエキサイトするにつれ、ツイッター上では「賛成派」「反対派」が明確になり、相手を攻撃するような光景も目にするようになった。このことから、ツイッターのフォロワーは必ずしも賛意を意味するものではないことが分かる。反対の意見を持った人を監視し、攻撃するためにフォローする人が少なからずいるのである。

一方で、態度を決めるためにツイッターを利用している人も多くはなさそうだ。むしろ、ツイッターは態度強化の為に利用されている。賛成派と反対派では、もともとのストーリー構成が違っている。このため、部族が異なると、相手の言っていることがよく分からないのだろう。いったん意見表明してしまうと自分の発信に対するコミットメントを深めてしまうので、態度変容が難しくなる様子も分かる。

一方で、態度を折り合わせるために共通のストーリー作りを目指すという声は聞かれなかった。

ごく少数ではあるが「事実はどこにあるのだ」という当惑の声も聞かれる。ここでも「中立性」が求められている。ストーリーによって見方が異なるので「ただ一つの真実」というものはないのだという見方をする人は少ない。つまり、比較が重要だということ を考える人はほとんどいない。

もう一つの顕著な層は「ニュースイーター」と呼ばれる人たちである。この人たちは、折々のニュースをフォローすることに興味があるが、自身の意見を持っているかどうかは分からないし、態度強化や態度変容を目指して情報収集しているかどうかも分からない。ニュースはタイムラインを流れて行くものなのだ。

Faceboookはニュースイーターを多く抱えているものと思われる。サイト解析から見ると、年代は30歳代より上が多い。今回の場合「安倍君と麻生君の例え話」や「火事と生肉の例」など、テレビで話題になった事案に引きつけられることが多く、必ずしもニュースの本質的な議論に興味があるわけではなさそうである。

「強行採決」

支持率が急落し、賛否が逆転したのは、法案が衆議院議会で採決された7月15日前後だった。法案の中身よりも「世論が納得していないにも関わらず」法案を押し通したという点が、反発されたのではないかと思われる。

この時期になっても賛成派は約25%とそれほど変わっていない。安倍首相自身がテレビに出て安保法制について説明したが、火事になった家の例は国民を困惑させただけで、視聴者に態度変容をもたらすことはなかった。

集団的自衛権 – アメリカは何を求めていたか

集団的自衛権の議論は分かりにくい。国内議論では元々のリクエストが隠蔽されているからだ。そこで、アメリカの要求を検討することで、本当は何が求められていたのかを考えてみたい。

アメリカのリクエスト

そもそも、これは陰謀ではない。例えば、アメリカのヘリテージ財団は、野田政権の末期に次のように書いている。(クリングナー論文

米国政府は長きにわたって、日本が自国の防衛により大きな役割を担うこと、さらに海外の安全保障についてもその軍事力・経済力に見合う責任を負担することを求めてきた。日本が防衛費支出を増大させ、集団的自衛権行使を可能にし、海外平和維持活動への部隊派遣に関する法規を緩和し、沖縄における米海兵隊航空基地代替施設の建設を推進することになるとすれば、米国にとって有益なことである。

その上で、日本の海外権益を守る為にシーレーン防衛を実行すること、自衛隊海外派遣隊が自力で自己防衛できる能力を備えるようにすること、日米韓で連携することなどを求めている。

ここからいくつかのことが分かる。第一にアメリカは「日本が集団的自衛権を行使できない」ということを認識している。故に、小川和久さんの主張にあったように「日米同盟は集団的自衛権の行使が前提である」という論は成り立たない。

次にアメリカは日本が防衛費支出を増大させることを期待している。これは安倍首相の主張とは異なっている。安倍さんは「納税者の負担は増えない」と言い切っているのだが、これはアメリカ政府のリクエストを満たさない。

さらに、アメリカは自衛隊を軍隊へ格上げして、日米同盟を日本防衛のスキームから海外でも活動できる軍事同盟に格上げすることを期待している。このためには憲法改正が必要であり、憲法改正には国民の理解が必要だ。そもそも、そのためには国民の意識変革が必要だろう。

アメリカのシナリオと誤算

このレポートは、日本に政策転換を促すために、中国の脅威を強調して民族意識を刺激しろと言っている。この戦略は当たった。

一方で誤算もある。中国の脅威やアメリカ政府のプレッシャーでは日本人の意識を変えられなかった。

日本は第二次世界大戦で海外権益を失ってしまったために、権益を防衛しようという意識を失った。さらに、自衛隊はアメリカ軍のサポートであるという意識があり、規模(世界第九位)の割に軍事的大国であるという自己認識がない。さらに70年前の戦争が大きな失敗体験になっていて、戦争に拒絶反応がある。

両国間にある「防衛観」の違いも大きかった。アメリカ人が考える防衛は「多国籍・積極的介入主義」だが日本人にとっての防衛は「一国・専守防衛主義」である。このため「集団的自衛権」と「個別的自衛権」が選べる場合「個別で対処すればいいのでは」という意識がある。

さらに、国民レベルで見ても防衛観は異なっている。アメリカ人にとって銃で武装することは自己防衛だ。市内にある危ない地域を車で通る時に銃を持ってでかけることもある。だが、銃武装が禁止されている日本人はそうは考えない。銃を持つということは人殺しが前提であり、それは防衛と呼ぶには過剰なのである。

安倍さんの失敗、ネトウヨの失敗

安保法制賛成派の立場から安倍政権の行ったことを評価してみよう。賛成派の最終目標はアメリカの主張を日本人に受け入れさせて実際に実行させることだ。

安倍晋三に期待されていたのは、リーダーとして日本人の意識改革をすることだった。中国の脅威を強調しつつ、民族意識を刺激し、大国としての自負心を植え付けることだ。

ところが、安倍晋三は「お友達」と呼ばれる価値観を同じくするもの同士でメッセージを共有するだけで、他者の意識を変革する努力を放棄した。そればかりか、立憲主義を無視して憲法に違反する法律を制定しようとしている。このため、安倍首相の行動は憲法クーデターだと呼ばれるようになった。

また、ネトウヨがやるべきだったのは、匿名のネット上で中国人や韓国人をバカにしたり、民主党をこき下ろすことではなかった。職場や友達などに「日本人は大国意識を持つべきだ」と主張し、実際に行動を変えることである。消費者であってはならず、生産者になるべきだったのだ。

アメリカの反応

衆議院の法案通過を受けて、ヘリテージ財団のブルース・クリングナー上級研究員は「変化は哀れな程小さい」と評価した(時事)。さらに、フォーリンポリシーは安倍首相の今回の行動を「憲法クーデターだ」と呼んでいる。過去の政策と整合性がないが、国民の支持も得られていないという含みがあるものと思われる。

アメリカ政府は明確なコメントを出していない。民主主義を擁護するという名目で他国に介入するアメリカとしては、非民主的なプロセスで送り出される軍隊を表立って賞賛することはできないのかもしれない。

矮小化された議論と自民党の限界

レポートの是非はともかく、ここから分かるのは、アメリカの保守派が日本政府と日本人に「多国籍・積極的介入主義」を受け入れさせたかったということだ。集団的自衛権の行使はそのためのツールに過ぎず、憲法改正ですら単なる途中経過なのである。

意識を変えるのは難しい。極端に言えば、主婦や学生に「銃を持って海外に行くことは、防衛である」と信じさせなければならないのだ。安倍政権のやろうとしたことは、戦後イデオロギーの大胆な転換だった。しかし、安倍政権は自民党をイデオロギー政党に変革することに失敗した。

自民党は戦後長い間「経済政党」だった。経済成長を実現しその果実を分配する装置として機能してきた。ところが、シーレーンを防衛しても新しく分配できる利益は増えないばかりか新たな負担を抱えてしまうことになる。故に、旧来のスキームで安保法制を国民に受け入れさせることはできなかったのである。

安倍首相はなぜ国民を怒らせたのか

ひっかかりのない思考的議論

ツイッターで安保法制の議論を読んだ。アメリカ政治の専門家によるテクニカルなもので、とても退屈だった。もし、政府の議論がこのようなものだったら、国民を二分する議論にはならなかったのではないかと思った。感情に訴えかける余地がないからだ。

価値判断に重きをおく安倍首相

一方、安倍首相の説明はよくも悪くも国民の感情に訴えかけた。結果的に、安倍首相は集団的自衛権の議論を混乱させた。

安倍首相は「価値観の人」だ。価値観の人は特定の価値を共有して理解を深めようとする。安倍首相は同盟関係を評価するのに「民主主義、法の支配など普遍的価値観を共有する国」という言葉を使う。一方韓国は「民主主義、法の支配など普遍的価値観を共有する国」ではない。敵味方がはっきりしているのも価値観の人の特徴の一つだ。

安倍さんの主張は仲間内で大きな賞賛を集めた。雑誌WILLなどを読むとこのことが分かる。彼らは安倍さんと価値観を共有しており「そもそも、美しい国を守るのに、面倒な理論は要らない」という主張を持っている。自民党が下野している間も信頼関係は揺らがなかったので、必ずしも利権などの損得で結びついているわけではなさそうだ。

価値判断と損得判断の遭遇

集団的自衛権行使容認派の中には「戦略的思考」を持つ人たちがいた。戦略的な人はいろいろな検討をしたあとで、どのアプローチが得か考える人たちである。彼らは自分たちの主張を通すために「価値観の人」を取り込むことにした。知恵を授け理論構築と整理を行った。アメリカからの要望はおそらく戦略的思考に基づいて発せられたものだろう。外務省にも戦略的な人たちがいて、アメリカの要望を理解したに違いない。

オバマ大統領は様々な意見を聞いた上でどちらがアメリカの国益に叶うかを考える戦略的指向を持っている。時には双方の主張を折り合わせることも検討するバランス型でもある。ところが、安倍首相は価値観の人で「どちらが正しいか」は最初から決まっている。オバマ大統領が当初安倍首相と距離を置いたのは、性格に大きな違いがあったからではないかと考えられる。

直観と感覚の相違

ここで行き違いが起こる。安倍さんが「感覚的」な人だったからだろう。感覚的な人は、背景にある論理を直感的に捉えるのではなく、興味がディテールに向く。戦略的思考の人たちが論理から例示を導いたのに、例示だけが印象に残ったのだろう。

戦略的な人が直感的に捉えれば、個々の例示から背景にある論理を読み取ったに違いない。戦略的思考を共有している外務官僚に任せていれば、それなりの答案が出たはずだ。ところが、細かな例示にばかり気を取られる政治家は「あれもこれも」実現しなければならないと思い込む。政治主導が発揮しているうちに、例外のある複雑な理論が構築されてしまったのではないかと考えられる。

価値観の人が秩序の人を怒らせる

安倍さんが次に困惑させたのは、憲法学者や元法制局長官などの「秩序の人」たちである。秩序の人は損得や正しさよりも論理的な秩序を優先する。彼らにとって正しいのは「法的な整合性が整っている」ことである。安倍首相の「正しければ、整合性はどうにでもなる」という考えが彼らの反発を生み「立憲政治の危機」という発言につながった。

皮肉なことに、安倍さんの憲法無視の行動は、アメリカさえ刺激しかねない。フォーリン・ポリシーは「憲法クーデター」という用語を使っている。「民主主義、法の支配など普遍的価値観」への挑戦だと見なされているのだ。「憲法クーデター」を根拠に動く軍をアメリカが利用するわけにはいかない。アメリカは、少なくとも表向きは「民主主義という価値観」を守るために行動しているからだ。

価値観のぶつかり合いは感情的な議論に火を付ける

秩序の人たちは、価値観の人たちから「合憲であれば正しくなくてもよいのか」と非難され、戦略的な人たちからも「合憲であれば損をしても良いのか」と攻撃された。加えて「平和憲法こそが美しい日本の根幹をなす」という価値観を持っている護憲派の人たちも加わり、議論は思考のレベルを越えて感情のレベルで火がついた。

感情的なぶつかり合いは戦略的思考を持っている人たちに利用されることになる。民主党の枝野さんたちは、戦略的にこの混乱を利用することを考えた。そこで「いつかは徴兵制になる」という感情的な議論をわざと持ち出して護憲派を刺激した。感情的議論はついに主婦にまで飛び火した。

稚拙な論理が聴衆を困惑させる

この時期になって、良識ある人たちは遅まきながら「法案の内容を理解しなければ」と考えるようになった。しかし、最初から理論が複雑な上、安倍首相の意図の全体像も明らかにならなかったので、当惑されるだけだった。

遅まきながら安倍さんはインターネットテレビに登場し「麻生君と安倍君」の例を使って集団的自衛権を説明しようとしたが、理論構築があまりにも稚拙なため失笑を買った。

価値観を中心に議論している人たちにとって「仲間を助けるのは当たり前だ」という単純な議論が伝わらないのは不思議に思えるかもしれない。丁寧に話せば分かってもらえると考えるのも無理のないところだろう。ところが、相手が聞きたがっているのは「彼らの価値観」ではないかもしれないのだ。

リーダーにとってコミュニケーション戦略は重要

「理解」の質は様々だ。価値観の人たちは「どちらが正しいか」を考え、戦略的思考の人は「どちらが得か」を評価したがる。大枠で理解したいと思う人もいれば、細かな状況に注目する人もいるのである。

安保法制の是非はともかくとして、このケースは多様なコミュニケーションを理解することの大切さを教えてくれる。コミュニケーションスキルのないリーダーを選ぶと国益さえ損ねかねないのである。

2号さん更迭

ツイッターNHK PRで「中の人」として活躍していた2号さんが担当を外れることになった。本人から説明はなかったものの、あるツイートが問題になったものと思われる。

当初、NHKは衆議院での安保法制の委員会採決(7月15日)と本会議採決(7月16日)を報じる予定はなかった。これが「強行採決」という印象を国民に与えないためにNHKが配慮しているのだとして批判を浴びる。ツイッター上では「コールセンターに電話しよう」という運動が起き、NHK PRのアカウントにも抗議が殺到した。

そこでNHK PRは「国会中継がないことについて抗議が来ている旨を担当に伝える」というツイートを出した。

結局、NHKは採決の場面だけは報じた。世論がNHKを動かしたのか、最初から予定があったのかは分からない。一方で、NHK PRの「伝えます」ツイートは削除され、ツイートした2号さんはツイッターの担当を外れることになったのだ。

背景にNHKの配慮があるのは間違いないだろうが、政府の「国民にはなるべく知らせないでおきたい」という思惑も感じる。

このNHKの姿勢は「中の人」たちを萎縮させるだろう。自分たちの持ち場で職業的道義心を発揮すると持ち場を外されてしまう可能性があるということになるからだ。職員たちはただ機械のように行動すればよいという暗黙の圧力である。

職業的道義心は大切だ。組織も社会も間違った危険な方向に進むことがある。リーダーが意図して間違った方向に進める場合もあるだろうし、誰も指導する人がいないのに危険な水域に進むこともあるだろう。このとき歯止めになるのは、現場メンバーの良心だけだ。

一方で、政府はNHKの萎縮が自分たちの首を締めていることも自覚すべきだろう。

賛成派の言い分に従うと集団的自衛権の放棄は、憲法上の制約ではなく、時の政権の「政策的判断」だ。そのことは、歴史を検証すれば分かるはずである。

確かに、ベトナム戦争時に沖縄の米軍基地を使用させたことも「後方支援」だと解釈できる。日米安保を維持しながら集団的自衛権の行使を容認しようと言わないのはねじれた対応であり、政府がどうしてねじれた対応をすることになったのかを検証する価値は充分にあるだろう。

しかしNHKは「政府を刺激したくない」と萎縮しており、こうした取り組みを一切してこなかった。その為に、賛成派は安倍政権や外務省の主張も一切知らされていない。だから賛成派のコメントは「自国防衛を強化するためには議論は要らない」の一点張りで、説得力のある議論が展開できなくなってしまった。

議論が噛み合ないせいで、国民の間には集団的自衛権や安保法制はなんとなくうさんくさいものだという印象だけが残った。このため、正義の使者であるはずの自衛隊は、当分の間こっそりと行動することを余儀なくされるだろう。