豊洲移転騒動の原因となった対話できない私たちの社会

豊洲が新市場に移転した。この報道を見ていて最初は「報道管制があるのでは」と思った。だが、しばらくワイドショーを見ていてそうではないということがわかった。これをTwitterでは「制作会社の内戦状態だ」と表現する人がいた。テレビ局がある視点を持って問題を追っているわけではなく、各制作班がバラバラに情報を追っているのである。

よく我々は「テレビが情報を統制している」とか「あの局は偏っている」などということがあるのだが、実は今のテレビ局は自分たちが何をして良いのかがわからなくなっているのではないだろうか。かつてはテレビ局の中に村があって、その村の意見がそのままテレビ局の意見になっていた。SNSがないので全国民がこの「村の意見」を一方的に聞くしかなかったので、結果的にテレビ局は国民の意見形成に影響を持つことができた。だが、この村がなくなることで、私たちの社会は共通認識を持つ能力を失った。あるいは最初からそんなものはなかったのかもしれない。

現在でも例えば「与党対野党」というようなはっきりした構図があるものは意見がまとまりやすい。永田町記者クラブという村の意見がそのまま全国の意見になるからだろう。しかし、築地・豊洲のような「新しい問題」には対処できない。築地・豊洲問題には核になるお話を作れる村がないからである。

実はこの問題は豊洲の混乱そのものともつながっている。豊洲は明らかに目的意識が異なる3種類の人たちがそれぞれの物語に固執しつつ「どうせわかってもらえない」という諦めを持ったままで仕事をしている。これは結果的には経営の失敗を生む。端的にいえば数年後に東京都民は「市場会計の赤字」という問題を抱えるはずだ。すでにこれを指摘している識者もおり、テレビ局の中にはこれを理解している人たちもいる。しかし、その認識が全体に広がることはなく、問題が具体化した時に「想定外」の新しい問題として白々しく伝えられるはずである。

今回は主にフジテレビとTBSを見た。まず朝のフジテレビは「今日は豊洲への市場移転だ」というお祭り感を演出しているような印象があった。若い藤井アナのたどたどしいレポートをベテランの三宅アナが盛り上げるという図式で演出していたのだが、手慣れた三宅アナが盛り上げようとするたびに虚しさだけが伝わってくる。

だがこの目論見はうまく行かなかった。まず渋滞があり、続いてターレが火を吹いたからだ。小池都知事もいつものように前に出てくる感じではなく「早く終わって欲しい」という感じが出ていた。彼女のおざなりな感じは短いスカートに現れているように思えた。気合を入れたい時には戦闘服と呼ばれる服装になるのだが、どうでもいい時にはどうでも良い格好をしてしまうのである。

この時点からTwitterではネガティブな情報が出ていた。まるで世界には二つの豊洲新市場があるような状態に陥っており、マスコミが「嘘をついている」という感じが蔓延していた。実際には「お祭り感を演出して無難に終わらせたい」東京都の意向を受けたテレビ局と現場の対立が二つの異なる世界を作っているように思えた。

午前中は、TBSも豊洲を推進する立場からの放送をしているように見えた。恵俊彰の番組では「2年の間すったもんだがあったが、全て解決した」という態度が貫かれており、早く終わらせて次に行きましょうというような感じになっていた。八代英輝という弁護士のやる気のないコメントがこの「事務処理感」を効果的に際立たせる。

いつも「俺が俺が」と前に出てくる恵俊彰は一生懸命に「豊洲に移転できてよかったですね」感を演出していたのだが、専門家や業者さんたちの様子は冷静だった。彼らは問題があることも知っているのだが、ことさら移転に反対という立場でもなさそうだ。恵俊彰が得意とする、下手な台本を根性で料理しようとする感じが床から0.5cmくらい浮いていた。彼らは時に「体制派なのでは」と誤解されることが多いのだが、実は何も考えていないんじゃないだろうかと思う。

様子が変わったのは午後のフジテレビだった。安藤優子らが問題のある豊洲について報じていたのである。朝の情報番組とは様子が全く変わっているので、テレビ局としての統一見解はないのだと思った。この番組は視聴率があまり芳しくないようなので取材に人が割けない。彼らはTwitterで拾ったような情報を紹介して「問題が起きている」というようなことを言っていた。TBSでは築地に人が残っていざこざが起きたことも紹介されていた。

面白いのは安藤優子が長年の勘で問題をかすっていたところだった。「除湿機がないならおけばいいじゃない」と言っていた。聞いた時にはバカバカしい戯言だと思ったのだが、実はこれが本質なのだ。週刊文春を読むとわかるのだが、実は安藤のアイディアは一度採用されていたが「通行の邪魔になる」として撤去されていた。そして文春はなぜそうなったのかについては分析していなかった。安藤の不幸はこの「ジャーナリストの勘」を深掘りしてくれる人がいないという点だろう。意識低い系ジャーナリストである大村正樹には興味がない。

この市場はコールドチェーンとユビキタスを売り物にした市場建築である。これも広く指摘されているが、簡単にいえば巨大な冷蔵庫である。冷蔵庫が冷蔵庫として成り立つためにはドアがいつも閉じられている必要がある。しかし、これまでのオープンな築地に慣れている人たちはこれを理解していない。このため冷蔵庫のドアは開きっぱなしになってしまう。そこで温度湿度管理がめちゃくちゃになるという具合である。ユビキタスに関しては理解さえされないだろう。コンピュータで在庫管理できてレシピも検索できる冷蔵庫が主婦に理解されないのと同じことである。つまり、そんなものは売れないのだ。売れないからユーザーのいうことを聞かずにとりあえず作って押し付けたのかもしれない。

多分、フジテレビは当初東京都のオフィシャルな人たちからしか情報を取っておらず、午後はこれにTwitter情報が加わったのだろう。これを全く分析することなしに単に紹介して「報道した」ような空気を作っているわけである。さらに安藤優子の番組と小倉智昭の番組には人的交流がないのではないだろうか。小倉の番組に出ている識者の中には経営問題を指摘している人もいるので、彼らが交流していればこの「冷蔵庫の失敗」に気がつけていたと思う。が、彼らにはもはや目の前で起きていることから学ぶという能力はない。能力が低いわけではないと思う。だがお互いに話をしないのだろう。

豊洲で温度湿度管理がうまくゆかず、道路渋滞で近づくことすらできなければ、他の市場から魚の買い付けをする人が増えるはずだ。実はこれも情報が錯綜している。自分が指摘したから通行が改善されて問題がなくなったのだと主張する記者や、噂が広がり豊洲離れが始まっているとする「一般業者」の声を伝える人たちもいる。

すでに週刊ダイヤモンドが指摘している通り豊洲市場は物流量がV時回復することを前提として経営計画が作られている。ところが実際には品質管理の問題と周辺の道路事情の問題などから「豊洲離れ」が起きかねない状況になっている。これを築地の売却益(もしくは運用益)だけで穴埋めし続けることはできないのだから、将来的には東京都は「これをどう穴埋めするか」という問題に直面する。しかしその時には担当者も(多分都知事も)変わってしまっているので誰も責任を取ることはないだろう。

テレビ報道の混乱だけを見ていると問題がよくわからないのだが、週刊誌情報を入れると実はそれほど難しい問題が起きているわけでもなさそうだ。多分、東京都は当初「コンピュータで物流管理された巨大な冷蔵庫」というコンセプトを持っていたのだろう。ただこれを「ユビキタス社会に適用したコールドチェーン」と格好をつけて言ってしまったために誰にも理解されなかった。さらにここに「巨大なバカの壁」である小池百合子都知事が登場したことでさらにややこしくなる。小池さんは自分でも理解できない専門用語をニコニコと語るのが大好きなのである。

しかし、築地の現場の人たちが「巨大な冷蔵庫」を欲しがっていたとは思えない。彼らが欲しかったのは「今まで通りに好き勝手に出来る柔軟なスペース」である。多分、壁や柱などは直して欲しいとは思っていたのだろうが、それ以上のことは望んでいなかっただろうし、ハイテク冷蔵庫はお金もかかるので小口の業者がついて行けなくなるだろうなという予測は立ったはずだ。

政治家はそもそも、これが冷蔵庫だろうがこれまで通りの市場だろうがそんなことはどうでもいい。彼らは「銀座の隣にある平屋の土地」が地上げできたら自分の懐にはいくら入ってくるだろうということを夜な夜な会議室や料亭で考えるのが好きなのである。なぜ彼らがそれに惹きつけられるのかはわからないが、多分それが好きだからなのではないだろうか。高級なお酒やお寿司の味が美味しく感じられるのだろうが、それが誰の手で作られているのかというところにまでは関心が及ばない。

テレビ局の関心は視聴率だけなので、何のために情報番組を作るのかという意欲や方向性は失われている。だからお互いには競争の意識は働いても協力の意欲はない。ところが、取材対象である東京都と市場関係者の間にも意思疎通がなくなっている。つまり、理由はわからないが、日本全体で同じような「協力し合わない」という問題が起きていることになる。

社会に共通認識がないゆえに築地・豊洲問題には正解がないのだが、市場離れだけは確実に進んで行く。だから、最終的に東京都民の目の前には巨額の請求書が突きつけられるはずである。

この問題は共通認識を持てなくなってしまった社会の混乱がそのままの形で「プレゼン」されていると考えるとわかりやすい。目の前に見える景色は単なるカオスである。このまま進めば同じことがオリンピックでも起こるはずであり、その混乱は国際社会を巻き込んださらに大きなものになるだろう。

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豊洲の設計の問題は実は他人事じゃないかもしれないなあと思った件

豊洲の件はまだもめているようだ。「東京のお魚の問題だし関係ないや」と思っているのだが、最近ちょっと考えが変わった。

近所に大手レストランの工場がある。最近のレストランは価格を抑えるために工場で調理してから出荷するらしい。レストランでは「レンジでチン」なのだろう。近くのホームセンターに行く道すがらなのだが、油の匂いがしてちょっと気持ちが悪くなる。この工場ではトラックは横付けではなく後ろから荷物を積載するようになっている。その方がたくさんのトラックが収容できて「効率的」なのだろう。

最近、隣の敷地で冷凍ブロッコリをさばいているのを見た。排水設備のない露天で氷漬けのブロッコリをさばいていたのだ。もしかしたら工場の敷地なのかもしれないし、関連業者が周囲に集まっているのかもしれない。排水がないので氷をフェンス越しに捨てていた。

ここからわかることは幾つかあると思う。まず、工場で食品は「できるだけ汚れない」状態で扱われているのだなと思う。冷凍したら美味しくなくなるんじゃないかと思うのだが、スーパーで買う野菜も流通過程で冷凍されていることが多いのかもしれない。

が、設計通りには物事は進まず、例外的な処理を「現場でなんとかしている」状態なのだと思う。土ボコリが立っているところで冷凍ブロッコリを扱うのはあまり衛生的に見えない。もともとは土に生えていたものなわけだから、まあ別に洗えばいいやと思うのだが、冷凍ブロッコリというのはもう洗っているものなのではないかとも思う。後工程でちゃんと洗っていますようにと願うばかりだが、ブラックボックスなのでよくわからない。

あの後ろからトラックを入れる工場を見てから、豊洲関連のツイートを見ると別の感情が湧く。例えば、トラックが横付けできないと雑梱ができないというようなつぶやきを見つけた。小規模の業者の場合、一つのトラックで様々な種類の魚を扱う必要があるのではないかと思った。つまり大量に同じ食品を扱っている業者は後ろ着けでもそれほど困らないのではないだろうか。

そこから考えられる可能性は、小規模の業者と大規模業者では「求めるスペックが違っている」という可能性だ。つまり、都には最初から小規模事業者のことなど眼中にないという可能性がある。

もちろんそれも問題なわけだが別の可能性も排除できない。それは、設計する人がそもそも現場を見ていないのではないかという疑念だ。つまり、設計通りにことが運べば「発砲スチロールの箱から魚がこぼれ落ちることなどない」わけで、エラー処理を考えていないということだ。エラー処理を考えられないのは、現場で誰かがミスをするということを想像できないからなのだが、現場を知らない人が設計したらそうなるに決まっている。設計者が考えるのは発注主のタイトな予算に合わせてできるだけ「効率的な」設計をすることだろう。いちいち「たら・れば」を考えていたら予算に合わせられない。

ブロッコリがどうして露天で捌かれていたのかはわからないのだが「早く処理しなければならないが場所がない」という状態にあって、仕方なく現場の判断で行ったのかもしれないなあと想像してしまう。多分、現場の人たちはマネージメントに苦情を言ったりはしないだろう。文句をいうとクビが飛ぶ(あるいは契約を着られる)可能性があり、それは危険だ。早いところこのブロッコリを片付けてしまおうと思うに違いない。後のことは工場の中の人たちが適当にやるだろうというわけだ。

築地の人たちは「伝統文化を支えている」などと思って仕事するかもしれない。が、現代の食品流通に携わる人たちってどうなんだろうかとも思う。パートや出入り業者の人たちが日本の食の安全を支えているなんていう気概ややりがいを感じているだろうか。でも、それを責めるわけにはゆかない。なぜならば「同じ食べるなら安い方がいいや」と思ってしまうからだ。

素人が何も知らないで、現場の工場に取材することもなく長々と書いてきたのだが、つまり僕の疑問というのは次のような点だ。豊洲の設計がなんとなくまずいということはよくわかったのだが、これは日本の食品流通では割とよく起こっていることなのかもしれないなあと思うのだ。

工場は多分難しいISOなんとかみたいな規格が遵守されているんだろうが、その前工程で何が起きているのかはわからない。「国産は安心」などと思ってしまうわけだが、実はどうなんだろう。

多分、個人的にはあのレストランには行かないと思う。食品が衛生的に扱われているのかよくわからない。だから今回は工場の名前は書かなかった。が、多分加工食品を全く食べないで生活するというのは極めて難しいのではないか。

豊洲の問題を他人事のように眺めて「みんなバカだなあ」などとのんきに構えているわけだが、実はあの暴対なつぶやきの中にかなり危険で私たちに身近な問題が隠れているのかもしれないなあと思った。が、知識がないので「できるだけ関わらないようにする」くらいのことしか言えない。知らないというのはつくづく悲しいことである。どのように扱われているかわからない食べ物を単に「安いから」という理由で食べている僕がバカなのかもしれない。

豊洲移転問題と我慢の民主主義の崩壊

まだ、築地残留か豊洲移転でもめているらしい。この問題は不思議と部外者が大勢参加している。そのため、議論がなにを解決すべきなのかがわからず、いつまでもくすぶり続けている。ではなぜそのようなことになったのか。考えているうちに日本流の「我慢の民主主義」が崩壊しているのかもしれないなと思った。

問題を整理したいならまず何を解決するかを明快にしなければならない。それは誰のどんな課題を解決するのかということだ。この議論は、実は豊洲か築地かということだけが議論されており「誰の問題を解決するか」が棚上げになっている。

豊洲問題を離れて寿司屋について考えてみよう。寿司屋にはいろいろな種類がある。銀座久兵衛のような高級寿司店も寿司屋だが、すしざんまいのような回転寿司店のほうが数は多い。ここで数の原理で「寿司屋はすしざんまいしか認められない」と言い出したらどう思うだろうか。多分「銀材の高級な寿司屋は日本の伝統的な文化だし」と考えるのではあるまいか。実は築地か豊洲の議論はこれに似ているのだ。

高級寿司屋は細かな流通仕入れルートに支えられており、目利きが重要だ。一方で、すしざんまいのような回転寿司店は全国に効率的に同じ魚を届ける必要があり「効率的な」流通が必要になる。つまり、すしと言っても全く違う業態だと言える。だから、提供すべきソリューションも違ってきて当たり前なのである。

効率化を追求するためには規模の経済を働かせる必要がある。すると高級寿司店を支える零細業者は同じルールでは立ち行かなくなる可能性が高い。一方で細い伝統的な人たちに合わせると規模の経済が追求できないので大規模業者は営利が追求できない。が、普段は「共存してやって行きましょう」ということになっている。

実際の日本の魚食文化は大規模化・集約化が進んでいる。これは消費者が面倒な魚から離れてパックで買える切り身や外食を好むようになっているからだと言われているそうだ。つまり、ほったらかしにすると大規模流通だけが生き残る可能性が高い。どんな魚が大量流通に向いているかを見たければ西友とかコストコに行けば良いと思う。コストコでは外国産のサーモン(鮭ではなくトラウトの一種が多いようだが)が売られていたりする。が、西友しかしらない人は「こんなものだろう」と思うかもしれないが、大衆魚はもっと調理に手間がかかっていた。鯖を買ってきて背骨と身を分離したり(三枚におろすとかいう)、小さなアジをあげて酢につけて食べたりしていた。

大衆魚を食べる文化は高齢者世帯にしか残っていないと思うが、観光資源としての役割もある。接待で寿司を食べる人が減った代わりに観光客を惹きつけているのだ。国や都は一方で「クールジャパン」などといって外国人を引きつけようとしている。

現実には「流通に乗る安くて手軽な魚」志向があり、小規模事業者は経営的に危機にあるのは確からしい。豊洲推進派の人にこんなTweetがある。

確かにそこまでは事実なのだが、これをどう読み解くかはどんな意識を持つかによって全く違ってきてしまう。彼がほのめかすように言っているのは「苦しいから都から金をせびり取ろうとしているのだ」ということなのだと思う。確かに議論としては成り立つので堂々と「小さいところは滅びればいいし、高級寿司屋だけ残ればいいんだ」と主張すればいい。

が、伝統を大切にして観光資源を守るのだということになれば「経営危機にある魚屋が多いのだから税金で保護すべきだ」となる。つまり「どんなオブジェクティブを設定するか」で同じ事実から得られる結論は全く違ってきてしまう。

問題を提示して決めてもらうのは政治の役割である。その意味ではオブジェクティブがないのに議論が進むはずはなく、政治は役割を放棄していると言える。小池都知事のオブジェクティブは都議会の制覇であり「みなさんがお好きな方に決めますよ」と考えているからまとまらないのだ。

そもそもこの豊洲推進派のマインドは問題だ。多分彼らが「民主的には多数派」であり、力が弱い人たちをねじ伏せてきたのだろう。それどころか「経済的に苦しく、経営者が無能だ」という別紙感情さえほのめかされている。我慢を強いられる人を否定して追い込めば、一部が過激化するのは当たり前だ。だから早く豊洲に移転したいなら、零細業者をどう保護すべきかを考えるべきだった。

そもそもなぜ当初から議論に参加していた築地移転派の人たちは今になって騒ぎ出したのか。彼らは仕様策定の段階から議論に参加していたのではないか。議論の最中に豊洲移転への「空気」があり、我慢を強いられていたのではないかと考えられる。もし、この段階で議論に透明性があり、問題点が出尽くしていれば「後でグダグダ」いう人は出なかったはずだ。日本人は空気に負けて我慢することがある。ずっと我慢していればいいのだが、状況が変わると「やはり私はこう思っていた」と言い出すことになる。

これに「よくわからないが大勢に従っておこう」という人が加わる。彼らは「実は盛り土をされていませんでした」ということを知ってから騒ぎ始めた。

推進派の人たちは建物さえ立ててしまえば(つまり既成事実さえ作れば)みんな黙って従うだろうと考えて、嘘をついたり相手を恫喝して黙らせてきたのだろう。が、そうはならないのだ。それどころか後になって「みんなが騒いでいるのだから議論い参加できて当然」という空気になると、もはや収集がつかなくなってしまうのである。「あの時実は納得していなかった」とか「俺は騙された」という人が増える。

その意味では現在の政府の動きは危険だ。都合の悪い状況を隠してとりあえず既成事実を作るような動きが増えている。すると「議論にはコミットしないが後で文句をいう」人が増えることになる。議論がティッピングポントを超えると収集がつかなくなるので、日本人はますます何も決められなくなってゆくだろうことが予想される。それを利用しようという政治家が現れて議論を煽るようなことになれば、政治はますます機能不全に陥ることになるだろう。

ということで豊洲移転問題は今後日本の民主主義が機能不全に陥った最初の事例になるのかもしれない。

豊洲移転問題を解決する3つの処方箋

昨日の減価償却についてのつぶやきを見たあとで、錯綜した議論の原因を探そうとおもいいろいろと調べてみた。簡単におさらいすると、豊洲市場移転問題の議論で「減価償却はサンクコストだから考えなくて良い」という話があり、それに対して築地存続派の人たちが「どんなのデタラメだ」と言っていたというのを見かけたという話だ。

これを例えるとこういう話になる。

バカ息子が突然訪ねてきて「築地の家は汚いし補修も大変だ。で豊洲に家を買っちゃったんだけど、ローンが払えなさそうなので代わりに払って欲しい。」と申し出る。豊洲のタワーマンションの景色が気に入ったらしい。

で、バカ息子は続けてこう説明する。でも、もう豊洲の家を買っちゃったし、これってサンクコストでしょ。サンクコストはネグっていいんだよ。築地は維持費がかかるけど、豊洲はそういうの(しばらくの間は)無視できるから、豊洲のキレイなマンションに住んだ方が生活が楽になるんだよね。

僕だったらバカ息子をぶん殴って<議論>は終わりだ。が、経済用語が出てくると「あれ、これってバカ息子の方が正しいんでは」という疑念がでてきてしまうのだ。

この議論はそもそも、豊洲移転について試算をやり直したところ「移転は難しい」という報告書が出たというのが端緒になっているようだ。移転ができる(つまり豊洲移転プロジェクトが正当化される)条件はいくつかあるのだが、利用料金を二倍にする(収益を増やす)か、初期投資費用を税金で賄う(負債を減らす)か、他の儲かっている市場と会計を合一にする(枠を変える)必要があるらしい。その中に「減価償却」という用語が使われており、それが一人歩きしたようだ。減価償却はイニシャルコストと追加でかかる補修費を指しているらしい。

この議論が混乱した最初のきっかけは小池さんだったようだ。カタカナ語が多いことで知られているのだが、付け焼き刃的な知識も多いのかもしれない。小池百合子都知事は「無駄な投資」の意味でサンクコストを使ったのではないかと思う。どうやら「私が介入した結果豊洲は安全になった」というシナリオがあり、豊洲の投資が無駄にならないようにという意味で「サンクコスト」という言葉を使ったのかもしれない。それを聞いた経済学の専門家(多分わかっていて)が議論をまぜっかえし、お調子者の政治家が追随した。そこで「それはおかしい」と直感的に考えた人が騒ぎ出したようだ。

減価償却がサンクコストかどうかが問題になるのは、キャッシュアウトしているにもかかわらず、会計上の支出はあとで起こるからだ。つまり、お金の出入りと会計上の処理が時間的にずれるために錯誤が生じるのだ。プロジェクト計算をする時に「あれ、キャッシュベースで考えるんだっけ、会計ベースなんだっけ」と迷うことがあるので「減価償却はサンクコストですよ」と暗記するわけである。過去の投資の失敗をなかったことにするために使う魔法の言葉ではない。

もともと豊洲の収支計画は議会に提出されており、工事も終わっているわけだから、何らかの形で支出は終わっているはずだ。つまり、議会が承認した結果キャッシュは外に出ている。だから今更「費用の負担をどうしましょうか」という議論が出てくること自体「あれ、何かおかしいな」という気がする。

その上、実務はもっとややこしいことになっているようだ。つまりキャッシュアウトと会計処理に時期的な違いがあるだけでなく、ローンの話が絡んでいるのではないだろうか。豊洲が失敗したと仮定して「無駄金」を払い続けることになっても、過去の承認がなかったことになるはずはない。つまり議論としては簡単で「あてにしていた収支計画がデタラメだったから、それを税金で補填しなければならない」というだけの話なのだ。移転しなければお金は全く入ってこないし、移転してしても期待ほどのお金は得られないということになる。

いずれにせよ「どうお金を工面するのか」という問題は「A/Bプロジェクトのバリュエーション」と分けて考えなければならない。それを一緒くたにするとわけがわからなくなるのは当然じゃないかと思うのだが、この一連の議論を追ってみると、それを気にしている人はいないように思える。

ではなぜそんなことが起こったのか。気にしてテレビを見ているとコンテンツビジネスに詳しい国際弁護士を名乗るコメンテーターが「イニシャルコスト」の意味で「減価償却」を使っているのを見つけた。わかって使っているのかもしれないが、これは議論をややこしくするだろうなあと思った。

ここで豊洲がいいのか築地がいいのかという議論をするつもりは一切ないし、そのような情報も会計知識もない。一つだけ言えるのは、議論の参加者に会計の基本的な知識がないために、いろいろな人がそれぞれの勝手な思い込みで議論を理解して問題を複雑化しているということである。その上雪だるま式に様々な問題が一緒くたになるのでいったい何を議論しているのかということがわからなくなっているようだ。

この状況を改善するためにはどうしたらいいのだろうか。3つほど処方箋を考えた。

一つは外野を黙らせることだ。誰が何を決めているかが明確になればこの問題は解決する。この原因を作っているのは小池都知事である。小池さんは「いつまでに何を決めたいのか」がさっぱりわからない。従って、誰が責任を持って何をどこまで決めるかが明確にならない。

次にやることは、何を議論しているのかというスコープを明確にすることである。政治問題なので実行は難しそうだが、いつまでも揉めているよりは楽になりそうである。この場合は「リスク要因の確定」「投資のバリュエーション」「政治的な責任問題」などに分けられる。多分予算の話ができるのはそれ以降ではないだろうか。不確定要素が多い上に単純な意思決定もできていないのに、総合的な意思決定などできるはずがない。

最後にやることは共通言語の獲得である。が、これはすぐには難しい。今回の議論では会計用語の基礎と倫理問題(持続性や安心安全に関わる)の基礎を知っていないと議論に参加できない。アメリカでこういう不毛な議論が起こりにくいのは、マネージメントを行う人が、修士レベルで経営の基礎知識を学んでいるからだ。一つひとつは実務レベルの知識ではないので「こんなの勉強してどうするんだろう」などと思うわけだが、よく考えてみると、基本的な知識の粒を揃えておかないと議論すらできなくなってしまうのだなあと思う。その意味では日本人はバベルの塔に住んでいる。同じ言語を話しているつもりで全く相手のいうことがわかっていないのである。

石原慎太郎氏をバカにすることは脳梗塞の方々をバカするということだという言説について思うこと

石原慎太郎氏が証人喚問された。冒頭に「脳梗塞を患っているから過去の記憶が曖昧である」というようなことをおっしゃった。その時「海馬が不調なので」というような説明をしていた。とても胸が痛んだ。

胸が痛んだのは海馬の働きを知っていたからだ。人は何かを体験すると情報が海馬にゆき、必要な情報を洗い出したあと、大脳新皮質でファイリングする。海馬は入力装置と記憶装置をつなぐ場所にある。だから海馬が壊れてしまうと新しいことが覚えられなくなるが、古い記憶は残る。ハードディスクは残っているので情報そのものは残っているからだ。なお、情報が残っているということと取り出せるかということは違うのだが、情報を取り出すのは海馬ではない。

ここから理屈ではなく即座に分かることは、石原さんが「知っている人が聞けばすぐに嘘と分かることを言っている」ということである。多分、自分の症状を医者から聞いてよく理解できていないのではないだろうか。字が書けないというのは本当かもしれない。すると、ファイルそのものが壊れているか、ファイルを取り出すところが壊れている可能性はある。しかしそれは「海馬」ではない。

ここからさらに、この人は自分にとって重要である症状についてさえ、科学的知識を理解しておらず、専門家(つまり医者)が言っていることもわからないということになる。従って豊洲問題についても核心部分については理解していないであろうという見込みが立つ。つまり専門家や市場長などが専門的なことを伝えても「右から左に聞き流して」いたんだろうなあということがわかってしまうのだ。彼にとって重要なのは土地の移動が子飼いの部下や協力者に何をもたらすかということだけなのだろう。

さらに胸が痛んだのは、かつては一世を風靡した作家が、その一番大切であるはずの言葉を歪めてまでいろいろなことを隠蔽しなければならなかったという点である。政治家でいるというのはそういうことなのかもしれないが、であったとしてもそれは隠し通して欲しかった。

確かに発語のしにくさはあるようで声が嗄れていた。歩き方が不自然だったという感想を持った方もいらっしゃったようだ。だから、石原さんが全く健康体と主張するつもりはない。ある程度の配慮が必要なことはいうまでもないだろう。そもそも先のエントリーで観察したように尋問する側も「グル」のようなので、尋問が儀式に終わることも容易に想像できてしまう。

石原さんはペラペラと過去の自分の業績を開陳していたのだが「自分に都合が良いことはよく覚えており」「都合の悪いことを合理的に判断して隠す」ほどの知性を維持していることは明らかだった。仮に記憶の一部が欠落してたとしても、記憶が選択的であるということを意味している。パリの街で誰と食事をしたかとか隅田川を誰と歩いたとか記憶はかなりのディテールを持っているようだ。つまり記憶の取り出し機能が障害しているというのもかなり疑わしいように思える。

つまり、質疑が進むにつれて「病気を利用したんだ」ということが明らかになってゆく。これは同じ症状に苦しむ方にとってはとても不誠実な態度と言えるのだが、そんなことにかまってはいられないほどの事情を抱えているのだろうということがうかがえる。

さらに小池百合子都知事を糾弾するためにいろいろな勉強をされたのだろう。これは新規記憶だから海馬に影響があるなら難しい作業だが、難なくこなしていた。

唯一「障害」を感じさせるのは、自分と意見の異なる相手の言っていることは全く理解できていないという様子を見せたところだ。複雑な文節は理解不能のようだ。だが、これは脳梗塞の影響ではなく、そもそも自分と異なる相手のいうことを聞けないのではないだろうか。相手の意見を聞いてこなかった人が老年になって相手を理解できなくなることは珍しくない。こういう人たちには特徴がある。相手から話を聞いたあとワンポーズあって、表情に「?マーク」が浮かび、自説を騰々と述べるということだ。つまり、人の話を聞いてこなかったので、相手の会話を理解する能力を失っているのか、そもそも相手を理解する共感能力を持ち合わせずそれを隠蔽する能力を失っているのだ。

ついには精神科医まで動員され「傲慢症候群」という診断さえ下されてしまった。

「自分の言いたいことだけを言いたい。都合の悪いことには答えたくない。批判は受けたくない。特権意識が強く、自分勝手です。石原さんは、イギリスの政治家で神経科医のデービッド・オーエン氏が『傲慢症候群』と名づけた典型のように見えます。権力の座に長くいるとなる人格障害の一種です」

ここからわかるのはかつて一世を風靡した作家が、ちやほやされた挙句に相手への共感能力を失い、身内においしい思いをさせるために無茶をした結果、世間から叩かれているという構図だ。確かに石原さんは自分たちの仲間のためにとても一生懸命に働いたのかもしれないのだが、その結果は都政に様々な混乱をもたらしている。

石原さんは右派のスターだったので擁護したい気持ちはわかるのだが、彼の「愛国」が実は単なる身びいきに過ぎなかったということを認めるべきだろう。さらに、時々自分と違う意見を聞いて理解する訓練をしないと、最終的には石原さんのようになってしまうということも記憶しておくべきかもしれない。

朝日新聞の「東京ガスは悪くない」論

豊洲移転問題についていろいろ書いているのだが、正直何が起こっているのかよく分からない。当初は「東京ガスが有毒な土地を都に売りつけて、政治家の一部にキックバックがあった」というようなシナリオを勝手に描いていたのだが、それは違っていたみたいだ。週刊誌2誌と女性週刊誌1誌を読んでみたが「東京ガスは土地の譲渡を渋っていた」と書いている。なぜ渋っていたのかはよく分からない。

週刊文春が仄めかすのは、石原都政下では外郭団体の含み損が表面化しつつありそれを整理する必要があったというストーリーだ。5000億円の損が累積していたが築地の土地を売れば都には莫大な資金が入るというのだ。しかし、他の媒体はそのような話はでてこない。文春の妄想なのか、独自取材の賜物なのかはよく分からない。さらに、東京都は真剣に一等地を売って儲けようという意思は無さそうだ。

誰も書いていないが、wikipediaを読むと石原氏は単式簿記をやめて複式簿記を採用したと書いてある。土地などの資産が認識されるので良さそうな方法だが、複数機関で借金しあったりしているとひた隠しにしていた問題が浮上することになる。同時期に銀行の貸し倒れが問題になっていて(こちらは普通の銀行が課さない中小企業に気前よく融資していた)その損金をどう処理するかが問題になっていた。

もし、築地を高値で売りたいならいろいろな計画が浮上していてもおかしくはないのだが、跡地はオリンピック巨大な駐車場になることになっている。後には「カジノを誘致したい」などという話ものあるようだが、公園(たいした儲けにはならない)を作ってくれという地元の要望もあるようである。もし都営カジノができれば、オリンピックで作った宿泊施設も含めて巨大なリゾート地が銀座の近くにできるわけだが、具体的な計画はなく、幼稚園児のお絵描きのような稚拙さが滲み出ている。政治家の考える「ビジネス」というのはそういうものかもしれない。

もともと、都が累積損を抱えたのはお台場湾岸エリアの開発に失敗したからだ。失敗したのは都市博で人を呼べば他人の金で開発ができ、お台場の土地が高く売れるぞという目算があったからだろう。今回は都市博がオリンピックに変わっただけなのである。ずさんさというか、商売っ気のなさがある。

その中で異彩を放っていたのは朝日新聞の経緯のまとめだ。これがどうにも怪しい代物だった。最初に書いてあるのは「東京ガスは土地を東京都には売りたくなかった」ことと「誰もあの土地が有毒だとは思わなかった」ということだ。東京ガスが土地を売りたくなかったが浜渦副知事がゴリ押ししたというのは半ばマスコミのコンセンサスになっているようだ。浜渦さんは時々殴り合いの喧嘩をする曰く付きの人物だったとwikipediaには描かれている。

いずれにせよ「読者にわかりやすく書かれた」豊洲市場移転問題のまとめ記事では誰も有毒物質のことは知らなかったが、あとで調査をした結果土地の汚染が判明したというストーリーが描かれている。これを素直に読むと「誰も悪くなかったが運が悪かったね」ということになる。日本人の「優しさ」によるものだが、これが集団思考的な問題を作り出しているということには気がついていないようだ。都政担当は記者クラブの中でインサイダー化しているのだろう。

朝日新聞の記事を読んで一瞬「ああ、そうか」などと思ったわけだが、その交渉過程は黒塗りだったという記事がTwitter経由で飛び込んできた。新しい情報が得られるというのはTwitterの良いところだなあと思う。この記事によるとどうやら「あの土地には何か有毒物質があるらしい」ということは知られていたようだ。土地を売る上では不安材料になるだろう。もともとエンジニアたちはあの工場が何を生産していて、副産物として何が産出されていたかは知っていたはずである。東京ガスが全く知らなかったということはありえない。

朝日新聞の記者も東京ガスと都の交渉記録が黒塗りだったことは知っているはずだ。これは「のり弁」資料と呼ばれ問題になっているからである。であるならば、朝日新聞の記者が書いた記事の目的は明らかだ。都当局は炎上中なのでもう抑えられないが、東京ガスに避難の矛先が向くのを抑える「防波堤」の役割があるということになる。東京ガスはマスコミにとっては巨大スポンサーなので非難が向くのは避けたいのかもしれない。

いずれにせよ油断ならない話である。どの媒体も信じることができず、各雑誌・新聞を読み比べた上でネットの読み物まで読んで総合的に判断するしかないということになってしまう。いずれにせよ黒塗り資料が表沙汰になってしまえば、誰が嘘をついていたかが明らかになってしまう。すると大型防波堤でせき止めていた洪水が一挙に街を押し流すようなことになってしまうのではないかと思う。

多分、現在豊洲問題が炎上しているのは、マスコミが「優しさ」故に問題を直視してこなかったからである。にもかかわらず一旦炎上するとそれを商売にしようとする業を持っている。よく倫理の教科書で問題になる「近視眼的な視点が長期的な問題を生み出す」という実例になっているように思える。

豊洲移転問題 – 山本一郎氏に反論する

山本さんが新しいコラムを執筆された様子です。詳しくはこちら。要約すると「専門家委員も政治家も報告書を読んでなかったのに今更騒ぐの?」という話。それはその通りですね。

で、以下は「魚市場は単なる流通拠点だからさっさと移転すれば」という話に関する考察です。


築地市場の豊洲移転問題に新しい進展があった。山本一郎氏が「潰れかけている店が騒いでいるだけなのだからさっさと豊洲に移転すべきだ」と言っている。

確かに山本氏の言い分は正しいと思う。築地の問題は実は大規模流通業者と中小仲卸の対立になっている。中小業者は移転で発生する設備の更新に対応できない。家賃も実質的な値上げになる。加えて築地のコマ数は限られているので、新規参入も難しいし、加入権が高値で売買されたりする。だから中小は移転に反対(ないしは積極的に推進したくない)立場なのだ。

では、すぐさま豊洲に移転しても構わないかと言われればそれもまた違うように思える。東京の職人気質の食文化は中小業者が支えている。この生態系は十分に調査されておらず、中小業者がどのような役割を持っているかがよくわからない。大量消費を前提にしていないので、数年後には東京から美味しい寿司屋が消えていたということもありえる。

もし東京が数年後の「おもてなし」を重要視するなら、築地の移転を取りやめて、どうしたら東京の食文化を守ることができるかを調査すべきだ。大規模業者は移転すればよいと思うが、中小の一部は築地に残るべきかもしれない。実は同じ魚市場でも機能が異なっている。

つまり、反論は「東京は世界有数の食のみやこであり、築地は観光資源だ」という点に論拠がある。すでに産業論ではなく、観光や伝統工芸をどう保護するかという問題だということだ。だから、その前提に対する反論はあるだろう。

まず、寿司屋は大量消費を前提するように変わりつつあるかもしれない。小さい子供にとって寿司屋といえば回転寿司を意味する。大量に魚を買い付けて全国で均一的に提供するというシステムだ。もし、これを是とするなら築地は必要がないし、細かな客のニーズに応える中小の仲卸も必要はない。設備投資にお金をかけられないなら淘汰されてもやむをえないだろう。

次に地方にも独特の魚文化がある。しかし、高級魚は都市の方が高く売れるので、東京に流れてしまう。例えば房総半島で獲れた魚の多くは地元を素通りして築地に流れている。仮に築地に伝統的な仲卸がいなくなれば、寿司ツーリズムのようなものが生まれるかもしれない。やはり地元で食べた方が美味しいからだ。福岡や仙台のような拠点では築地のような問題は起こっていないのだから、おいしい寿司はやはり福岡でというのも手だろう。福岡の人は佐賀の呼子までイカを食べにゆくこともあるし、塩釜にはおいしい寿司屋がたくさんある。地方ではこれが本来の姿だ。

一方、実は地方の魚流通や消費が未整備で東京に依存している可能性もある。だから、地方で高級魚を獲っていた漁師や伊勢志摩の海女さんがが壊滅するということもありえなくはない。実際どうなのかは誰にもわからない。

最近「日本は素晴らしい」というテレビ番組が横行している。確かに魚食文化は日本の優れた伝統なのだが、いつまでも続く保証はない。足元では「魚離れ」が進んでおり寿司さえ全国チェーンに押されている。そんななかで伝統を守るという視点を持つ人が少ないのは誠に残念だ。

実は築地の問題は保守の論客が論ずべき問題なのかもしれない。その意味ではガス会社から土地を買ってあとは役人と民間に丸投げするような知事は保守とはいえない。自称保守という人たちは軍隊を持ったり、天皇についてあれこれ言及したり、他人の人権を制限するのは好きだが、足元の暮らしを守ろうという気概は感じられない。そんなものはほっておいても存続すると思っているのかもしれないが、そういうものの中にこそ伝統というものは存在するのではないだろうか。