相撲協会の崩壊とガバナンス

昼間のワイドショーで面白い議論が展開されていた。「ガバナンスとは何か」という問題だった。面白いのは誰一人ガバナンスについて説明ができないのに、ガバナンスは必要だとして議論が進んでいたことである。誰も不思議に思っていないことが面白くもあり不思議でもあった。

ワイドショーでは今、貴乃花親方の引退が騒ぎになっている。だがその問題の本質は「言った言わない」である。当初は貴乃花親方優位だと思われたのだが、一部のスポーツ新聞が「貴乃花親方が勘違いしていた」という情報を流し始めた。スポーツ紙は今後も相撲協会から情報をもらう必要があり親方たちの意見に疑問を挟めない。そこで貴乃花親方の勘違いで相撲協会のいじめはなかったのだという情報を流しているのだろう。ジャーナリストの中にはこれを無邪気に信じて情報を流していた人もいた。

ここからわかったことは相撲協会の統治の仕組みはかなり前近代的であるということである。メールが発達した現代でも知り合い同士の口頭伝達が主な連絡手段なのだ。だがそれをおかしいという人はいない。なぜならば相撲協会に集まってくる人たちは彼らを利用して商売をしているからだ。みな「伝統社会なのでそんなものなのだ」という。

話の流れから、相撲協会は補助金の分配の管理を一門に任せることにしたということがわかってきた。一門に所属していない親方は「お金を何に使ったのか」がわからなくなるからダメなのだそうだ。だが、よく考えてみるとこれはおかしい。そもそも、暴力問題が起きたのは一門の内部で管理が行き届いておらず、これまでもお互いにかばい立てして暴力を隠蔽してきたからである。隠蔽ができているうちは良かったが外に漏れるようになり、騒ぎになったというのが事の発端だった。だが、相撲協会は身内の暴力問題も管理できない一門にお金の管理をさせようとしている。

一門にお金を管理させるという決定は口頭で「なんとなく」行われ、知り合いの親方たちに口頭で「なんとなく」伝えられた。その時に異論を挟んだり再検討を促した人たちはいなかったのだろう。結局、難しい問題に対応できないと人は知っているスキームに戻ってゆき、問題はなかったことにされる。

だが口頭連絡では誰が何を言ったかがよくわからず、その解釈も人それぞれである。理事会で口頭でなんとなく決まったことについて、それぞれが合意しないままでなんとなく理解したのであろう。だから理事会から出た人たちの解釈も最初から実はバラバラで、それが伝言ゲームを起こす中で「なんとなく」誤解されたのだ。これを、予備情報と思い込みがあって聞いていた貴乃花親方は諸般の事情もあり「ああ、これは自分がいじめて追い出されようとしたのだ」と感じ、「じゃあ俺はやめる」となった。それを突然聞いて慌てた田川の講演会の人たちは東京にやってきて涙ながらに「俺たちは何も知らされていない」と訴え、テレビは親方たちの「言った言わない」について一時間以上も話し合いを続けているということになる。全部がなんとなく行われており、それぞれが勝手に解釈した情報が飛び交っているというのが、村落的なガバナンスの欠点である。

このワイドショーの議論の中で、相撲ジャーナリストの人が面白いことを言った。相撲も一門を廃止しようという話が出たそうなのだがうまく行かなかったそうだ。ある程度票の取りまとめをしてくれる一門がないと「選挙がぐちゃぐちゃになる」というのである。そこから先はスルーされていた。誰もこれが重要だとは思わなかったのだろう。そして別の人が「そもそも誰がガバナンスなんて言い出したんですかね」と言った。「横文字で言われてもわからない」というのである。

もちろん相撲協会にはガバナンスはあった。それは一門というくくりの中で「なんとなく」行われていた。それがうまく行かなくなったので新しい統治方法が必要になっているのである。古い統治方法がうまく機能しなくなっている理由もなんとなくはわかっている。弟子の数が減っており外国人に頼らないとやってゆけなくなっているからである。相撲協会は引きこもるか、透明性の高いガバナンス方法を学ばなければならない。全てがなんとなくなのは、結局理事会で話し合ってこれを公式見解として一つに統一しないからである。

日本人は意思決定ができない。

相撲でガバナンスという言葉が出てくるようになったのは、例の暴力騒動以降のようだ。相撲は公益法人なので「ガバナンス」が求められるのだが、それができていないというわけである。では、ガバナンスとは一体何のことを意味しているのかと問われると、日本人にはうまく答えられない。にもかかわらずみんなで「やれガバナンスがなっていない」だの「日本にはガバナンスは向かない」だの言っているということになる。「公益法人にはガバナンスが必要だ」とみんななんとなく信じており、それぞれが勝手に解釈している。

実際の相撲協会は日頃から冠婚葬祭などで結びつき合っている地縁血縁的集団がないとどうやって理事長を決めていいのかすらわからない。地縁血縁の縛りがないと、ある人は貴乃花親方のように理想にこだわり続けるようになる。また、別の人たちは「票を入れてくれたら優遇してやる」とか「あの親方は普段から気に食わなかった」と言い出して選挙が荒れてしまうのであろう。

相撲協会が古いガバナンスに依存してしまうのはどうしてなのか。それはお金の流れに関係があるのではないかと思う。

「公益法人だからさぞかしたくさんの補助金を受け取っているのだろう」と考えて調べてみたのだが実際の補助金の額はそれほど大きくなさそうだ。つまり、透明性を持って扱わなければならないお金はそれほど多くない。一方、放送権料はかなりのもので一場所あたりの収益は5億円になる。これが年間6回も行われるので、NHKは30億円を相撲に支払っている。ちなみにこれは大河ドラマと同じくらいの予算規模なのだそうである。

大相撲は現在の仕組みを維持している限りにおいては黙っていても年間に30億円が入ってくる仕組みになっている。これを理事長が差配して山分けするということになれば取り合いになるのは必然である。一門という伝統の縛りをなくすと手近な親方を買収して多数派工作をしてあとは山分けということができてしまう。だからこそ一門のような固定的な仕組みを作って、これを相互監視によって防がなければならない。伝統はしがらみとして変えられないからだ。

ガバナンスは日本語で統治の仕組みと置き換えることができるのだが、英語由来の言葉なので英語経由で「後から検証可能な」というようなニュアンスが付帯している。一方、日本にも古くからの統治の仕組みがあるのだが「なんとなく緩やかにふわっと決まる」という日本流の仕組みが紐付いている。みんなが勝手に解釈できるので「自分が否定されている」という気分になりにくいのだろう。

ここにも過剰適応の問題がある。人は知らないものではなく知っているものに惹きつけられる。だが、その中で視野の外側にあるものが見えなくなってしまうことがあるのだ。

相撲は将来的に行き詰ることが見えている。スポーツファンたちはもっと透明性が高いところにゆく傾向があるからである。国際社会に接触しプロ化も進んでいるサッカーや野球には契約の概念があり努力が報われやすい。こちらのほうが実力どおりにの見返りが得られる仕組みが整っている。将来的にはメジャーリーグやヨーロッパサッカー界での活躍も可能である。

相撲は中学生で入門した後は相撲しかやらせてもらえないので幕内になる前に怪我などで廃業しても「全くつぶしがきかない」ことになる。今回の元々のきっかけになった日馬富士暴行事件では被害者に味覚障害が残った。相撲しか知らずつぶしがきかない上にちゃんこ屋も開業できない。暴力事件に向き合わなかったことで再び暴力が起こる素地は残されたままなので、今後、まともな親が相撲部屋に弟子を預けるはずはない。田川から来た泣いていた支持者の子供たちは貴乃花親方が去ったあとの大相撲を応援することはないだろう。「おじいちゃんたちが惨めな思いをした」のを目の前で見ているからだ。

また「モンゴル人閥」ができることで相撲協会のガバナンスは危機にさらされた。彼らはモンゴル人のままでは親方になれない。モンゴル人も日本の親方たちが見えないがそれは同時に日本人もモンゴル人社会が見えないということを意味している。だから日本人理事にはモンゴル人は管理できない。

これを緩やかに変えるためには徐々にお金の流れを変えてゆくべきなのだが、NHKの年額30億円は少し大きすぎる。これが貴重な財源であるということは確かなのだが、これがあるせいで将来の収入が閉ざされつつあるというとても皮肉である。スポーツ新聞を黙らせるには十分な金だが、相撲ファンを増やすには十分ではない。

実は同じようなことが日本の政治や社会でも起きているのではないかと思う。日本は債権国なので外国からお金を持ってくる必要がない。製造業が稼ぐ必要も農産物を売る必要もないのだ。すると外から新しい価値観を取り入れてでも海外にものを売ったり資本を調達しようという意欲は失われる。そこで、ガバナンスが必要なくなり「今入ってくるお金を好きな人だけで山分けにしようぜ」というような気分が生まれるのだろう。

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問題は村と村の間にある


右側にあるシステム経由で投げ銭をいただきました。テスト的に導入したので入金があるとはおもわず、お礼をどうするか、どう報告するか、ご本人にお礼を出すかなどの詳細を考えていませんでした。毎日あまりあてもなく書いているのでこうした励ましはとてもありがたいです。なお文字数に制限がありメッセージは137文字で切れるようです。いろいろ行き届かず申しわけありません。


貴乃花親方の問題を見ながら、日本の村落共同体について観察している。小さな村落の集まりである日本社会では村と村は緊張関係にある。だから、村を超えた協力は起こらないというような話になりつつある。逆に緊張関係が破られてしまい一つ強い村ができると「ガン化して暴走する」ということだ。村構造には利点もあるが欠点も多い。しかし、日本人は村に慣れ過ぎておりそれ以外の社会統治の仕組みを村統治に置き換えてしまう傾向があるようだ。

観察の過程でわかったのは、すべての問題は個人に落とし込まれるということだ。問題を指摘して改革を起こそうとした人、組織の限界を超えて成長しようとした人などはいじめられて貶められることになる。その時に問題ではなく人格が攻撃されるのが常だ。

今回は貴乃花親方問題について考えたのだが、もともとのきっかけは「日馬富士暴行問題」だった。このブログのタグは今でも日馬富士暴行問題となっている。解決されるべき問題は暴力の根絶だったのだが、いつのまにか部屋の長である親方同士の人格攻撃に矮小化されて鎮圧されてしまった。その過程で日馬富士暴行問題を起こした構造上の問題は解決されることなく、八角理事長が再選されたことで「禊がすんだ」ことになった。

だが、同じような問題はいくらでも見つかる。例えば伊調馨選手の問題は、才能があり国民栄誉賞まで取った伊調馨選手が成長を求めた結果排除されかけたという問題である。大切に扱えばまだ金メダルが取れたかもしれないという問題の他に、成果をあげたのにさらなる成長を目指した結果組織に反逆して潰されかけたということになる。このため「あの人は選手なのか」と存在を無視されかけている。この裏には至学館という村が女子レスリングを支配しているという問題があった。日本人は個人は村の限界を超えて成長してはいけないという掟の中で過ごしており、もし限界に触れてしまうと追放の憂き目にあうということである。フジテレビの取材によると練習場所を提供する大学は極めて少ないそうだが、これは栄監督ら至学館派閥が女子レスリング強化選手の許認可権を握っているので大学側が「忖度しているのだ」という観測がある。この問題がうやむやになれば、成長を目指す日本の女子レスリング選手は海外に拠点を移さざるをえないかもしれない。

またマクドナルドでwi-fiがうまく動作しない問題の裏にはフランチャイズ店と本部がお互いに問題を押し付け合ってあうという事情があった。単にwi-fiをつなぐという問題を解決しようとするとなぜかマクドナルドのフランチャイズ店が本部に不信を持っているという事情がわかってしまうのだが、wi-fiを接続するというコンビニエンスストアでもできているような簡単な問題は解決しない。これは彼らが顧客サービスなどという「どうでも良い問題」には興味がなく、普段からの人間か安慶に夢中になっているからである。

このことから森友学園問題が解決しない理由もわかる。官邸(その実態は特定の経済産業省の官僚らしいのだが)が財務省に干渉することにより内部で問題が処理できなくなった。加えて迫田さんから佐川さんへの引き継ぎが行われてしまい問題の隠蔽に失敗したのだろう。つまりこれは村を超えて起きた問題なのだと言える。問題が大きくなっても安倍官邸や財務省官房(つまり麻生大臣のことだ)は問題を他人事だと考えている。さらに本省と地方組織という問題もある。問題の全容はさっぱりわからないのだが、ニュースを追っていると「誰が悪い」という指の差し合いが始まるので有権者は組織図に詳しくなってしまう。だが組織図は問題を解決しない。安倍首相はこれを財務省が勝手に解決すべき問題だと認識しているし、自民党の議員たちも「安倍政権を変えれば自民党に実害は及ばないかもしれない」などと考える。

問題はいつも村の外にあると誰もが認識しているのだが、実は村と村の際に落ちているということになる。

相撲、女子レスリング、マクドナルドの問題は村と村の争いごとだと考えられる。日本人はそもそも村の争いが大好きなので人間関係や組織図に注目する。ここで誰もが忘れているのは「競争力の低下」という結果だ。村の中の争いに夢中になると外が見えなくなる。例えば、暴力が蔓延している相撲に弟子が集まるはずはないのだから中期的に相撲は弟子を集められなくなるだろう。レスリングは才能のある選手を潰してしまうのだから国際競争に勝てなくなるはずだ。そしてマクドナルドの客はスターバックスやコンビニのイートインスペースへと流れる。内部闘争に夢中になり個人の人格攻撃を繰り返す裏では競争力の低下が起こるということになる。絶対にそうなる稼働かはわからないのだが、どの小競り合いを見ていても競争力低下の結果であり新しい競争力低下の原因になっている。

となると森友問題も実は透明性や法治主義の問題ではないということがわかる。内部で問題が解決できない組織を放置すると国際競争力が低下するのである。多分北朝鮮問題に日本が関与できないという問題は偶然起こったことではないのではないだろうか。同時に、安倍政権を変えたところで日本の競争力は高まらないかもしれない。もちろん、放置することはできないが、かといって変えただけでも問題は解決しないだろう。

問題の原因は実は人にあるわけではなく、村と村の際にあるからだ。

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日馬富士暴行問題と貴乃花親方問題の本質とは何か

当初「日馬富士暴行問題」だったものがすっかり貴乃花親方問題になっている。これを観察していると様々な問題が複合していることがわかる。だが、見ている方は一つの視点を持っていることが多いようで、自分の視点にはまらないと「なぜマスコミは本質を言わないのだ」などと感じることが多いようだ。

ここでは前回見た「構造の捉え直し」を通して問題解決の方法を探ってみたい。

様々な問題が錯綜する相撲だが、実は原点はそれほど難しいものではないようだ。その原点とは相撲の定義だ。相撲には3つの定義がある。最初の定義は、相撲がスポーツであるか興行であるかというものだ。スポーツの定義にはいろいろあると思うのだが、ここでは選手がその能力を最大限に追求するためにあるのがスポーツで、見世物にしてお金をもらうのを興行だと定義したい。相撲にはこのほかに伝統の神事であるという側面がある。これを器用に使い分けているように見える相撲協会だが、実はこの違いを扱えなくなっている。

なぜ定義が問題になるのだろうか。もしスポーツだとしたら八百長はしてはいけない。本当に誰が強いがが分からなくなり能力が追求できなくなるからだ。しかし興行であれば選手を長持ちさせる必要があり八百長は必ずしも悪いこととは言い切れない。相撲が真剣勝負に見えればそれでよいからである。

興行としての相撲において興行主は真剣な競技のように見せれば良いので、選手育成にはそれほど力を入れなくなるだろう。一方で、スポーツとしての相撲を追求しその真剣さが神事につながると感じるのであれば選手育成はとても重要な課題になる。「どこに金を使うのか」が違ってくるのだ。

また、相撲をスポーツだと捉えれば柔道のように国際的に開かれたルールですべての人種が戦うような競技が理想形になるだろうが、神事だと捉えると日本人だけが戦うようなものが理想になるかもしれない。さらにこれが現在の原理主義的な民族主義に利用されれば(貴乃花親方の思想にはこうした原理主義的民族思想が入っていると噂されている)相撲はさらに閉鎖的でいびつなものになるだろう。なぜならば、日本人は優れていてアジア諸国の指導者としてふさわしいという理想とモンゴル人に勝てないという現実が折り合わないからである。相撲ではこの衝突は「品格」を使って説明されることが多い。モンゴル人が強いのは日本人のような品格がないからだというのである。

興行としての相撲には、本場所の席代・NHKからの収入・そして地方場所の上がりといった利権を持っている。本場所の席は九州を除いて茶屋制度をとっておりこれが一門とつながっている。この利権を調整しているのが理事の人たちだ。彼らは利権を持っているので興行の神聖性を守り暴力や八百長といった問題をなかったことにしたい。これは極めて当然のことである。だが、相撲をスポーツか民族力発揚の場と考える貴乃花親方にはこれが理解できないし、同調者も少なからずいるようだ。

しかしながら、これだけでは問題は起きなかっただろう。問題になったのはここにもう一つの要素が入ったからである。それは正規力士・非正規力士問題である。正規力士は品格のある相撲をとることで親方になる資格が与えられるので、資格が得られればあとは優雅に相撲をとっていれば良い人たちだ。しかしながら、モンゴル人は国籍を捨てない限りこの資格が与えられないので関取である時代にできるだけ多くの収入を稼ぐ必要がある。このために白鵬は「品格のない相撲」で選手寿命を伸ばそうとし、モンゴル人たちは星の調整を行っているという疑いもある。つまり同じ興行でも、自分たちの投資の回収の仕方が全く違っていることで、興味や関心に違いが生まれ、管理が難しくなる。

これに付け加えて、相撲は伝統文化を守るという「公益」の顔を得てしまった。公益法人にはガバナンスが必要だ。儲けた金には税金を支払わなくてもよいのだが、そのためにガバナンスが効いているふりをしなければならなくなってしまった。これは思った以上に複雑な問題を含んでいる。そもそも興行と公益がイコールでないのに加え、こうした法人は実は内部に蓄積した利権を政治に還流するために利用されることがある。池坊評議委員長は漢字検定協会の理事長を追われた過去がある。漢字検定協会は内部留保金をため込んでおりこの使い道を巡ってトラブルを起こした経緯があるという。公益監査や管理に携わるという名目でため込んだお金を私物化したり、自分たちの企業に還流したいという人たちが大勢いるのである。

そもそも、それぞれの考える目的が違っているのだから、ガバナンスが効くわけもない。だから問題をなかったことにして隠蔽しなければならない。その上に「儲けすぎた金を税金として社会に還元することなく私物化したい」という欲求まで加わっており、一筋縄ではいかない構造が生まれている。それぞれの利害が一致しないので、いつまでも争いが絶えないという構造になっている。

ある人から観察するとこれは刑事事件問題なのだが、別の人たちはこれを八百長談合問題だと見ている。相撲協会のガバナンスの問題だと感じている人もいるし、単に「先輩がいるところで携帯電話をいじるのが失礼」とか「先輩である八角親方の電話を無視する非礼な貴乃花親親方の礼節の問題」に矮小化したいと考える人もいる。さらに日本人はモンゴル人より強いはずだと素朴に感じる人や、協会が蓄積した金を自分たちの企業に振り向たいという人までいる。貴乃花親方は当初からこれを「八百長談合だ」と疑っており相撲協会に反省の意思がないなら自分が知っていることを洗いざらい話すなどと言い始めているそうだ。フライデーや新潮などのメディアが伝えはじめている。

ジャーナリズムがこうした視点を取り出して多角的に伝えることはない。日本人にとっては他の村の利権構造に触れることはタブーであるという事情がある。マスコミもまた村なのでよその村の事情には触れたくないのだろう。さらに、彼らは点にしか興味がなく、それを面として再構成することにはさほど熱心ではないようだ。

相撲が興行であり茶屋利権が理事選挙に影響していることは誰の目にも明らかだが、利権問題に触れてしまうと取材時に情報がもらえなくなることを恐れているのであろうし、すでに八百長問題は解決したことになっている。過去に収集がつかなくなった歴史があるのであえて言い出せば相撲に混乱を与えることになるという懸念もあるのかもしれない。こうした問題を避けつつ曲芸のような報道を続けることで、ジャーナリズムは問題の解決ではなく複雑化に寄与している。

もともと視点が異なっているのだから解決策など見つけようがない。もし解決したいのであれば、そもそも相撲は伝統神事であるべきなのか、スポーツなのか、それとも興行として割り切るのかということを再合意しなければならない。

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貴乃花親方の罪は何だったのか

日本相撲協会が貴乃花親方に対する処分を決めた、理事を解任するというのだ。理事会には解任を決議する権能はないので評議会を開いて処分を検討することになっているという。これまで貴乃花親方が情報を出さないと叩いていたマスコミは、処分が出た瞬間に「この処分はおかしい」と言い出した。さらにTwitter上にも「これはひどい」とか「相撲協会はおかしい」というようなリアクションが溢れた。

この話の表向きのポイントは、被害者側の親方である貴乃花親方がなぜ首謀者の一味である白鵬、ガバナンスの最高責任者である八角理事長よりも重い罰を受けなければならないのかというものだ。日本社会は法治国家であるという前提があるのだが、法治国家ならば「被害者側」の方が重く罰せられるのはおかしいように思える。

もっとも。貴乃花親方が処分された理由を理解するのは簡単である。貴乃花親方は村のうちうちで話し合うべき恥を外に晒してしまい村人に恥をかかせた。だから村を追い出されかけた。つまり、「貴乃花親方は村の恥を外に漏らした罪で村八分になった」と考えればよく、これは日本人なら誰でも簡単に理解できる。

このことは、日本人の行動原理を理解するためにはやまと言葉に置き換えてみると良いということを表しているように思える。ガバナンスやコンプライアンスというのは格好をつけるために用いられる言葉であって、実際には「仲間はずれ」とか「村八分」いうような大和言葉で説明ができるのが本質なのである。

スポーツ報知はこのように相撲協会の言い分を伝えている。

 高野委員長は「本件の傷害事件は、巡業部長である貴乃花親方が統率する巡業中に発生した事件。貴乃花親方は理事・巡業部長として、貴ノ岩の受傷を把握した直後か被害届の提出前、遅くとも被害届の提出後には速やかに日本相撲協会へ報告すべき義務があったにもかかわらず怠った。貴乃花親方が被害者の立場にあることを勘案しても、その責任は重い」とコメント。

だが、これはいかにも苦しい弁明だ。

報道の中には相撲協会には警察から報告が入っていたとするものがある。相撲協会は「処理は場所が終わってからいでいい」と考えており、なおかつ警察が「誰が被害者なのか言わなかった」と主張している。相撲協会は、知ってしまうと処分が必要になり金儲けの興行の邪魔になるのでやらなかったのではないかと疑いたくなる。つまり、聞こうとしなかったにもかかわらず「報告がなかったから貴乃花親方を処分した」と言っている。これは矛盾しているのではないかとも思える。

貴乃花親方は役職者として報告義務違反を犯して処分されたという説明がなされたのだが、報告義務違反を犯したのは貴乃花親方だけではない。白鵬も日馬富士も報告義務違反を犯しており、その意味では同罪と言える。いずれにせよわかっていたのに調査しなかった人は減給だけで済むが、不当に問題が隠蔽されることを恐れて報告をしなかった人が理事を解任されてしまうというのは法治主義の原則にしたがえばおかしいように思える。

力士たちは「力でわからせてやる」という世界に住んでおり、これが一連の暴力事件の温床になっている。問題が起きた時には恥を外に漏らさないという収め方をするので暴力事件がなくなることhなさそうだ。大和言葉だけで説明すると「うちうちでおさめる」のである。

しかし、この大和言葉マネージメントには限界がある。暴力が収められないと入門者が減ってしまう。だからこそ、モンゴル人に頼らなければならなくなっているのだ。白鵬はモンゴル人にも利権(親方になる権利)をみとめよと言っているのだが、これは聞き入れられそうにない。権利も認められないのに義務だけは負わされるのだから、やがて相撲村はモンゴル人に依存できなくなるだろう。

相撲協会は、外部から閉ざされた村社会に戻ることもできるし、近代的なスポーツに生まれ変わることもできる。この二者択一は日本社会に似ている。日本は民主主義国家に生まれ変わることもできるしあいまいな村社会に戻ることもできるという岐路にいる。

例えば、相撲は単なるプロレス並みの興行である。悪口のように聞こえるかもしれないが、プロレスは自分たちが単なる興行でありm、社会的な責任を追求されれば興行が立ち行かなくなることがわかっているぶんだけ抑制をきかせられる。それでも試合中の死亡事故や練習中の「かわいがり」による死亡事故などが起きているようだ。閉鎖的な暴力集団という面もファンに許容されており「そういう世界だと知って飛び込んのだろう」と思われているのかもしれない。相撲もプロレスのようにしてしまえば、NHKの中継はなくなるだろうが、興行が成り立つ程度のかわいがりも容認されるだろう。

貴乃花親方が改革をしたいのなら、「相撲は現代社会の良き構成員として」「協会側は正当な理由があり調査に協力しなかった」といって法廷闘争に持ち込めばいい。相撲協会は改革のために理事と理事長を解任し、少なくとも理事長には外から現代的なガバナンスができる人を招聘すべきだろう。相撲を近代的なスポーツにしようとするならば、親方は単に柔道のコーチのような存在になるだろう。

残念ながら国体という概念を持ち出して「相撲は桜が紋章になっており、菊の紋章をいただく皇室と並んで日本の伝統を担う」というようなことを言っているようでは、単に新しい村落構造を作るだけになってしまうだろう。

貴乃花親方が裁判に打って出た場合、相撲村の掟と日本国憲法が相撲をすることになる。どちらが勝つのかは歴然としていると思う。


さて、Twitterでメンションがあったので乱文ぶりを添削したのだが、ついでにこの文章を書いた後に何が起こったのかを補足しておきたい。結局、八角理事長は再選された。貴乃花親方の部屋では動揺が起こったのか貴公俊が暴力事件を起こした。相撲界には暴力という事件を公平に裁く裁判所のような仕組みがなく、親方衆の胸先三寸で罪状が決まってしまうことになっている。貴乃花親方は相撲協会に「降伏」することでこれを是認してしまった。これは、貴乃花親方がやったことも世論を喚起して日馬富士や白鵬への罪を重くしようとしたという行為を認めてしまったということを意味する。

これを書いた時には裁判をすれば良いと書いたのだが、実際には裁判は起こらなかった。そればかりか人治的な慣習を是認してしまったことで、暴力が隠蔽されうる体質を温存させてしまったことになる。これが直ちに相撲界を弱体化することにはならないだろうが、前近代的な体質が残ることで、中期的に相撲への入門者を減らしてしまうことになるだろう。

だがここで「貴乃花親方が愚かだった」というつもりはない。なぜならばここに出てくる全ての親方衆は相撲の利権構造に依存しており、小さな相撲部屋がお互いに緊張関係を持ちながら連携しているような状態にある。つまり、貴乃花親方が「改革」を貫いてしまうと親方の力関係が強くなり「彼に利益を独占される」危険性があると考えてしまうわけだ。このような小競り合いのプレイヤー同士の改革は、外に明らかな危機がもたらされない限り難しいのではないかと思う。

一方でこのニュースは未だに(208/4/1)ワイドショーの人気コンテンツである。暴力や相撲界の将来などという問題よりも、村の中の細かな人間関係に日本人が強く惹きつけられることがわかる。

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貴乃花親方が崩壊させる日本相撲協会

もともと2017年12月に書いた記事なのだが、2018年9月の時点でまた動きがあった。現在進行形の事態を扱っているので内容が書きかわることが予想される。相撲強化のガバナンスの矛盾点を指摘した貴乃花親方は最後までそれを解消することがなく、最終的に相撲協会を離脱する決意をしたようである。このことは結果的に相撲協会を崩壊に向かわせるかもしれないと思う。短く済めば苦しみは少ないだろうが、長引けばそれだけ苦痛は増すのではないか。


当初、ワイドショーがこの事件に執着したのは、これが見世物として視聴率を稼ぐからだろう。視聴者は村落の中の権力闘争を見たがっていた。しかし、マスコミはこの問題の本質については知っていても伝えることができない。インサイダーになりすぎているからである。2018年9月にこの問題が再発したとき、長年貴乃花親方を取材していた横野さんの手は震えていたそうだ。

本質的にはこれは利権をめぐる権力争いである。つまり人間関係は余興として楽しめるが、利権争いが問題の本質であり「相撲協会を本気で怒らせるリスクがある」と感じているのだろう。ワイドショーを見ていると「言わなかったこと」の内容により、彼らがどう行動しているのかがなんとなくわかる。

この二重構造を見ているとワイドショーがとてもエキサイティングな職人芸に見えてくる。2017年の時点では弁護士は、この目的が貴乃花親方の排除だということがわかっているが、なぜ排除されるかを伝えられないために綱渡りのような解説をしていたが、どうやらこれをを楽しんでいるらしい様子がうかがえた。

そこで、貴乃花親方はホイッスルブローアーであり理事選から排除するのは不利益処分だという主張に変わっていた。一方で相撲ジャーナリストと呼ばれるインサイダーたちはこうした法律的な問題には疎く、心理的距離も近いので従って何も言えなくなってしまっている。彼らは単に相撲に詳しいだけなのだが、相撲はもはや誰も見向きもしない退屈な余興にすぎない。

この間を埋めるのが中間的なジャーナリストと呼ばれる人たちだ。「(抜け穴だらけの)相撲協会のガバナンスについて改めて勉強」している人もいれば、昔から法律的なことなどどうでもよいような運営をしてきたじゃないかなどと言いながらニヤニヤと眺めている人もいる。彼らも相撲のインサイダーではないので状況がわかっているのだろう。

もう一つの問題は理事長選挙に対する過剰な期待である。2017年末には、貴乃花親方が理事長になるべきだとか、錣山親方が理事の椅子を狙っているなどと言われていたようだという話が盛んに流されていた。「理事や理事長になれば組織が変えられる」という幻想が素直に信じられているように見えた。その後も貴乃花親方は改革派と呼ばれ続けた。2018年9月にこれが「裏切られた」と感じたのは、貴乃花親方が「もう戦う意思はありません」と表明したからである。改革を期待していた人は勝手に期待して勝手に失望した。別の人はこれで面白い見世物がなくなると感じているのか「これで終わりになるのは納得できませんね」と言っている。

2017年に書いた元記事では「実際には日本の組織にはガバナンスの仕組みなどない」と書いた。あるのは利益分配機能だけであり、組織の損得を計算に入れたプレイヤーたちがその場限りの意思決定をするというのが日本の組織のあり方だからである。つまり、日本人は自分の損得勘定についてのみ合理的に判断できる。そしてこの「自分」というのは必ずしも個人のこととは限らない。これは相撲の世界だけの話ではなく、実は政治の世界でも同じような構造がある。相撲部屋を派閥に相撲協会を自民党に置き換えてみるとわかりやすいのではないかと思われる。

しかし内情はもっとひどかった。親方たちはこんな騒ぎになったのはもとからあった一門制度が「貴乃花親方によって破壊されたからだ」と感じたのかもしれない。理事会で「一門に所属しない親方は排除しようや」ということになったようだ。しかしそれを公式に発表してしまうと面倒なことになりかねない。そこでまずは親方同士で口づてで伝え、相撲記者を通じて貴乃花親方にほのめかしたようである。そして「貴乃花親方が内閣府に告げ口したのは事実無根である」という文章を突きつけた上で「事実無根であった」ということを認めるか、あるいは相撲協会から出て行けと迫った。誰もそれを直接いう人はいない。「一門に受け入れない」ことで排除を図ったのである。つまり「何もいわないけど、わかるだろう?」ということだ。

デイリースポーツによると協会側は2018年9月の時点では圧力を否定している。

貴乃花親方(元横綱)が25日、会見を開き日本相撲協会からの退職を表明したことを受け、同協会を代表して芝田山広報部長(元横綱大乃国)が報道陣の取材に応じた。[中略]「告発状が事実無根であることを認めないと一門には入れない、というわけではありませんし、そういったことを言って貴乃花親方に圧力をかけた事実はありません」と断言した。

さらに、意味不明のことも言っている。

一門に所属しない親方が部屋の運営ができなくなると言われたとも貴乃花親方は発言していたが、「そのような事実も一切ない」とした。ただし、7月の理事会で、全親方が協会内に5つある一門のいずれかに所属するようにすると決定したことは発表した。

全親方が一門に入らなければならないのに、どこも受け入れないとどうなるのだろうということは示されない。つまり、表向きの決定と裏の決定を巧みに使い分けることで、排除を図ったのである。

「利権」というと悪く聞こえるかもしれないが、日本人が集団として理解できるのは利権構造だけである。これが問題になるのは、利権を分配できなくなった時である。つまり、誰かが生存できなくなるほど追い詰められると、人は誰かを「利己主義的だ」といって非難し始める。日本人にとっては利己主義こそが合理性であって、それ以外の主義は存在しえない。親方たちは貴乃花親方が内閣府に告げ口することでこの利権構造が崩されかねないことに腹を立てたのであろう。だがそれは表向きには言えないので、彼らなりの戦略を立てた。とても稚拙ではあるが、それが村流のやり方なのだ。

2017年時点で調べてわかったことは、相撲界は部屋の連合体という側面と日本相撲協会の二重構造になっているという点である。部屋は単独で成立しているのではなく一門という派閥を形成してい流という成り立ちは極めて村落的だ。個人が存在しないように独立した部屋というものはなく、部屋の連合体としての一門が形成されている。派閥は相撲茶屋を通じて升席の販売権という利権を持っている。あり方としてはプロレスにいろいろな団体があり、独自の販売窓口を持ち、いくつかの会場で同じルールとしきたりを使って他流試合を行っているというような構造になっている。

だが、このやり方をそのまま現代に持ってくることはできなかった。そこには最初から国家とのつながりがある。

wikipediaによると当時の摂政の宮であった昭和天皇から賜ったお金でトロフィーを作ったことが相撲協会設立のきっかけになっている。公益性のない相撲に菊の紋章の入ったトロフィーを送るわけには行かないというような話になり、慌てて相撲協会が作られたというわけである。つまり、相撲協会は単なる権威付けのための団体であり、その内情は部屋と一門がとり仕切る興行でしかなかった。

単に天皇杯の受け先としてしか機能していなかった相撲協会だが、1957年に社会党の辻原議員が「相撲協会の公益性には疑問がある」として予算委員会で質問したことで話が複雑化する。質問の狙いは力士の待遇改善だったようだ。つまり左翼主義者が相撲という興行に「手を突っ込んだ」のである。

このため相撲協会は、力士に給料を渡したり、茶屋制度を廃止して升席を解放したりという改革案を作らざるをえなくなった。緩やかな部屋の連合体でしかなかった相撲界が「天皇杯」という権威を持ってしまったために、力士の福利厚生や教育などという近代化にさらされてしまうのである。

この「改革案」に耐えかねた出羽海親方は割腹自殺を図る。国会で追求されたことが恥であったという意見もあれば、出羽海一門が独占していた茶屋制度の崩壊の責任を取ったのではないかという説もあるそうだ。理事長の自殺未遂事件についてまとめてある文章が見つかった。この文章を読む限り出羽海親方は切腹を図ることで相撲茶屋という利権を守ったように見える。

Wikipediaの相撲茶屋の項目を読むと、それぞれの茶屋の割り当ては決まっており、今でも力士関係者が独占しているという。この既得権を守るために部屋の連合体が作っているのが一門であり、急進的な改革が起こらないように睨み合っているのが現在の相撲協会の理事たちである。一門制度を見ると、八角理事長の立ち位置がわかってくる。大きな派閥は出羽海・二所ノ関・時津風であり、これらが三つ巴の主導権争いをすると仲裁が効かなくなってしまうのだろう。そこで、小さな派閥である高砂一門を仲裁役として立てているように見える。日本の緩やかな村落共同体は「中央に空白を置く」ことで相手の干渉を避けて利権を守る。その意味ではこのあり方は極めて日本的である。

しかしながら、相撲協会は「国技」という嘘をついてしまったために、徐々に公益性という毒にさらされてゆく。もし相撲がプロレスのようであったなら、暴行事件は単に刑事事件としてのみ扱われ、それ以上の問題にはならなかったであろうし、貴乃花親方のように「勘違いする」親方も出なかったはずだ。

貴乃花親方が異質だったことは2018年9月の会見を聞いているとよくわかる。「自死」をほのめかしていたからである。経済的困窮もないのに生業のために自殺する人はいない。自死という考え方が出てくるのは(少なくとも日本人にとっては)それが個人を超越した崇高な何かだからである。それくら貴乃花親方は他の親方と違ってしまっているのだ。

相撲協会がガバナンスに興味がないのは明白である。相撲茶屋の利権は頑なに守られているが、一方では反社会的な行為が蔓延している。まずは新弟子を暴行で死なせてしまった事件(2007年)が起こった。さらに外国から力士を入れたところで大麻事件(2008年)が起こる。これは外国人だけでなく日本人にも広がったようである。さらに力士が野球賭博(2010年)を行っていたことも問題になった。さらに2011年には長年語られていた八百長が現実に行われていたことも発覚した。だが、相撲は興行でありスポーツではないのだから、面白ければ八百長があっても構わない。だが、国技とか公益性のあるスポーツだといわれるとこれらは大きな問題になる。

にもかかわらず税制上の優遇措置を受けるために公益法人化したことでさらに事態が悪化する。つまり、実態は単なる相撲部屋のにらみ合いのための組織である相撲協会にやるつもりがない「ガバナンス」という役割が押し付けられてゆく。

今回の日馬富士暴行事件の原因は、相撲協会でも部屋でもないところにモンゴル人閥という新しい集団ができてしまったということだった。公益ですら相撲興行を維持することは難しくなり、外国人を雇い入れたために文化マネジメントまでやる必要が出てきた。だが、力士出身の彼らにそのようなスキルはない。

もともとは利権をめぐる争いだったのだが、突き詰めてゆくと、相撲とは一体何なのか誰も答えられなくなっているところに問題がある。本質はこれが興行なのか、国技なのか、それとも国際化されたスポーツなのかという問題だ。そして、これはもはや遺物になってしまった貴乃花親方を排除したとしても解決できない。

2017年末の貴乃花親方の立ち位置はとても不明確だった。彼は理事会が調査権限を持つことを嫌っており部屋の独立性を維持したい。しかし、理事会を掌握して相撲協会を抜本的に解決したいとも思っている。しかしその態度は徐々に変わってゆく。まず理事ではなくなり経営を外から見ることができるようになった。それでもプレッシャーは無くならず文書によらない決定が人づてにほのめかされたり「善意の助言」を受けるうちに、ああこれはダメだなと気がついたのではないだろうか。2018年の9月時点では「もう戦うつもりはない」と言っている。

もちろん、本当のことは誰にもわからない。しかし、貴乃花親方が相撲を守りたかったのは、自分が親たちから受け継いだ相撲道を追求したかったからなのだろう。しかし、そんな相撲道はもうないということに親方は気がついてしまったのではないだろうか。

興行的な相撲から見れば、大相撲は「公益性」という嘘をついてしまったために、その嘘を本当の姿だと勘違いするモンスターが生まれてしまったことになる。精神性というのは利権を守るための物語なのだが、いったん利権構造から切り離されてしまうとそれが純化されて一つのイズムを生むのである。一方外から見ている我々は「公益」とか「スポーツ」という類型で相撲を見てしまうので、貴乃花親方に過剰な改革を期待する。

貴乃花親方がここから降りたのは正解だった。彼がそこから降りたのは結局弟子の成長を最優先したからだ。彼は最終的に興行的な利権でも彼の持っている精神性の追求でもなく、スポーツのコーチのように弟子を応援する道を選んだのである。貴乃花親方は最後の挨拶文で「神のご加護を」というようなことを言っている。新興宗教の信奉者であると言われているので、相撲道と自身の信仰を重ねていたのだろうが、本当に弟子たちのことを思うことで一つ視点を大きくした様子がうかがえる。ただし、日本人は個人が信仰を持っていることをタブー視する上に確かに怪しげな側面もあるようなので、これをマスコミが伝えることはないだろう。

日本相撲協会はこの嘘に振り回され続けるか、それとも天皇杯を返上して単なる部屋の一群による村落的な興行団体に戻るかという二つの選択肢しかないのではなかった。貴乃花親方が協会にい続ければ、現在の相撲協会を破壊してしまうのは間違いがなかったであろう。協会は貴乃花親方を排除したことで一応の危機からは逃れることができたわけだが、根本的な矛盾がなくなったわけではない。むしろ、根本的な矛盾を自分たちで解決できないことが露呈したことになる。一旦人々の意識に登ってしまった以上それが消え去ることはないし、貴乃花は偉大な力士なので、このことは後世まで語られることになるだろう。つまり、相撲協会は矛盾を解決する意思も技術もなく、矛盾が忘れ去られることもない。従って、協会はこのまま混乱しつつ衰退するのではないだろうか。

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日馬富士暴行問題から日本人が学べること

テレビを見ていたらまだ日馬富士暴行事件を扱っていた。当初からちょっと変わってきたのは在日モンゴル人に取材が入るようになったことである。これを見ていて、日本人として学べるところがあるなと思った。

どうやらモンゴル人特有の事情があり、日馬富士は貴ノ岩に謝れなかったようだ。年上の人が年下の人に誤ってしまうと、年下の人の運気を下げてしまうという。東洋的な面子の問題かもしれないし、別の行動原理があるのかもしれない。その代わりに非言語的な謝罪表現があり、それもモンゴル人から見ているとわかるということであった。

この「非言語的表現」は他の文化からみると違う意味に取られるか無視されることが多い。多分日本人は「日馬富士は言葉に出して謝るべきだ」というのだろうが、これは彼らの非言語的なシグナルが読めないからである。

そして、同じことは日本人にも起こる。日本人は誰かに指名されるまで会議の席ではおとなしくしているのが礼儀だと考える。これは教室で先生のいうことを聞くのが良い生徒だと見なされるという事情があると思うのだが、アメリカでは「会議に非協力的」か「無能である」と取られることが多い。日本人が会議に非協力的ではないことは、盛んに司会者にうなずいたりすることを見ればわかるのだが、このような非言語的なサインはアメリカ人には見逃される。

さらにアメリカ人が「日本人は会議の時おとなしいから積極的に話すように」などと指示をして、日本人がニコニコとうなずいたのに、結局会議では話さなかったということがあると、中には怒り出すアメリカ人もいる。わかっていなかったのかというわけだ。だが日本人は相手を遮ってまで自分の主張を話すことが「会議への貢献であり、自信の表れである」などとは思わない。

ところがアメリカ人が怒り出しても、普通の日本人は申しひらきができない。第一に自分たちが特殊であるということを知らないし、知っていたとしても「自分たちが会議に消極的に参加する文化を持っている」ということを言語的に説明できないからである。日本人を会議に参加させるためには会議の時に指名するか、発言者を遮って発言する練習をさせるべきなのだ。

さらに、白鵬らモンゴル人力士は極めて特殊な立場にある。彼らは確かに「モンゴル人性」を持っているのだが、その上に日本の文化を受容するような社会的・組織的圧力がかかっている。この日本性には表向きの「品格を持ちなさい」という言語的・意識的ものと「先輩から後輩への可愛がりという名前の暴力があたりまえにある」という非言語的・無意識的な側面がある。

実はモンゴル人力士が置かれた状況は、極めて現代の日本人に似ている。日本人にも意思決定やコミュニケーションにおいて「日本人性」があるはずなのだが、戦後アメリカ式の自己主張型民主主義を受け入れたためにかなりミックスされた状態になっている。どちらかを意識して身につけたのであればまだ整理ができるのだが、実際にはごちゃごちゃになっていて「何が日本人的で何がそうでないのか」がよくわからない。

ここから類推すると白鵬らモンゴル人力士も「何がモンゴル的であるか」ということが明確にはわからなくなっている可能性が高い。だから文化的な軋轢があってもそれを理論的に説明できないので、誤解されることになってしまうわけだ。

日本人とモンゴル人はコンテクストを共有していないので、日本人がこれを知ることは不可能であり、従って日本人の文化コードによって一方的に「裁かれる」ことになる。だから正当な判断のためには文化コードをモンゴル人に説明してもらう必要がある。しかし、当のモンゴル人がこれを整理できないということは、誤解が解けることがないということを意味している。

モンゴル人が日本人に申しひらきができないということは彼らの問題なのだから、彼ら自身が解決すべき問題だとは思う。だが、同じことが日本人にも起こりうる。日本人が考えている民主主義は西洋人が考えるところの民主主義でない可能性が高い。だが、日本人はそもそも元になった日本性をうまく説明できないのだから、その上に乗っている西洋性もうまく説明できないはずだ。さらに、この二つはケーキのスポンジとクリームのように層になっているわけではなく、混ざり合っているはずである。

つまり、外国文化に対して自分たちの立場を説明し弁護できないということは、日本人にも起こり得る。白鵬から学ぶのはこの点で、つまり日本人もその日本性が何なのか言語的に説明できるようにしておいた方が良いということになる。

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白鵬バッシングに邁進する愚かな日本人について考える

白鵬バッシングが強まっている。万歳がいけないと言われ、日馬富士と貴ノ岩を土俵に戻したいといったことがいけないと言われた。Twitterをみると貴乃花親方の下では巡業に出たくないと言ったということが咎められ「嫌ならモンゴルに帰ればいい」などとバッシングされている。

どうしてこのような問題が起き、どうしたら解決できるのかということを考えてみたい。しかし、相撲界だけで考えるのは難しいので、全く別の事例を考えてみる。それが日系企業の中国進出である。全く別の状況を当てることでその異常さがよくわかる。

日本市場が先細りした企業が中国への進出を考える。そこで日本語が堪能な現地人の留学生を採用する。彼らは日本の特殊な企業文化を学び必死に同化しようとする。偉くなれば自分たちの地位が向上すると考えるからだ。彼らは期待通りに成長し、現地市場を開拓する。その成果が上がり、中国市場はこの企業の稼ぎ頭になった。

モンゴル人が最初に直面するのは「可愛がり」という常軌を逸した暴力である。日本のジャーナリズムは相撲界と経済的・心情的な癒着関係にあり何も伝えないがBBCは白鵬が経験したかわいがりの感想を掲載している。

白鵬は、私の顔は今幸せそうな顔をしているように見えるかもしれないが、(かわいがりを受けいていた)当時は毎日泣いていた、と語った。力士は、最初の20分はただただすごく痛いが、殴られても痛みが感じにくくなってくるので、それまでよりは楽になる、と話した。

白鵬は当然泣いたと言うが、兄弟子に「お前のためだ』と言われてまた泣けた、と振り返った。

中国人が日本の婉曲な企業文化を学ぶように、モンゴル人もこのように混乱したメッセージを受け取る。表向きは「日本人のように尊敬されるような人になりなさい」と言われるのだが、裏では容赦ない暴力があり、これを抜け出してまともな生活ができるようになるためには番付で上に上がるしかない。この文章には、番付が下の力士は配偶者と一緒に住むことすら許されないという「成果主義的な」状況についても言及がある。

さて、中国人の話に戻る。彼らは本社での待遇向上を期待するが、いつまでたっても重役以上にはなれない。重役たちに聞いてみると「日本国籍が必要であり」「中国人には日本の難しい文化は理解できないからだ」と言われるばかりである。では日本の難しい文化とは何かと質問しても明快な答えはない。最初は深淵すぎてわかりにくいのだろうかと思っていたのだが、どうやら日本人にもよくわかっていないのではないかと思えてくる。

モンゴル人力士はいつまでたっても日本人らしく振る舞わなければならないし、何かあれば「やはりモンゴル人だから」などと言われる。国籍をとって親方になれたとしても「二級市民扱い」は一生続く。日本のしきたりだからと言われて理不尽な暴力にも耐えてきたし、日本文化についてよく勉強した。しかし、だんだん様子がわかりトップである横綱にまで上り詰めたところで白鵬は「この理不尽さには一貫した思想などない」ということに気がついたのだろう。

中国人の話に戻ろう。ある日本人のプロパーが理不尽な要求を持って重役たちを振り回し始める。しかしながら、重役たちは彼のいうことを聞いているようである。そこで中国人たちは「自分たちが改革を要求しても聞き入れられないのに、日本人が重役を振りまわせるのは「差別があるからだ」ということに気がつく。

これが貴乃花親方である。貴乃花親方は「日本の伝統」という言葉を振りかざして改革を要求する。改革自体にはそれなりに根拠があるかもしれないが、周囲と協力しようなどという姿勢は見せない。「品格」には強くなっても威張らずに周りと協調してやって行くという価値観を含んでいるはずなのだが、どうやら貴乃花親方はおかまいなしらしい。それどころか貴乃花親方には同調者すらいるようである。そこで初めてモンゴル人たちは「部屋に分離されてバラバラにある状態」は不利であり自分たちも固まってプレゼンスを持つべきだということに気がついたのだろう。しかし、彼らにとってみればそれは当然の要求である。

そもそも相撲界はモンゴル人に依存している。相撲に強い日本人が入ってこないのはなぜだかはわからないが、前近代的な仕組みが日本人に嫌われているのかもしれない。体力に恵まれているのなら柔道やレスリングの方が栄誉が得られる可能性が高い。オリンピック種目であり金メダルをもらえればその後の生活には困らないし、選手の裾野も広いので指導者としての道も立ちやすいからだ。

そこで白鵬は自己主張をするようになる。巡業が多すぎると言って親方に注文をつける。バスの中では良い席を実際に働いている力士に譲るべきだと言って巡業の責任者である貴乃花親方の席に座る。バスの時間に遅れてやってくるなどの示威行為である。日本の伝統からみると「親方を敬っていない」と感じられるかもしれないが「商品である力士を大切にせよ」というのは実は当然の行動だとも言える。親方だけで相撲巡業を行うことはできないし、巡業がいくら増えても給料は変わらないのだろう。

もちろん貴乃花親方を責めることはできない。中学校を卒業してから親方が威張るのは当たり前だという世界で過ごしてきたのだから自分が親方になり巡業部長になったのだからその世界に君臨するのは当たり前だと考えるだろう。

Twitterの心ないコメントに見られるように「気に入らないならモンゴルに帰ればいい」と日本人は気軽に言うが、実際にはモンゴル人なしに日本の相撲はもはや成立しない。これを単に品格の問題だけで片付けることはできない。これは労働組合と経営者の間の対立でもある。貴乃花親方が土俵に上がるわけではないのに、なぜ威張るのだろう。

これは、例えばプログラマが「なぜ自分でプログラムを組みもしない部長にペコペコしなければならないのだろうか」と思うのにも似ている。さらに、プロジェクトマネージャーがクライアントを説得できなかったせいで時間が足りなくなり土日も犠牲にせざるをえなくなったというようなことがあればプロジェクトマネージャーに一言ガツンと言ってやりたくなるはずだ。そこで「プロマネに楯つくとはお前には品格というものがない」と言われたらどんな気分になるだろうか。しかもどんなに尽くしてもプロマネはエンジニアに感謝などしない。「お前らが無能だから赤字になったじゃないか」などと毒付いて「もっと優秀で土日も休まないエンジニアが欲しい」というのである。

日本人はこれに耐えるかもしれないが、他の国の人は別の企業に行くだろう。しかしこのような状態が続けば日本人ですら英語を覚えて外国企業に就職するかもしれない。

実はこの問題を見ていると、日本企業が国際化できなかった理由がよくわかる。原因はいくつもあるのだろうが意思決定が特殊なため異質な人たちを受け入れられないという事情がある。また、若い頃に「いじめられていた」のを「後には良いことがあるから」と我慢させていたという事情もある。だから、貴乃花親方のように全てを捨てて相撲に没頭してきた人に「これからは力士を労働者として普通に処遇しなさい」とは言えない。

さらに都合が悪くなると「労働者と経営者は親子同然なのだから、親を敬わないのは品格がない」と言い切れる。その場はなんとか取り繕うことができるのだが状況が改善するわけではないので、人はどんどん逃げて行ってしまうのだ。

つまり、日本企業が過剰な日本人らしさを求めて衰退して行くのと同じことが相撲で起きているということになる。「国技」という小さなプライドを持ちながらゆっくりと衰退して行くことになり、これは製造業が「日本の誇り」と言われているがゆえに衰退し、品質偽装を繰り返すようになったのと実はとてもよく似ている。

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日馬富士の引退

このエントリーは記録のために書いている。暴行問題が取りざたされていた日馬富士が引退した。貴ノ岩に暴力を振るったことは認めたが「指導の一環だった」し「これまでお酒を飲んで暴力を振るったことはない」と言っていた。

今までの同じようなことがあったかどうかはわからない。もしあったとしても「お酒を飲んで暴力を振るったことはありますか」と聞かれても「はい」とは言わないんじゃないだろうかと思った。これまでも「指導の一環として頭蓋骨が陥没するほど人を叱ったことがあるか」と聞けば、あるいは結果が違っていたかもしれない。

日馬富士の言葉の端々には「お世話になった」とか「育ててくださった」などというようなニュアンスが入っており表面上は日本の伝統である「謙譲さ」が身についているようだった。たまたま、安藤優子のコメントを見たのだが「日本精神をよく理解している」というようなことを言っていた。彼女としては善意なのだろうが、この人は本当は馬鹿なのかもしれないと思った。すでに国際化してしまった上に暴力行為が蔓延している相撲界で日本精神が押し付けられているのをみて何が楽しいのかと思ったからだ。が、普通の日本人ならば「ガイジンなのに日本のことがわかっていてえらいね」と思うのが。普通なのかもしれない。

足を怪我したらしくしばらく出てこれなかったデーモン小暮は「相撲界では指導のための暴力が必要だと考えている人が多い」というような意味のことを言っていた。つまり暴力は蔓延しているが、それを改めるつもりなどないということである。いわゆる「会友」と呼ばれる御用記者や自らも暴力に手を染めてきたであろう力士出身者には決して言えないコメントだったと思う。

ここで日本社会が発信しているメッセージは極めて単純だ。つまり、表面上日本の精神がわかったようなことを言っていれば、裏では何をしても構わないということであろう。その意味では日馬富士は相撲界が彼に対して持っている期待をうまく理解したがために、引退に追い込まれたのかもしれないなどと思った。

日馬富士が本当に「反省」していないことは、東京に戻って記者に対して「何もいうことはない」と言い放ったことで明らかになったと思う。しかし、国籍差別がある相撲界には残れないようなので、もう日本精神を遵守する義理はない。にもかかわらず彼を追いかけ回して「反省」を迫る記者たちに異様なものを感じた。彼らは読者の「日本にいるときには俺たちの文化に従い、集団リンチを受けても黙って耐え忍ぶべきだ」という、全く根拠のない期待に答えているだけなのだろう。これもとても気持ちが悪い。

今後の焦点は、これが当初から言われてきたように相撲界の権力闘争につながるかどうかである。もともと貴乃花親方は現在の相撲協会のやり方に反発しておりクーデターを企てたなどという憶測が飛び交っている。貴闘力が賭博問題で解雇されたことを恨みに思っているなどという憶測記事も読んだ。

表面上誰かを犠牲にして「更生した」ふりをしていると、それを恨みに思った人が報復に出る可能性があるということだ。もし今回の反省が形だけのことに終われば、今度は伊勢ヶ濱部屋が貴乃花親方に報復するということにもなりかねない。合理的な理由のある権力闘争だと思っていたのだが、もしかしたら狭い村の単なる遺恨合戦を村人根性が抜けない日本人が見ているというのが本当のところなのかもしれない。

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大変な中で万歳というのはおかしいという横審がおかしいよ

白鵬の千秋楽での振る舞いが波紋を広げているようだ。一つは「日馬富士と貴ノ岩を土俵に上げてあげたい」という発言だ。これは暴力事件なのでどちらも無事で終わるということはないだろうが、同胞を守りたいという気持ちはよくわかる。

もう一つの問題は「万歳」である。これに横綱審議委員会の委員長が噛み付いた。しかしこの発言を聞いて「おかしいのは横審の方だろう」と思った。以下理由を説明する。

確かに日本人としてあの万歳を見たときに「何やってるんだ」と思った。では、万歳がおかしい理由は何だろうか。これを説明するのは実はなかなか難しい。

日本は一つの巨大な村である。だから村で問題が起こると問題そのものよりも「村の平穏が乱された」ということが非難の対象になる。村は平穏無事であるべきだからだ。今回の問題でも協会は「日馬富士が暴行してごめんなさい」とは謝罪しないが「皆様をおさわがせして申し訳ない」とはいう。

相撲協会のいうガバナンスとは何か。ファンは相撲は日本の国技だと主張したい。自分たちは相撲をよく知っているので「日本の伝統をよく知っている人」として威張れるからである。これがプロレスだとそうはならない。プロレスでは威張れないのだ。何か問題が起きると威張れなくなるので、ちゃんとブランド価値を守るために何も起こらないようにしておけよと言っているわけである。

日本人は言葉を信頼しないので、下を向いて反省をしているように見せて村が問題を忘れてくれるまで待つ。もしここで下を向いて反省しているポーズを取らないと大変なことが起こる。日本人は反省しない人には何をしても構わないという極めて他罰的な文化コードをもっている。つまり、反省したフリをしていないとバッシングの嵐にさらされてしまうのである。

だから、問題について実際に反省していなくても構わない。重要なのは体裁と周りの評価である。そして善悪はそのときの周りの反応によってなんとなくふわっと決まる。

よく考えてみると、これはとても複雑な文化的パッケージである。しかし、日本人はこれを外国人に説明できない。そもそも意識していない上に「とりあえず頭を下げておいてほとぼりが冷めるのを待つんだよ」などとは格好悪くていえないからである。言えないから「品格」という格好の良い言葉で包むのである。

白鵬がどのような気持ちで万歳したのかはわからない。本人に聞いても理路整然とした説明は難しいかもしれない。モンゴルにも似たような行動があるのかもしれない。「モンゴル・万歳」で検索するとモンゴルには「フラー」という兵士の士気を高める万歳のような掛け声があり、これがロシアとドイツ経由で英語化したという説があった。本当はモンゴル人らしく「フラー」をしたかった可能性はある。

しかし大方の日本人は田舎者なので「神聖な相撲の土俵でモンゴル人らしさを出すなどとんでもない」などということを平気で口にする。これを説明するのに「大リーグで日本の選手が日本人らしさを出したらきっと大変なことになるに違いない」などという説明をしている識者がいた。大リーグでジャパンデイなどのイベントがあるのを知らないのだろう。民族アイデンティティの発揚は人権の一部なので、これを制限するのは厳密には人権侵害なのである。

もしくは日本人が気持ちを一つにするときに「万歳をしている」のだから「万歳をすれば気持ちが一つになるだろう」という思い込みがあったのかもしれない。つまり、表層的な行動は模倣できるが、その裏にある行動原理をコピーするのはなかなか大変なのである。

モンゴル人を見ていると、強いときには強さをアピールし、喜んでいるときには喜びをアピールしたいという素直な心情が垣間見られることがある。ある意味人としてはこちらの方がストレートな対応だろう。しかしながら日本人はそもそも権力格差を極端に嫌うので待遇が得られるようになればなるほど、その待遇を行使することを嫌がる。「待遇は与えたがそれは表向きのことであって、自分に向けて使うのは許さない」とか「お前が待遇されているのは、その権威を利用して俺たちの気分を高揚させるためなんだよ」などと考えたりする。極めて集団制が高く、集団の中での格差が少ないという独特の精神世界がある。

そこで「強い人には品格が必要」という。品格というのはいわばブレーキの役割を持っていると考えるわけである。

しかしよく考えてみると「強くなればよい待遇が得られる」という表面的な文化コードと「待遇が得られたらそれを使ってはいけない」というその裏にあるコードを理解するのはなかなか難しい。普通の日本人ならば「どうせ責任が増えるだけだし、そこそこ長く稼げた方がいいや」と考えるはずで、余程の物好きではないと頑張って横綱になりたいなどとは思わないだろう。

横綱審議員がおかしいのは、自分たちが異文化からきた人たちに何を求めているのかということがわかっていないのにもかかわらず、問題があったときだけ「違っている」といって騒ぎ立てているということである。説明しないことがわかるはずはないのだが、それを怒っている。これは身勝手この上ない。

モンゴル人なしには相撲は成り立たないのだから、これを相手に合理的に説明するか、モンゴル人に頼らずに相撲好評を成立させるべきだ。しかし、若い次世代の日本人にさえ「品格」を説明するのは難しいのではないだろうか。自己実現が容易で個人が評価してもらえる格闘スポーツは他にもたくさんあり、何も封建的で遅れた相撲を選ぶ理由などない。

この苦しさが横審委員長の次の発言に現れている。

負傷のため4場所連続休場した稀勢の里、鶴竜の両横綱については、万全にして奮起を求める声が出た。北村委員長は「稀勢の里はこの状態が続いていくと横綱としての地位の保全をできるのかという問題にならざるを得ないので、しっかり体を治して次の場所に備えてほしい」と話した。2人の進退を問う意見はなかったという。

鶴竜についても触れられているのだが、本音では品格について説明する必要のない稀勢の里に頑張って欲しいのだろう。しかし、稀勢の里は「横綱の品格」を意識するあまり無理を重ねて怪我がなくならない。やはり品格で全てを説明するのはもはや不可能なのだ。

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貴乃花親方と品格という十字架

日馬富士の暴行事件が思わぬ方向に展開している。最初は「暴力はダメだろう」というような論調だったのだが、次第に貴乃花親方の挙動がおかしいという話になってきた。診断書が二枚あり貴ノ岩も普通に巡業に参加できていたというのである。さらに協会側は医師のコメントを持ち出してきて「疑いとは書いたが相撲はできるレベルの怪我でしかなかった」などと言わせた。つまり、状況的には貴乃花親方が「嘘をついている」ということになる。さらに親方は普段から目つきがおかしく「何か尋常ではない」ものが感じられる。

これだけの状況を聞くと「貴乃花親方の挙動はおかしい」と考えるのが普通だろう。

いろいろな報道が出ているが毎日新聞は面白いことを書いている。相撲協会は力士の法的なステータスを明確化しようとして誓約書の提出を求めたが「親方が絶対だ」という貴乃花親方だけがそれに協力しないのだという話である。

普通に考えると相撲は近代化したほうがよい。いろいろな理由があるのだが、一番大きな理由はリクルーティングの困難さである。力士には第二の人生があり、そもそも力士になれない人もいるので、相撲について「仕込む」のと同時に相撲以外の社会常識を教えたり、関取になれなかった時の補償などをしてやらなければならないからである。

そう考えると、この問題の複雑さが少し見えてくる。貴乃花親方は「たまたま成功した」が「相撲以外のことを全て失ってしまった」大人なのだ。

第一に貴乃花親方の父親はすでになくなっており、母親はすでに家を出ている。さらに兄とも疎遠である。さらに実の息子も「ここにいたら殺される」と思ったようで、中学校を卒業してすぐに留学してしまった。現在相撲とは全く関係のない仕事をしているそうであるが、これは家族の離別ではなく「美談」として語られている。相撲界は個人としてもいったん外に出ると戻ってこれない片道切符システムなのだが、それは家族の領域にも及ぶ。

加えて中学校を卒業してからすぐに部屋に進んだため高校に進学していない。中卒が悪いとはいわないが、相撲で現役を退いたあとすぐに親方になっており社会常識を身につける機会はなかったはずである。しかし、相撲のキャリアとしてはいったん外に出て社会常識を身につけた上で復帰するという制度は考えられない。

さらに、相撲の影響で体にかなりの影響が出ているようである。Wikipediaを読むと「右手がしびれて使えない」とか耳が聞こえにくく大きな手術を余儀なくされたとある。

「相撲に命をかける」といえば聞こえはいいが、家族と断絶し学歴や社会常識を得る機会も奪われた。さらにそれだけではなく健康すらも害しており「もう相撲で生きてゆくしかない」ということになるだろう。そして、これは貴乃花親方個人の問題ではない。

もともと相撲は興行(つまり見世物のことだ)のために必要な力士を貧しい農村部などから「調達」してくるという制度だったようだ。

花田一族で最初に相撲の世界に入った初代若乃花(花田勝治)は青森のりんご農家に生まれた。しかし一家は没落してしまい室蘭でその日暮らしの生活をしていた。戦後すぐに素人相撲大会にでて力士の一人を倒したことで相撲界にリクルートされたという経歴を持つ。しかし、働き手を失うとして父親から反対されたので、数年でものにならなかったら戻るという約束で東京に出てきて「死に物狂い」で稽古をして強い関取になったとされる。これは美談として語られている。

しかしながら実態はどうだったのだろうか。厳しい練習をしても相撲で食べて行けるようになるかはわからない。東北・北海道の寒村というものは日本から消えており「全てを投げ打って相撲にかけるしかない」という地域は消えてしまった。

実は、モンゴル人の力士はこのような背景から生まれている。つまり日本で力士が調達できなくなったから貧しいモンゴルから連れて来ればよいと考えられるようになったのだろう。しかし、当初の目論見は失敗に終わる。

最初のモンゴル人力士たちは言葉がわかるようになると「これはあまりにも理不尽で将来に何の保証もない」ことに気がつき脱走事件を起こした。逃げ出さないようにパスポートを取り上げられていたので大使館に逃げ込んだそうだ。これが1990年代の話である。つまり日本がバブルにあったので力士調達ができなくなった時代の話なのである。

しかし、中国とロシアが世界経済に組み込まれるとモンゴルにも経済成長が及んでおり今までのようなやり方で見世物のために力士を調達することはできなくなっている。だから、相撲協会はなんらかの形で現代化してスポーツ選手としての力士を「養成」しなければならない。

ところが、相撲協会は、大相撲が興行だったころの体質を残している。もともと興行主である「相撲茶屋」が興行収入を差配していたようだが、これを力士で運営して利益配分しようという制度に変えつつあるようだ。つまり資本家から独立した労働者が利益を分配しようとした「社会主義革命」だということになる。相撲協会はソビエトのようなものだが、共産主義は例外なく労働者の代表が新しい資本家になってしまう。

2010年の貴乃花一門独立騒ぎでは、貴乃花は「改革の担い手」だと認識されたのだが実際には「旧態依然とした相撲道のために全てをなげうつ」という現在では通用するはずもない価値観の犠牲者になっていることが判る。

相撲はこのように多くの矛盾を抱えており潜在的には存続の危機にあるのだが、相撲ジャーナリズムはこのことを真面目には考えていないようだ。彼らは相撲協会と精神的に癒着した利益共同体を形成しており批判的な態度を取れば取材が難しくなる。

さらに相撲の商品価値を高めておく必要があり話を美しく「盛る」必要があり、全ての矛盾を隠蔽したまま「品格」というよくわからない言葉で全てを包んで隠蔽しているのである。

「品格」という言葉は聞こえはいいが、実は何が品格なのかというのは誰にもわからない。にもかかわらず相撲で成功してしまった貴乃花は家族と孤立し健康も失い社会常識を身につける機会もなく、変化にも対応できなくても一生品格という言葉に縛り付けられることになるだろう。それがどのような人生なのかは想像すらできないが、過酷なものであることだけは間違いがないだろう。

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日馬富士の暴力騒ぎに見る日本人が憲法を作れないわけ

日馬富士がビール瓶で後輩力士の頭を思い切り叩いたらしい。興味深いのは後輩力士が殴られたのが10月26日頃で表沙汰になったのが11月13日だったということだ。半月のタイムラグがあったということである。故に被害者・加害者ともに隠蔽しようとした可能性があるということになる。貴乃花親方はすでに事件直後に被害届けを出して「撤回するつもりはない」と言っているので、どちらかといえば日馬富士側が隠蔽と示談を模索していたのだろう。少なくとも警察はこれを知っていたのだが、捜査はしていなかったようだ。

この件については未だにわかっていないことが多い。かなりひどい怪我なのだという声もあるのだが27日には巡業に出ていたという情報もある。貴乃花親方も一方的な被害者というわけではなく巡業を監督する立場にあったらしい。また相撲協会はしばらくは知らなかったという情報がある一方ですぐに被害届けが出ているという情報もある。

これが事件化するかというのは相撲界の問題なのでさておくとして、ここではなぜ日本人が憲法が作ることができないかという問題に置き換えて考えたい。端的に言うと日本人は自ら最高規範たる憲法を作ることはできない。善悪の明確な区分けがなく多様な価値観も収容できないからである。

この件が表沙汰になった理由はよくわからないが、表沙汰になると相撲協会の体裁を取り繕うような報道が相次いだ。取り繕ったのは相撲の事情通という人たちで、長年の取材を通じて相撲界と心理的に癒着してしまった人たちである。これは明らかな暴行事件であり刑事事件なのだがこれを「事件だ」とい言い切る人はいなかった。さらに、これを隠蔽しようとした相撲協会にはお咎めがなく、NHKは相撲の中継を中止しなかった。

ここからわかる点はいくつかある。最初にわかるのは「横綱の品格」の正体である。ビール瓶で後輩を殴る人がいきなり豹変したとは考えにくい。普段からこのような激情型の人間であったことは間違いがない。少なくとも一般人の品格とは性質が異なっていることがわかる。許容されている行動の中には、一般人が行うと犯罪行為になるものが含まれているということである。

品格が非難されるのは「ガムを噛む」とか「挨拶をしない」などという村の掟的なものが多く、咎められるのはそれがマスコミに見られた時だけである。すべて外見上の問題なのでいわば「相撲村の風俗に染まる」ことが品格なのだということがわかる。外から見て体裁が整っているのが「品格」なのだ。キリスト教世界であれば品格とは内面的な善悪を指すのだが、日本語の品格は外面的な体裁のことであり、集団の掟と違った行動をとらないという意味になる。いずれにせよ、日本人は内面的な善悪を信じないしそれほど重要視しないのである。

次にマスコミ報道を見ていると、犯罪かどうかは警察が逮捕するかしないかによって決まるということがわかる。警察がまだ動いていない状態では、あたかも何もなかったかのように扱われる。しかしながら、いったん逮捕されてしまうと罪状が確定していない状態でも犯罪者として扱われてしまう。これはどの権威が罪人であるというステータスかを決めるまで周りは判断しないということである。つまり、いいか悪いかは文脈(相撲協会の支配下にあるか、それとも日本で働く一外国人として裁かれるか)によって決めるというかなり明確な了解がある。

例えば、薬を飲ませた状態で女性を酩酊状態にした上でホテルに連れ込んで陵辱したとしても、首相に近い筋であればお咎めはない。これは一般社会ではレイプと呼ばれるが警察が動かない限りこれをレイプとは言わない。さらに「女性にもそのつもりがあったのだろう」といってセカンドレイプすることも許されている。

このことからも日本人が善悪を文脈で決めていることがわかる。横綱は人を殴っても構わない場合があるし、政権に近いジャーナリストはレイプをしても構わない場合があるということである。

これが問題になるのは、相撲界の掟と社会の善悪が異なっているからであり、マスコミと一般の常識が異なっているからである。つまり、今回の一番の問題は日馬富士が貴ノ岩を殴ったことではなく、それがバレて相撲協会のマネジメントが破綻していることが露見したからである。同じようにレイプの問題では被害者が沈黙を守らずマスコミの慣行と一般常識が違っていることが露見して、マスコミが「バツの悪い」思いをしたのが問題なのだ。だから、れいぷされて黙っていなかった女性が叩かれて無視されたのである。感情的には受け入れがたいが、メカニズムは極めて単純である。

さらに、これが公になるのに時間がかかったことから、相撲協会は事件についてまともに調査していなかったことがわかる。多分調査というのは「いかに風評被害が少なくなるか」という研究のことだったのだろう。被害届が出ていたのだから、警察ですら「相撲協会の問題」と考えて捜査を手控えていたようだ。つまり、相撲協会の中の問題であるので、日本の法律は適用されないと考えていることになる。

これを「日本の問題」と捉えるのは大げさなのではないかと思う人がいるかもしれない。しかし、同じことが起こる閉鎖空間がある。それが学校だ。

大相撲では虐待・暴行のことを「可愛がり」と呼び訓練の一環だとする。同じように学校内での暴行はいじめと呼ばれ、それが自殺につながるようなものであっても生徒間の些細なトラプルとして矮小化されてしまう。この「いいかえ」は社会一般の規範が必ずしも集団では適用されないということを意味している。さらに、警察は学校に介入するのをためらう傾向にある。つまり学校の中には日本国憲法は適用されないということである。むしろ学校側は「人権などとうるさいことをいって、学校の事情と異なっているから憲法が変わってくれればいいのに」と考えているのではないだろうか。

さてこれまで日本人には内面化されてコンセンサスのある善悪が存在しないということがわかった。しかし、まだまだ解決しなければならない問題がある。これがモンゴル人コミュニティで起きたということである。モンゴル人の気質についてはわからないが日本人との違いが見受けられる。だから、日本人について分析するのにこの事件を持ち出すのは適当ではないのではないかという批判があるだろう。

モンゴル人と日本人の違いは日本人が擬似的な集団を家族と呼ぶことである。モンゴル人同士の交流がありそこに上下関係があったことを考えると、どうやら血族集団的なまとまりがかそれに変わる何らかの統合原理があったことが予想される。彼らは外面的には「イエ(つまり部屋のこと)の掟に従って師匠(イエにおける父親のようなもの)」に従うということを理解したが、その規範が内面化されることはなかったようだ。中学校や高校の頃から日本語を習得するのであまりモンゴル訛りがない日本語を話すのだが、それはあくまでも外見的な問題であって、実際には日本人化していなかったということになる。彼らは日本社会に溶け込んだ移民集団のようなものなのだ。

モンゴルがユーラシアを席巻するときに強みになったのは徹底した実力主義であるとされているそうだ。つまり年次によっての違いはなく、実力があればとって代われるということである。これも年次が一年違えば先輩後輩の差ができる日本人とは違っている。

マスコミはモンゴル人横綱は日本に溶け込んだと思いたがるので、このことが報道されることはないと思うのだが、社会主義だったモンゴルには敬語があまりないそうだ。貴ノ岩は「これからは俺たちの時代だ」と日馬富士を挑発したということがわかっているが、これが日本語でなければ「タメグチ」だったことになる、。日本人から見るととんでもない暴挙だが、モンゴル人にとってはこうした挑発は当然のことであり、挑発したら「実力で押さえつける」のも当然だったということになる。だからある意味ビール瓶は適当な制裁だったのかもしれない。

今回は、日本人と規範について分析しているのだから、こうしたモンゴル的要素が絡む事件は特殊なものではないかと思えるかもしれない。しかし、実はモンゴル人コミュニティが管理できていないということは、実は日本人が多様な価値体系を包含する規範体系を作ることができないということを意味している。これは日本人が価値体系を作る時に「イエ」というローカルな規範を部品として再利用するからなのである。

前回のエントリーでは、戦前の日本人論が破綻した裏には、国の1/3を占めるまでになった朝鮮人コミュニティをうまく取り扱えないという事情があるということを学んだ。日本人はこれを身近な集団である家族で表現しようとしたのだが、実はこの家族という概念は極めて日本的で特殊な概念だった。中国・朝鮮との比較でいうと「血族集団対人工集団」という違いがあったのだが、モンゴル人と比べると「年次による秩序の維持対実力主義」という違いがあったことになる。かといってアメリカのような完全な個人の集団ではなく、例えば年次の違いや風俗の違いに完全に染まることを要求され、その習得には一生かかる。

つまり、日馬富士問題を相撲協会が管理できず、マスコミが適切に報道できなかった裏には、第一に内在化された規範意識がないという問題があり、第二に家によって記述された秩序維持が必ずしもユニバーサルなものではないという事情がある。

これらのことから、日本人は国の最高法規である憲法のような規範体系を自ら作ることができない。それは必ず曖昧でいい加減なものになる。

もし、日本人が一から憲法を作るとそれは学校でいういじめが蔓延することになるだろう。つまり「校長という家族の元でみんな仲良く」という規範意識だけでは、生徒の間に起こる様々な軋轢や紛争をうまく処理できないということだ。相撲協会の場合には「みんなが見て立派な人間に見えるようだったら何をしてもよい」とか「部屋の父親である親方の顔にドロを塗るなよ」いうのが規範になっており、これではモンゴル人集団のような多様な価値観が収容できなかった。

保守という人たちは既存の体系に疑問を持たないので、決してこの欠点を超克することはできないのだ。

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