日本の先生はなぜダメになったのか

Quoraで面白い質問を見た。日本の先生はなぜ質が悪いのかというのだ。これに「質が悪い」という前提の回答を書いたところ先生から怒りのコメントが来た。「偏見」と決めつけて上から目線で批判されたのだが。腹は立たなかった。むしろ「あ、これは釣れるな」と思ってしまったのである。ネットで悪が生まれる瞬間を自分の中に目撃してとても面白かった。




前回NHK問題を見た。NHKという身分保障がある貴族階級の人たちには政治問題で翻弄される人たちが「雷に当たったかわいそうな人たち」に見える。取材対象としては利用したいが彼らに寄り添うことはない。そして見ている私たちも洪水報道を見るように「うちの地域じゃなくてよかった」という安心感を得られるようになっている。同じことが教育にも起こっているようだ。

このクレームを入れてきた先生は、高校の先生で東京大学教育学部を出ているらしい。まだQuoraでの活動は少ないのであまりネットには慣れていないのだと思う。学校という狭い世界の成功者でネットの常識がわからないという点では十分に釣れる条件が整っている。なので彼女は「先生の質が悪いというのはあなたの偏見であって」「Quoraでみなさんのコメントを読むよりは研究書を読んだ方がいい」と言っている。そして「一部不心得な先生はいるかもしれないがそんなものは例外に過ぎない」と続く。彼女は自分たちの評価に悪影響が及びかねないという点を気にしており、現在いじめに苦しんでいる生徒や学校の勉強に意味を見出せなかった大人には意識が及ばない。いわば「問題が起きたら地価が下がって困る」といって問題を認めない地域住民みたいなものである。

Twitterで政治議論や炎上の仕組みを散々見ている私たちはすぐさまこれが「炎上するやつだ」と気がつくはずだ。政治家にしろ相撲協会にしろ最初は「自分達の方が状況をよく知っており、知らない人たちが騒いでいるだけ」と考えて状況への対応が遅れる。彼らが気にしているのもまた「社会的評価の低下」であり問題そのものではない。このズレでソトの怒りが増幅し大抵は絶対的服従に追い込まれることになっている。

以前の「Quoraスパゲッティ論争」でみたように、人々は正解のない状況に置かれると自分の眼の前にある真実を相手が受け入れないことに怒りを感じるようになる。つまり正解がない状態で話し合って社会を再構成することが日本人にはできない。実はこの時点で相転移が起きている。最初は問題そのもの(スパゲッティーとスプーン)について議論していたはずなのだが、そのうち「自分が知っている明確な事実」を頑なに認めない「上から目線」に腹が立ってくるのである。これが定着したのがTwitterの政治論議である。

いったんこの容赦ない炎上を経験した人たちは、ネットは恐ろしいところだと感じて身をすくめることになる。相手が何で怒っているのかはわからないが、あまりにも炎上が苛烈なので「とにかく謝っておこう」となるのだろう。この「とにかく謝っておけ」フェイズに移行したのがピエール瀧騒動である。同じようなことはアメリカでも起きるのかもしれないが、少なくとも日本の炎上では「村と外の温度差」が重要な役割を果たしていることがわかる。

我々はこうした「ムラ」と「外」の温度差によって起こる炎上の仕組みを繰り返し繰り返し見ているので「なぜ、みんな対応を間違えるのだろうか?」などと思うのだが、中にいるとそれに気がつかないのだろう。だが、実は気がつかない理由はそれだけでもなさそうだ。上から目線の成功者は実は村の内部で起きている問題にも気がついていないのだと思う。

これとは別に非正規雇用の先生が使い捨てられるという問題について聞いたのだが「先生が尊敬されなくなっている」という声を聞いた。都会では父兄の学歴が高くなっているのだという。学歴が高く実際の社会を生きている都会の親には先生の行っていることが「絵空事」に見えるという乖離が起こっているようだ。非正規で不安定な人ほど村には疑問を持っているはずなのでこうした問題に敏感になる。が、体制に守られていると思う上層部の人たちは問題を過小評価する傾向にある。企業でもよく見られる態度だ。現場の声を「あなたたち非正規の人たちは狭い視野でものを見ているから大騒ぎしているだけ」といって無視する正社員がいる会社はそれほど珍しくないのではないだろうか。

危機感を抱いている先生たちとそうでない人たちの間にはかなり絶望的な乖離があるのだろうが、立場が弱い人たちほどそれを社会には訴えられない。問題提起をすれば首を切られてしまうからだ。例えば、非正規で「前線に立っている」都会の先生と、地方で尊敬されながら一方的な教育観を現場に押し付けているような先生の間で認識を共有することはとても難しいだろう。そもそも社会が再構成できない上に、状況すら違って見えている。

教育界というムラは「教育とは聖域であって社会全体が予算を取って尊重すべきである」というきれいごとをいい続けていればいいし、身分保障のある人たちは面倒を避けてこの幻想にすがっていればいい。だが、実際に問題に直面するのは現場の教師であり、私学では36%が身分保障のない非正規先生になっている。そしてその外側には意見は言わないが「今の学校教育は現場のニーズにあってない」と考えて不信感を募らせる多くの人たちがいるのである。

日本人には公共がないという話を延々としてきているのだが、人件費削減から始まった村の分断は想像以上に社会に蔓延する病になっているのではないかと思う。つまり、もともと公共がなく社会を再構成することができない上に、村という日本独自の構造体も崩されようとしているのである。