Lineいじめとコミュニケーション特性

必要に迫られてLineについて勉強している。これがいろいろとややこしい。つい、いじめの温床になるのも当然だななどと思ってしまった。もっとも、この感想には男性としての偏見が含まれている。そもそも女性同士のコミュニケーションが複雑だからだ。

伝統的な電子コミュニケーションの基礎はメールだ。基本的に一対一のコミュニケーションツールで、メーリングリストを使うと一対多に拡張できる。その後にメッセンジャーツールができた。メールに即時応答できるが、これも一対一のツールである。さらにFacebookが出てきた。これは個人が好き勝手にコミュニケーションして、個人がリアクションするというツールだ。最後に登場したのがSkype。これはメッセンジャーを音声にしたものだが、電話の代替でわかりやすい。これにTwitterが加わる。これは「弱い靭帯」ツールとして機能している。簡単にフォローもアンフォローもできる。Instagramも「弱い靭帯」ツールだ。

ところが、Lineはこの「個人主義」で「弱い靭帯」という要件を欠いている。

女性は男性のように「用事があったら見ておいて」というメールメンタリティは受け付けないようだ。要するに会話が楽しみたいわけである。会話はコミュニケーションの手段ではない。女子高生はお互いに相手の話を聞いていないというが、老人ホームでも女性は会話が成立していなくても、お互いになにか話し合っていることがあるそうだ。いわばカラオケ状態だ。

Lineは最初からグループが前提になっている。グループがあるから「外す」ことが可能になる。Facebookでは「相手から外される」ことはあるが「外し」は存在しない。そもそもそんな概念がないからだ。誰が考えたのかは知らないが、Lineはアジア的なメンタリティだ。特に日本人は集団が意思決定して集団が従うことで知られている。これは大陸アジアとも違った形なのだそうだ。Lineが日本人の間に爆発的に流行したのは、一度Lineが使われるようになると他の人も使わなければならないという同調圧力が働くからだろう。

ところがLineでは「外し」はかなり重要な意味を持つ。勝手にアンフォローすることはできず、いったんブロックしてから削除するのだそうだ。なぜこのような仕様にしたのかはわからないが、これは十分「絆」になっている。絆とは家畜をつなぐ綱のことだ。

また、相手からメッセージが来ると、夜中であってもけたたましい音がする。そこで、通知がこないように設定することになる。あまり仲良くない相手や企業から頻繁に通知が来るとウザい。ところがLineを使い慣れない人は「相手の通知設定がどうなっているか」はわからない。だから関係性が曖昧になりがちだ。絆が不必要に強いからこそ、関係性が隠蔽されやすいのだ。

例えばSkypeは相手のステータスがわかるようになっている。これも個人主義的な文化だ。「今は話できない」ことがわかっているからこそ、相手は安心して電話がかけられる。ところがLineはそれを推察するしかない。気が弱い人は通知を常時オンにしておく必要があるだろう。そもそも「今は邪魔しないでください」というのが表立って言えないのが日本人なのだ。

このように「集団主義的」に見える日本人だが、実はそのコミュニケーションに対する態度には偏差が大きい。つまり、人によって実はバラバラなのである。そのバラバラさにはいくつかの要因がある。

  • 年齢:年齢によってリテラシが異なる。
  • 生育歴:他人がどれくらい生活に干渉していいかは生育歴で決まる。
  • 関係性:親密さの度合いによって許容できるコミュニケーションが異なっている。

年齢によってパソコン、タブレット、スマホに対するリテラシは大きく異なる。もっともリテラシが低いのはパソコンに慣れていない高齢者だ。パソコンに慣れていない高齢者にとって、パソコンは「混乱」と同義なのだ。

電話やFaxにはモードがあり、そのモードは1種類である。電話がなれば受話器を取る。電話をかけたければ数字を押す。これだけだ。一方、パソコンやタブレットのUIはモーダレスである。教科書にはUIはモーダレスにして、ユーザーの自由度を増せと書いてあるものがあることが多い。ところが高齢者はモーダレスは苦手なようだ。さらに画面の一部(小さなアイコン)がボタンに変わるなどいうことは本能的に受け入れないようなのだ。

モーダレスなデバイスに接すると、端からみると認知が破壊されたような状態になるらしい。例えば文字は書けるのに、ひらがなでの入力ができなくなる。「入学」を「にゆーがく」などと打とうとする。またLineで受信メッセージが出ると何をしてよいかわからなくなるようだ。あの受話器のマークがボタンではなく単なる絵に見えるのかもしれない。絵を「押す」ということができないのだ。

認知体系が破壊されると電話での常識すらわからなくなるようだ。つまり「相手が忙しそうなときに電話をかけるとどうなるか」というのがわからなくなる。実は電話とかFaxとかの機械はかなり多くの情報をバンドルしている。これは経験的に学んだものだ。だが、装置が変わるだけで過去の学習が無効化されてしまうのだ。経験から普遍的なルールを抽出するというような学習にはなっていないようだ。

女性は会話を好む。だが、会話が成立するためにはかなり多くの概念を共有している必要がある。実はここにかなりの分断が起きている。一方、男性はコミュニケーションの「目的」に集中しやすいので、分断が少ない。

女性の中にも、テレビ電話を極端に嫌がる人(生活を覗かれるのがイヤなのだろうし、化粧をしていないところを見られるのもイヤなようだ)もいれば、気にしない人もいる。個人的な価値観もありそうだが、関係性が大きく影響しているようである。要するに「よそゆき」の関係性の人には私生活に踏み込んで欲しくないのだ。この場合、夫が防波堤のような役割を果たしている。

一方、テレビ電話は嫌がらないが、時間が分散していて集中した時間が取れない人もいる。こうした違いは関係性のほかに生育歴にもよるようだ。大家族でよそ者の出入りが多かったようである。

生育歴が関係するので、実の親子のコミュニケーションにはそれほど問題が生じないのだが、それ以外のコミュニケーションではもともと問題が発生しやすい。

日本人女性といってもすべての人が集団主義的とは限らない。誰かにじゃまされずにじっくりと文言を考えたいという人もいる。こういう人に一番向いているメディアは実は手紙やFaxなのではないかと思う。

で、あればはっきりと「私にはこう連絡してほしい」と言えればよいのだろうが、主張するような訓練は受けていない。「私とあなたの間には違いがない」というのがコミュニケーションの前提だからだ。ここにジェンダーの問題も絡んでくるのだろう。できるだけ共感的で相手にあわせるべきだという刷り込みだ。

Lineはコミュニケーションに集団圧力を加えることで大きくなったツールで、個人の主張ができるようには作られていない。もし個人主義的なツールだったならこれほど発展しなかっただろうし、これほど状況が複雑化することもなかっただろう。

Lineいじめをなくしたいなら、学校でメールアカウントでも作ってメールからコミュニケーションの基礎を学ばせるべきだ。よく「コミュニケーション障害」などと言われるが、これだけ事態が複雑化しているのだから、問題が起きて当然なのだ。

 

LINEはずしと嫉妬心

LINEをはじめとしたいじめについて考えている。本来、一部を除いた人間には他人が苦しむ姿を見たいという遺伝的欲求はないのだが、ある条件が整うと他人の痛みは快感に変わる。

私達は無視されたときに痛みを感じる場合がある。これは抽象的な痛みではなく、脳の痛みを感じる部位で感じているらしい。すぐに返事を返さないと「無視された」と誤認して痛みを感じる。これに報復するために、返事を返さなかった人を仲間はずれにすることがあるようだ。こうしたリアクションは「誰でも忙しくて返事ができない時があるのだ」と教育することで防ぐことができる。「相手の身になって考えなさい」というわけだ。

ところが、教育ではカバーできない痛みがある。それが嫉妬だ。ある研究によると人間は良く似た属性を持った人間が自分よりも優れていると感じた時に嫉妬を感じるそうだ。嫉妬は痛みとして捉えられる。ところが、その対象者が失敗したり、不幸な目にあったりすると快感を感じるのだ。嫉妬が強ければ、その後の快感も強くなるのだという。

また人間は不公平を感じた時にも嫌悪感を感じるのだという研究もある。嫌悪感を感じると合理的な判断が阻害され、自分が何も得る事ができなくても、相手が得をするのを防ごうという気持ちになるのだそうだ。

自分と良く似た人に嫉妬心を感じた人は、痛みを排除するためにその人を仲間はずれにしたり攻撃したりする。そして、その人が痛みを感じて不幸になると、それを見て快感を感じてしまう。その行動を合理化するために、仲間を監視して、排除に巻き込む。窮屈な人間関係はそのようにして生まれるようだ。スマホによる「監視機能」があれば、その閉鎖的な人間関係は24時間365日続くのである。

「他人と比べなければいいではないか」という反論もありそうだが、そもそも人間の脳は絶対的な幸運の量を計るようには設計されていない。他人との比較によって自分の幸運や不幸を決めている。

不公平さや嫉妬に囚われると、本来なすべきことを忘れてその怒りを解消することに意識が集中してしまう。これを防ぐには自分が感じている怒りを言語化・意識化するのが良さそうである。ところが、こうした情動は古い脳が関係しているので意識化しにくい。無理に言語化すると、合理化されてしまい、却って事の本質が分からなくなることも起こりそうだ。

本来、多くの情報に触れることができれば、状況を正しく認識してよりよい判断ができるようになるはずである。しかしながら、状況によっては痛みに囚われ、他人の不幸を探すようにも使われるのである。

女たちはなぜLINEはずしをやめられないのか

LINEいじめについて考えている。今回までの結論は非自発的に作られた閉鎖的な空間では人間関係の単純化が起こるというものだった。しかし、このモデルは選択的にグループを作る母親同士の息苦しい「カースト化」は説明ができない。

もともと、人間の社会は伝統によって体系化されていた。しかし、伝統的な社会は解体し「個人の価値観が」価値体系を決めるような社会が作られた。伝統からは解放されたものの、個人は自由への不安に苛まれるようになる。さらに、選択肢が増えると「他者の動向」を規範として採用するようになった。テレビや雑誌といったメディアによって「他者」は拡大した。選択肢は爆発的に増えたが、選択が難しくなり、不安も増大した。

女性の価値は何を持っているかで決まる。どの街に行き、何を選択するかによって価値が決まるのだ。ところが、その価値を自分で決めることはできない。他者の評価がその人の価値を決める。こうした選び取る力を「女子力」と呼んでいる。何が正解なのかは分からないが、それは確実に存在する。

さらに、ママの価値は「持っている」夫や子供の価値によって決まる。つまり、人がモノのように扱われるのだ。子供に何を着せているか、清潔に保たれているかなど、すべてが評価の対象になる。そのように考えると「どんなママと付き合うか」が評価の対象にならないはずはない。

ぞっとする話だが「ユニクロのシャツが気に入らない」というのと「あのお母さんが気に入らない」というのは同列の話なのだ。ユニクロのシャツについて悪口を言う人が「ユニクロのシャツをいじめている」という意識を持つ事はないだろう。従って、LINEで悪口をいう母親も実は「それが悪口だ」という認識を持っていないのかもしれない。

もちろん、これだけで事態が息苦しくなるはずがない。女性はいつも品定めされているが、自分で価値を決めることはできないし、正解が何なのかもよく分からない。それは価値を決める他者が不特定多数に広がっているからだ。そこでグループを限って、そこで価値基準を決めれば良い。価値基準のはその場にいる人たちや話し合いの成り行きで決まる。最終的な結果が大切なのではなく、話し合いの過程こそが重要なのだ。そこで、そこに集った人たちの選択が正当化されるように物事が決まって行くだろう。集団の状況や成り行きのことを「コンテクスト」と呼ぶ。

妻たちは夫に事細かな状況を話した挙げ句「私は悪くないわよね」と承認を求めることがある。夫はなぜながながとした話が問題と関係があるのかは分からない。女性はコンテクストを相手と共有することで共感を得たいと思っているのである。

ママ友はコンテクスト依存の高い文化なのだと言える。

コンテクスト依存の高い文化では「ユニクロのシャツが気に入らない」と公言している人の仲間が「ユニクロのシャツを着る」ことは裏切り行為だ。そのコンテクストの選択を批判することは、そこにいる人たちの人格を否定し、それまでの話し合いの過程を否定することになるからだ。だからそれは全人格をかけた戦いなのだ。

この時点で、女性たちは、不特定多数の他人からの拘束を受け、さらにママ友たちの拘束を受けている。拘束しているのは他ならぬ本人たちだ。なかには子供が仲間はずれになるからといって、息苦しい拘束から逃れられない人もいるのだという。

スマホの登場で拘束は24時間続くようになった。マルチタスク化の効果で合理的な判断力は鈍り、やりとりは感情的になる。新しい情報は、その人の脳につかの間の報酬を与える。するとやり取りは過激化することになるだろう。

問題の根幹は「選択」と「選択した個人の価値」が不可分に結びついているという点だ。なんとかしてここから抜け出す事ができれば、苦しみを減らすことができるだろう。

しかし、テレビでは無数の企業が「正しい選択」をと迫ってくるし、ランキング番組は常に新しい正解を問い掛けてくる。そこから抜け出すのはそんなに簡単なことではないのではないのかも知れない。

スマホ脳 – あなたとあなたの子供に起こっていること

前回、 LINEはずしといういじめについて考えた。組織や集団の失敗という分析だった。閉鎖的な集団に非自発的に参加させられると集団内に緊張が起き、それを緩和するためにいじめが起こるというような筋書きだ。しかし、このアプローチだとスマートフォンがどのようにいじめに影響しているのかは分からない。そこで、Why the modern world is bad for your brainという記事をガーディアンで見つけた。以下は全文ではなく抜粋だ。

マルチタスクはコルチゾールとアドレナリンを増やし、脳に霧がかかったような状態を作り出す。ドーパミン中毒の状態も作られ、外部刺激を求める続けるようになる。前頭葉には新しい刺激を求め続けるクセがあり、注意力が犠牲になる。新寄刺激は脳内麻薬を増やす。何かに集中するよりも新しい刺激に興味を向ける方が楽しいのだ。続けざまにマルチタスクをやっているとコルチゾールが分泌されて不安な気分になる。攻撃的な気分になり衝動性が増す。

マルチタスクは認知力に悪い影響を与える。これをインフォマニアと指摘する学者もいる。未読のe-mailが横にあるだけでIQが10ポイント落ちるという研究がある。マリファナの成分カンナビノイドには記憶と集中力を阻害する働きがあるが、マルチタスキングの害はマリファナを吸うよりも大きいという。

テレビを見ながら勉強をすると記憶情報は長期記憶を形成する海馬には送られず線条体に入ってしまう。線条体は新しい技術や手続きを学ぶ場所だ。人間の脳はマルチタスクをこなすのは慣れていないのだ。

メールに返事を返すたびに、ほんの小さな達成感が得られる。TwitterやFacebookに新しい記事を見つけるたびに社会的につながっている感覚が得られて、またちょっとした報酬ホルモンが得られる。しかし、こうした刺激は快楽を司る大脳辺縁系を刺激しているだけで、前頭前皮質による高度な思考領域が刺激されているわけではない。Twitter、Facebook、e-maiなどによってもたらされるのは単なる神経性の中毒なのだ。

スマホを持っていると、常に仲間からの連絡を気にしなければならない。メールを読みながらニュースをチェックしたりするので、マルチタスク化が進行する。マルチタスクは脳の認知機能に悪影響を与えるだけでなく、中毒性もある。これは英国の記事なので LINEについては扱っていないが、情報交換の頻度はメールよりも多いのではないだろうか。

LINEそのものが緊張感を増すことは確かなようだが、このことだけでスマホやLINEがいじめを誘発するとは言えない。他人が苦しむ姿を見ると社会的報酬が得られるのではないかと思って調べたところ、ニューヨークタイムズのThe Brains of a bullyという記事を見つけた。この記事によると他人が苦しむのを見て楽しむ人がいることは確かだが、全員がそうというわけではないらしい。小人数を集めた調査であり、原因や割合などは分からない。LINEいじめの参加者は意外と「ちょっとしたイベント」の一つとしてターゲットの言動を楽しんでいるだけかもしれない。社会学的な考察だけでなく、科学的な解明が待たれる。

いずれにせよ、スマホを24時間持ったまま生活するのは脳には良くないらしい。スマホを使わない(つまりつながらない)時間を作り「いつでも連絡が取れるわけではないのだ」ということを学ばせるもの手かもしれない。

しかし、慢性スマホ中毒に陥っているのは子供ばかりではない。大人たちも出先や電車の中で常に「情報収集」に勤しんでいる。新しいニュースに接しているだけで、脳に報酬が得られるらしい。しかし、それはネコが獲物を追っているような状態で、じっくり考えることとは違っている。ニュースの目的は意思決定するための情報を得ることだが、ニュースハンティングが自己目的化していることになる。

より多様な意見に触れることにより、より良い判断ができるものと期待されたインターネットだが、使い方を考えないと、単なる「バカ製造装置」になってしまう。

LINEはずし- 中心のない共同体はどうなるか

LINEはずしを解決するにはいくつかの方法がある。一つは密室で起きているコミュニケーションを表沙汰にすることである。中学男女24人『集団LINEいじめ』解決に立ち向かった父の奮闘実話が参考になる。

このところ、日本人と中心について考えている。日本人はまとまるために空白の中心を作るという古典的な考え方である。これを考えているうちに、なぜLINEではずしが起きるかという問題を考えてみたくなった。LINEはずしとはLINEのグループから1人を除外するいじめのことである。ネット言論には、いかにも中心がないように見えるからである。

そもそも「いじめ」にはいろいろな要素や形態があり、完全には理論化されていないらしい。したがってLINEいじめに関する理論的な考察はない。しかしながら、ヒントになるモデルはいくつか存在するようだ。

formation「いじめ」が発生するのは、閉ざされた入れ替わりのない空間だ。空間に自由意志で入ることはできず、出る事もできない。公立学校のクラスなどがこれに当たる。そして、その空間では「みんなで仲良くする」ことが求められる。突出したボスを作ってはいけないし、派閥を作って対立することも許されない。いわば平等型の空間でいじめが起こるのだ。

非自発的な集団ではの平等型の維持は困難なようだ。集団がまとまるためには、それなりの大義名分がいる。しかし、自発的に作られたわけではない集団では大義名分を見つけることは困難だ。誰かボスがいればボスの下でまとまることができるが、誰かが突出することは許されない。また、党派に別れて競争することも考えられるが、表立った競争はよくないことだと考えられている。そこで潜在的な緊張関係が生まれる。

そこで考え出されるのは、誰かを仲間はずれにすることだ。いっけん、仲間はずしをしているように見えるのだが、見方を変えるとそれは仲間はずれのメンバーを中心に置いていることになる。空白の中心を据えているわけである。空白の中心を置く事で仲間同士を牽制しているともいえる。

インターネットの恐ろしいところは、こうした仲間はずしがボタン一つでできてしまうところだ。スマホの普及によりこうした緊張が24時間維持されるようになってしまった。いじめが発生する要件の一つは空間が閉じられていることだから、閉じた人間関係が24時間持続することになる。すると、正のフィードバックが働いて究極の事態が起こるまで止まらなくなる。また、リーダーがいないので「これくらいで止めておけ」ということもできない。究極の事態とは対象者の自殺や完全排除だったりするのだ。

LINEはずしで空白の中心を作って組織が安定すればよいのだが、さほどの安定性はないのではないかと思う。そこで常に中心を攻撃しつづけていなければならず、攻撃がエスカレートするのではないかと考えられる。

いじめる側を教育すればいじめが解決するだろうと考える人もいる。しかし、現実には主婦が仲間はずれにされた上で自殺するという事件も起こっている。つまりいくら「みんなで仲良くしろ」と教育しても、自発性のない集団ではこうしたいじめが起こるのを止められないことが分かる。そもそも教師が暗黙の関係者として関与する(関与しないことで、間接的にいじめを黙認する)という事も起きているので「教育レベル」はいじめとは関係がないだろう。

社会学者の内藤朝雄はこうした閉鎖的な空間で起こる息苦しさを中間集団全体主義と呼んでいる。内藤が提案する解決策は閉鎖的な空間 – つまり学級をなくしてしまうことだ。

しかし、現実には学級をなくす事は不可能だ。現実的な解決方法は閉ざされた空間で行われている行為を「表沙汰」にすることだそうだ。学校は閉ざされた空間の一部であることが多いので、教育委員会に訴えて「警察」や「マスコミ」に相談しますよというと抑止力がある場合があるのだという。

非自発的な空間でなぜ平等型が機能しないのかは分からない。ひとつ考えられるのは結びつきの複雑さである。5人のネットワークには10の結びつきがある。n個の点のネットワークの数はn=(n*(n-1)/2)で示される。50人のクラスでは1,225の関係を管理しなればならない。人間の脳は150人分ほどの関係性(約10,000程になる)までは管理できるものとされているが、何らかの構造を作らないと維持管理は難しいということなのかもしれない。中心を作ると関係性の数が減るのだ。関係性を緊張関係だと考えると、いじめは緊張緩和のために行われているのだということになる。ただし、いじめられる側は緊張関係をすべて一人で引き受けなければならない。その苛烈さは想像に固くない。

もともと、人間には数千人規模の人間関係を把握する能力はない。だから、学級より大きなレベルである社会では直接民主主義的な統治方法は機能しない。

アメリカ人は強力なリーダーを作る事で規模の問題を解決した。代わりにリーダーに権力が集中しないように、リーダーを任期制にしている。ところが日本人は強力なリーダーシップを嫌う傾向があるので、祭り上げたリーダーを空白化することにした。空白のリーダーを頂くことで、平等を実現するのである。吉田松陰が唱えた一君万民論は多くの支持を集め、戦前のデモクラシー導入の大義としても掲げられた。